2023年10月05日
黒瀬圭子さん逝く 子どもへの「語り」に込めた平和の願い
黒瀬圭子さん逝く 子どもへの「語り」に込めた平和の願いさん逝く 子どもへの「語り」に込めた平和の願い
海峡の街、山口県下関市を照らしてきた文化の明かりがまた一つ、消えた。9月16日、児童文学者・黒瀬圭子さんが90歳で亡くなった。笑顔がチャーミングで、民話に登場するおばあちゃんのような人だった。優しい語り口で子どもたちの聞く耳を育て、平和の尊さを伝え続けた。
6月12日、同じく90歳で亡くなった旧知の写真家・吉岡一生さんの葬儀で顔を合わせた。なじみの洋食店に行き、完食した黒瀬さんは淡々とこう言った。「私は90歳の実感がないのよ。何でも自分で出来るから」。それから3カ月後、突然の訃報(ふほう)だった。
北九州市門司区生まれで、結婚を機に下関市で暮らし始めた。1976年、市立勝山公民館に母と子の図書室「あおやま文庫」を開設。読み聞かせグループ「あかね会」の代表も長く務めた。草分けとなった活動は今も脈々と受け継がれている。
87年の山口県子ども文庫連絡会の結成にも尽力した。会長で山陽小野田市立中央図書館長の山本安彦さん(71)は「原動力となり、発足してからも随分支えていただいた。多くの作家を紹介して下さった。人を育てるのが上手だった」と振り返る。
戦争体験の語り部でもあった。45年8月15日、ラジオから流れる玉音放送を正座して聞いた。当時は門司高等女学校の1年生。4男3女の7人きょうだいで、3人の兄は戦地や学徒動員先のセメント工場などで次々に命を落とした。まず同人誌に書き、絵本になった「白いなす」は空襲警報におびえた自身の体験を基にしている。
「関門海峡はたくさんの兵隊を戦地へ送った悲しい海でした。戦争によって、毎日の幸せな暮らしがなくなってしまう。自由に生きる喜びを伝えたい」。絵本に込めた思いをそう語っていた。
昨春開館した北九州市平和のまちミュージアムに、黒瀬さんの体験を映像とともに紹介するコーナーがある。「母が国防婦人会の一員でした。千人針をつくるため、母について街頭に立ったことがあります」
取材ではくすっと笑えるエピソードを度々聞いた。「戦後、母の実家の熊本へ身を寄せていたんです。よその畑に夜中、スイカ泥棒に行ったり、川に飛び込んだりした。解き放たれて、楽しい思い出がいっぱいです」「戦争が終わったのに、いつもの習慣で脚半をして登校し、みんなに笑われました」。
自宅はしだれ桜が美しい住吉神社のそばにあり、境内で花見に興じるのが恒例だった。朗らかな黒瀬さんの周りには、いつも笑顔の花が咲いた。
子どもに物語を聞かせる術は、北九州・小倉の童話作家で到津遊園(現・到津の森公園)の園長を務めた阿南哲朗氏から学んだ。「小倉名物太鼓の祇園……」と始まる小倉祇園太鼓のおはやしを作詞した人物だ。小倉に生まれ、夏になると血が騒ぐ私には、その点でも黒瀬さんとの縁を感じていた。
2年前の夏、自宅で取材した際に撮った写真を気に入ってくれて、「遺影にすると決めてるの」と話していた。葬儀会場で、その「遺影」の今にも語り出しそうな表情を前にして、涙があふれた。「子どもの心に届くのは大人の生の声」。そんな信念をもって、一途に語り続けた姿を思い返した。
黒瀬さんと吉岡さん、そして下関の児童書専門店「こどもの広場」代表の横山真佐子さんと、私の現在の勤務地、大分県中津市にある耶馬渓を訪ねたのは昨年11月のことだ。
今年も、もうじき耶馬渓は紅葉に彩られる。黒瀬さんの笑顔と重ね合わせて見ることだろう。(貞松慎二郎)
海峡の街、山口県下関市を照らしてきた文化の明かりがまた一つ、消えた。9月16日、児童文学者・黒瀬圭子さんが90歳で亡くなった。笑顔がチャーミングで、民話に登場するおばあちゃんのような人だった。優しい語り口で子どもたちの聞く耳を育て、平和の尊さを伝え続けた。
6月12日、同じく90歳で亡くなった旧知の写真家・吉岡一生さんの葬儀で顔を合わせた。なじみの洋食店に行き、完食した黒瀬さんは淡々とこう言った。「私は90歳の実感がないのよ。何でも自分で出来るから」。それから3カ月後、突然の訃報(ふほう)だった。
北九州市門司区生まれで、結婚を機に下関市で暮らし始めた。1976年、市立勝山公民館に母と子の図書室「あおやま文庫」を開設。読み聞かせグループ「あかね会」の代表も長く務めた。草分けとなった活動は今も脈々と受け継がれている。
87年の山口県子ども文庫連絡会の結成にも尽力した。会長で山陽小野田市立中央図書館長の山本安彦さん(71)は「原動力となり、発足してからも随分支えていただいた。多くの作家を紹介して下さった。人を育てるのが上手だった」と振り返る。
戦争体験の語り部でもあった。45年8月15日、ラジオから流れる玉音放送を正座して聞いた。当時は門司高等女学校の1年生。4男3女の7人きょうだいで、3人の兄は戦地や学徒動員先のセメント工場などで次々に命を落とした。まず同人誌に書き、絵本になった「白いなす」は空襲警報におびえた自身の体験を基にしている。
「関門海峡はたくさんの兵隊を戦地へ送った悲しい海でした。戦争によって、毎日の幸せな暮らしがなくなってしまう。自由に生きる喜びを伝えたい」。絵本に込めた思いをそう語っていた。
昨春開館した北九州市平和のまちミュージアムに、黒瀬さんの体験を映像とともに紹介するコーナーがある。「母が国防婦人会の一員でした。千人針をつくるため、母について街頭に立ったことがあります」
取材ではくすっと笑えるエピソードを度々聞いた。「戦後、母の実家の熊本へ身を寄せていたんです。よその畑に夜中、スイカ泥棒に行ったり、川に飛び込んだりした。解き放たれて、楽しい思い出がいっぱいです」「戦争が終わったのに、いつもの習慣で脚半をして登校し、みんなに笑われました」。
自宅はしだれ桜が美しい住吉神社のそばにあり、境内で花見に興じるのが恒例だった。朗らかな黒瀬さんの周りには、いつも笑顔の花が咲いた。
子どもに物語を聞かせる術は、北九州・小倉の童話作家で到津遊園(現・到津の森公園)の園長を務めた阿南哲朗氏から学んだ。「小倉名物太鼓の祇園……」と始まる小倉祇園太鼓のおはやしを作詞した人物だ。小倉に生まれ、夏になると血が騒ぐ私には、その点でも黒瀬さんとの縁を感じていた。
2年前の夏、自宅で取材した際に撮った写真を気に入ってくれて、「遺影にすると決めてるの」と話していた。葬儀会場で、その「遺影」の今にも語り出しそうな表情を前にして、涙があふれた。「子どもの心に届くのは大人の生の声」。そんな信念をもって、一途に語り続けた姿を思い返した。
黒瀬さんと吉岡さん、そして下関の児童書専門店「こどもの広場」代表の横山真佐子さんと、私の現在の勤務地、大分県中津市にある耶馬渓を訪ねたのは昨年11月のことだ。
今年も、もうじき耶馬渓は紅葉に彩られる。黒瀬さんの笑顔と重ね合わせて見ることだろう。(貞松慎二郎)
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