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【報告】明智光秀公 首塚


久しぶりの更新。

明智光秀を偲び、ゆかりの地を訪ねて始めたブログ。

更に2年ちかく更新してませんでした・・・・

生きてましたよ

てことでまたまた久しぶりに縁の地に行ってきたので報告します。

2011年5月に訪問した亀岡の首塚
https://fanblogs.jp/akechimituhide/archive/31/0

とは異なり、ここには京都市東山区。骨壺も納められています。



2014年12月に更新した内容の続きとなる場所

天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の

戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刀、最後を遂げたと言われる。

家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。
                                                                   京都市



世界ふしぎ発見
第1401回
新説 本能寺の変 434年目の真実

2016年7月9日 夜9時〜
リンクhttp://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20160709/p_1.html

にて放送されました。

明智光秀公を尊ぶ者としては非常に嬉しく想いました。

「本能寺の変 四二七年目の真実」の著者、御氏族である明智憲三郎さんも拝顔させて頂き喜びもひとしお。



目印となる場所はここ! 

「餅寅」

江戸時代から続く老舗の和菓子屋さん。代々敷地内にある首塚の祠を守ってきました。

名物は光秀まんじゅう



お店の外観明智光秀 饅頭 首塚



IMG_2582.JPG






お店の角地には明智光秀墳の石碑が
明智光秀 首塚

続く


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明智光秀最後の地 明智藪・本経寺境内

久しぶりの更新。

明智光秀を偲び、ゆかりの地を訪ねて始めたブログ。

2年以上更新してませんでした・・・・

生きてましたよ

てことで今日は久しぶりに縁の地に行ってきたので報告します。



1582年山崎の合戦に敗れ、坂本城へ退却しようとした光秀。
2014年での推奨ルートは

徒歩では6時間半もかかるんですね。

その道半ばにある本経寺。

【明智軍記】にある、「小栗栖の竹薮で土民の竹槍に刺された」とされている場所。
本能寺の変を起こし、秀吉との天下分け目の合戦(山崎の合戦)に敗れた光秀はここ小栗栖で息絶えたとされている。



小栗栖街道から中に入ると小栗栖八幡宮前に案内標識がありました。
IMG_1799.JPG
標識に従って道を進むとさらにお地蔵さん横に標識。
IMG_1804.JPG
更に進むと民家前にまた標識。
IMG_1805.JPG
まずは本経寺へ向かいます。
ここから少し坂道を登るともう境内にはいります。
外観
IMG_1810.JPG
階段を上り、本堂左側にありました。
IMG_1806.JPG

IMG_1807.JPG
供養塔。
IMG_1808.JPG

このホームページをご覧の方は明智光秀公に少しでも興味がある方だと思うので是非近くにお立ち寄りの際はお参りください。






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明智光秀公追善法要

IMG_0251.jpg
命日に行われる法要。
菩提寺とされる滋賀県は西教寺。

明智光秀公を慕う者であれば是非参加されてみては。

明智光秀顕彰会
http://akechimitsuhide.net/






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本能寺跡地

この季節、歴史的事象が。

信長の首は何処に。




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明智左馬之助の恋









明智光秀公首塚〜亀岡〜


京都は今日は暑い。
この時期に永代語り継がれる歴史的事象が発現する。
天正10年(1582年)5/15徳川家康が安土城の織田信長に招かれ参上、接待役明智光秀公による歓待を受ける。 この時に「本能寺の変」への大詰めとして、家康・細川藤孝(幽斎)・光秀公の密談が行われたのであろう。
5/17織田信長が明智光秀公に、徳川家康の接待役を解き中国出陣を命じる。その理由は諸説あるが長年にわたり尽力を尽くし築き上げた亀岡・福知山の地を奪われた光秀公の心中は察する。


写真は谷性寺(亀岡市)。光秀公首塚は白川筋にもある。谷性寺の首塚は亀岡の民に愛された光秀公を偲んで造られたのではないかと考えられる。


『心しらぬ人は何とも謂はば謂へ 身をも惜まじ名をも惜まじ』






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明智光秀展

戦国武将の明智光秀直筆の書状やゆかりの品が見られる「明智光秀展」が、大津市坂本5の西教寺で開かれている。5日まで。

 坂本城主だった光秀は西教寺とのかかわりが深く、光秀の命日とされる6月14日に営まれる法要前の大型連休に合わせ、寺が保管するゆかりの品が公開されている。

 本堂隣の表書院に戦死した部下18人を供養した際の光秀直筆の書状などを展示。主催側が現代語に訳した明智家の軍法も掲示され、光秀の人となりに触れることができる。

 主催する明智光秀公顕彰会の中島真瑞代表幹事(74)は「ファンが多い武将。展示品で人物像を感じ取ってほしい」と話す。
毎日jpより








明智光秀公の高野山墓(高野山昭和初期)

ある古本屋で珍しい写真を見つけた。現在の高野山明智光秀公の墓とはかけ離れた質素な墓。

上記写真裏面。

現在↓
明智光秀.jpg





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明智光秀公〜首塚〜

京都は亀岡。谷性寺は通称光秀寺と呼ばれている。天正年間明智光秀公は本尊不動明王をあつく尊信し将兵はその加護をう。光秀公が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらしその功徳を得て本懐を遂げた。又真言宗の祖山高野山は「信長の高野攻め」の危難をまぬがる。天正10年(1582年)光秀公、秀吉の軍と天王山で戦って敗れ、坂本上に向かう途中山科小栗栖で落命、随従していた四天王の一人溝尾庄兵衛が介錯なし、近臣に托し生前光秀公の尊信あつかった当寺不動明王のもとに手厚く葬るよう命じて坂本に去った。

 光秀公の善政は挙げて限りなく当亀岡ではその遺徳を偲ぶ声が巷に溢れ、光秀公顕彰会の発表をみ、光秀祭りの多彩な行事となっていった。その後亀岡春まつりと名称は変わったが光秀主従の武者行列を中心とする春まつりは先づ谷性寺の光秀公首塚墓前での追善供養の後、繰り広げられ毎年五月三日の亀岡を飾る。公の家紋の桔梗は七月初日から九月に至るまで次々と咲きみだれ境内が桔梗一色に塗りひろげられるところから人呼んで「桔梗寺」という。周囲の山を借景にした眺めはまた絶佳というべく戦国武将光秀公の心につながる。谷性寺HP引用







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