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2020年10月26日

岩倉城 〜土塁や馬出が残る中世城館・豊田市〜

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◆所在:
豊田市岩倉町城ノ浦













◆歴史:
現地の案内板などによると、室町時代にこの地を領有した戸田氏、岩倉氏、天野氏の居城と言われている。

顕正寺に残されている戸田直矣(直次)の由緒板には、戸田宗光の次男である戸田玄蕃の子孫が築いた城となっているが、岩倉氏は戸田氏がこの地に進出する以前に土地を治めていた豪族で、応仁年間(1467年〜1468年)頃、一帯に勢力を伸ばしてきた松平信光に対し、岩倉城主であった岩倉源兵衛は、保久城の山下重久、大給城の長坂新左衛門らと共に円川で戦いを挑み敗北。岩倉勢は四散したと伝えられている。











岩倉城は、山麓にあった岩倉屋敷の詰城のような物を、室町末期に戸田氏が進出してきた際に、尾根上に実践的な城を築いたと考えられる。

◆現在:
本郭周囲に土塁や堀切、馬出しが残されているが、ほとんど整備されておらず、竹藪に覆われている。
詰城と居館跡は畑地などになっており、土塁らしき痕跡もあるが、当時の物かは不明である。











2020年09月27日

梟ヶ城 〜フクロウが鳴いて敵を知らせた・豊田市〜

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◆所在:
豊田市豊松町西ヶ入

◆歴史:
築城年など詳細は不明。
夜中に梟が鳴き、敵襲を知った城側が守りを固めて、敵を撃退したと言われている。













立地から見て大田城、もしくは大給城の出城であり、北側を流れる巴川と、それに沿って作られた足助街道を見張る砦だったと思われる。

◆現在:
北側にある大滝渓谷と併せたハイキングコースの中に入っている他、大岩が多い土地のため、フリークライミングの練習地にもなっているようである。









2020年09月21日

古瀬間城 〜松平郷西方を守る城・豊田市〜

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◆別名:
巴城

◆所在:
豊田市志賀町城山

◆歴史:
永生3年(1506年)松平宗忠によって築かれた城である。
宗忠は松平宗家の三代目信光より分かれた長沢松平勝宗の息子で、当初は松平家が寺部城の鈴木氏を攻略する拠点として築城した。宗忠は岩津城へと移ったが、古瀬間城は宗忠の息子である親常が城主を継いでいる。














後に尾張の織田氏、駿河の今川氏との戦の中では丸根城と共に西方を守る重要拠点となるが、徳川家康の関東移封に伴い、廃城になったと伝わる。

◆現在:
浄願寺境内から城址公園に続く遊歩道が整備され、公園内には見張り櫓が復元されている。













2020年09月02日

金谷城 〜高橋郷を支配していた中条氏の城・豊田市〜

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◆別名:
挙母城 ・ 衣城

◆所在:
豊田市金谷町1





◆歴史:
鎌倉時代から中条氏の居館として存在していたが、延慶2年(1309年)に中条景長の手によって軍事目的の城館として本格的に築かれた城。

中条氏は小野篁の子孫である小野孝泰が武蔵の国横山郷に土着し、孝泰の息子が横山義孝を名乗った事が始まりとされ、義孝の孫である成任は埼玉郡成田を所領として成田大夫を称し、一族は源義朝、頼朝父子に仕えて側近として活躍して、家永の代に本姓の藤原氏を称して中条氏を名乗り、承久の乱の際は大江広元と共に鎌倉の留守居役を務めた功により尾張守護と高橋荘(この当時挙母は尾張の一部だった)の地頭職を得る事になった。

家永の子孫である景長は延慶二年(1309年)に三河国の代官となり挙母へ赴任し、代々支配してきた高橋荘に軍事用の居城を築いたと言われ、これが現在の金谷城である。
景長は矢作合戦で新田義貞と戦い負傷。弟の秀長に家督を譲り、秀長は足利幕府で重きをなした後、出家して伊保古城に隠棲する事になる。
室町時代に所領を召し上げられ、三河守護は東条氏、尾張守護は斯波氏へと支配権が移って行ったが、高橋荘は子孫へ戻され、挙母地区は中条氏の支配が続いていった。





室町幕府が崩壊の兆しを見せる中、安祥城主である松平親忠との争いが激しさを増し、伊保古城の三宅氏、寺部城の鈴木氏、八草城の那須氏、上野城の阿部氏らを率いて明応2年(1493年)に井野田の地で松平郡と戦うも敗北を喫する。

これにより中条氏の勢力は衰退の道をたどり、駿河の今川氏の侵攻を受けた後、永禄元年(1558年)に岡崎城の松平元康に攻められて降伏。永禄4年(1562年)には織田信長の侵攻に耐え切れず、一戦もせずに金谷城を明け渡して配下の森豊後守の居城である森城へ逃げ込んだ。
これによって中条氏の長年にわたる挙母地区支配は終わりを告げる事になった。





なお、江戸時代に内藤氏によって七州城が新たに築かれ、挙母城と呼ばれるまでは、挙母城は金谷城の事を指していた。

◆現在:
勝手神社の境内に城址碑が残されている。
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