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2020年10月27日
鴨ヶ谷城 〜鳥居強右衛門が眠る地・新城市〜
鳥居強右衛門の墓
◆所在:
新城市作手鴨ヶ谷門前
◆歴史:
南北朝時代、上野国甘楽郡(現在の群馬県南西部)一帯に勢力を保っていた奥平氏は南朝方に属していた。
奥平氏の外戚である山崎氏は近隣に領地を構えていたが、北朝方に追い出され、同じ南朝方に属していた作手の地へと落ち延びた。
奥平氏八代目の貞俊の時代には南朝方の衰退が著しく、奥平氏も甘楽郡を追われ、山崎氏を頼って作手の地へと落ち延びてきたが、北朝方の追及も厳しかったようで、応安3年(1370年)当時の将軍であった足利吉満から御朱印を受けた甘泉寺に居を定めたと言われている。
その後、貞俊は川尻城を築き作手一帯を支配するが、武田、徳川、織田の抗争に巻き込まれ、長篠城の籠城戦を経て、江戸時代には徳川御連枝として、子孫は作手藩主などの大名となっている。
城主に加藤源左衛門などの名前を見る事ができるが、奥平氏に仕えた人物である事以外の詳細は不明である。
◆現在:
甘泉寺とその裏山が城跡と言われているが、遺構などは存在しない。
甘泉寺境内には長篠の合戦で磔にされた鳥居強右衛門の墓が存在する。
2020年10月17日
野田城 〜武田信玄が狙撃された地・新城市〜
◆別名:
根古屋城・三河野田城
◆所在:
新城市豊島本城
◆歴史:
足利尊氏によって設楽・宝飯郡一帯の支配を命ぜられた富永氏であったが、戦国時代に入ると、田峯城の菅沼氏、亀山城の奥田氏などの勢力に押され、本拠地の富永館周囲4ヶ村を支配するのみに衰退する。8代当主の富永千若丸が乱心自害すると富永氏の血が絶えたため、永正2年(1505年)今泉四郎兵衛は他家から嗣子を迎える事を画策し、田峯城の菅沼定忠の三男竹千代(後の菅沼定則)を養子に迎える事になる。翌永正3年(1506年)富永勝永など反対勢力の離反を経て、富永館へ入場した竹千代は拠点を野田館と改め、支配を固めて行った。
三河松平氏と駿河今川氏の間での戦乱が激しくなってきた永正5年(1508年)に元服を果たした菅沼定則は、防御と豊川の水害対策として野田城の築城に着手し、8年の歳月を経て完成した野田城に本拠地を移した。今川氏に従属していた野田菅沼氏であったが、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反。永禄4年(1561年)今川軍に攻囲され一旦は開城したものの、翌永禄5年(1562年)に菅沼定盈が夜襲によって奪回する。
野田城は2年に渡る戦で損壊が激しかったため大野田城に拠点を移し、野田城の修復を図った定盈であったが、元亀2年(1571年)甲州武田軍の遠江・三河侵攻が本格化すると、大野田城は山県昌景らの攻撃により大野田城は破壊されたため、修復中の野田城へと籠城。元亀4年(1573年)に入ると武田軍の攻撃を支えきれずに開城降伏し、定盈は武田軍の捕虜となったものの、武田信玄の病状が悪化し武田軍は撤兵。捕虜交換で徳川方に戻った定盈は天正2年(1574年)に野田城を奪還し、城主として再入場している。
天正18年(1590年)徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随して上野阿保1万石を得る事となり、野田の地は吉田城へ入った池田輝政の支配下となり、片桐半右衛門が石田城を築いて本拠とし、一帯を支配したため野田城は廃城となったとされる。
◆現在:
各曲輪及び空堀や土塁が残されているが、北側の谷などは埋め立てが進められており少しずつではあるが、遺構が縮小されている。
また、城門は西隣の法性寺へ移築されている。
2020年10月05日
杉山端城 〜交通の要所に築かれた城館・新城市〜
◆所在:
新城市杉山字端城26−5
◆歴史:
永禄4年(1561年)に菅沼定氏が築いた城館である。
この頃、東三河に住む豪族の大半は今川氏に従っていたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げると、松平元康は今川家から独立を図り、東三河の豪族達もこれに従う者が増えていった。
義元の死後、後を継いだ今川氏真は兵を出すなどして、今川氏から離反する豪族討伐を行い、永禄4年(1561年)には吉田城主の小原鎮実に命じて菅沼定盈の居城である野田城を攻略したが、翌永禄5年(1562年)には今川勢の隙をついて、定盈が奪還を果たしている。
野田城を追い出された格好になった今川軍は、近隣の新城古城を攻撃するが、城主の菅沼定氏らの奮戦により、ここでも敗退してしまう。
今川軍を撃退した菅沼定氏であったが、新城古城の損壊は激しく、作手街道の入り口にあたる地に杉山端城を築いて居城とした。
元亀元年(1570年)になると、南に600mの伊奈街道沿いに道目記城を築いて、さらに居城を移しているが、杉山端城の遺構は残したままである事から、道目記城は今川軍が来襲した時の前衛となる城で、杉山端城は、いざとなった時に菅沼氏の本拠地である田峯城へと落ち延びる際に、敵勢を食い止める目的もあったのではないかと思われる。
元亀4年(1573年)甲斐の武田信玄が東三河へと侵攻し、菅沼氏は降伏を余儀なくされる。この際、信玄は道目記城を接収して拠点としている。
信玄亡き後、新城は奥平氏の治める所となり、今泉七郎左衛門が城代となり、奥平氏が関東へ移封された後は、吉田城主となった池田輝政の家臣である高木又左衛門が城代となっている。
その後、菅沼氏の代官を経て、新城城に入った水野分長が支配していたが、水野氏の上州移転とともに杉山端城は廃城となったと伝わる。
新城の地には多数の城館が存在するが、杉山端城は作手街道への入り口に位置しており、豊川を遡って来た船荷などは新城で陸揚げされ、作手街道を通って信濃へと運ばれていた事も考えると、戦時の城と言うよりは、街道を往来する人々を守り、監視する目的が強く、このため、他の城館に比べて長期間に渡って存在できたのではないかと考えられる。
◆現在:
道路脇に碑が残るのみで遺構などは存在しない。