只、何にでも「道」を付けると如何も胡散臭い言葉になる。
詰まり、政治家が使用する「検討する」「遺憾に思う」などに通じる誤魔化しの為の言語と化すのである。
本来、「道」と言う言葉は二つの意味に大別される。
一つは「道徳・規範」で、もう一つは「宇宙の根源」である。
前者は孔子(紀元前551〜同479年)が説いた言葉であり、後者は老子(紀元前5〜同4世紀と推定される)が最も重要視した言葉である。
古代中国の諸子百家の中でも、孔子(儒家)と老子(道家)の考え方は真逆であり、道家は「無為自然」(作為をなさず、ありのままに生きる)や「上善は水の如し」(最上の善は水の様に争わず、目立たない処で満足する)などの言葉で、儒家を否定した。
中国思想を道徳の基礎に置いてきた日本では、儒家の思想は強者(支配者層)の物であり、道家の思想は弱者と言うよりも、余り社会と関わらない隠遁者の理想であった。
我が国の経済人(経営者)の多くは、孔子の思想を敬愛する。
確かに、只管に規範を求める者は、詰まり「処世術」を身に付ける者である為、社会の支配者層に属し、隠遁者とは「逃走者」である為、抑々処世には興味を示さず、処世術的な意味においての成功を収める事もない。
と言う様に、権力闘争の場においての「道」とは儒家的規範を意味するのであるが、芸術や芸能に関しての道は如何だろうか。
詰まり、芸術家は処世よりも、「宇宙の根源」と言った決して把握できない物を把握しようとあがく存在なのである。
只、〇〇会理事とか会員と言った権力志向の書家は多い。
本来はそんな所から最も遠い所に居なければならないはずなのに。
矢原 繁長・美術エッセイスト
愛媛新聞 四季録から
権力志向の書家は多いらしい。
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