2011年05月21日
明智光秀公首塚〜亀岡〜
京都は今日は暑い。
この時期に永代語り継がれる歴史的事象が発現する。
天正10年(1582年)5/15徳川家康が安土城の織田信長に招かれ参上、接待役明智光秀公による歓待を受ける。 この時に「本能寺の変」への大詰めとして、家康・細川藤孝(幽斎)・光秀公の密談が行われたのであろう。
5/17織田信長が明智光秀公に、徳川家康の接待役を解き中国出陣を命じる。その理由は諸説あるが長年にわたり尽力を尽くし築き上げた亀岡・福知山の地を奪われた光秀公の心中は察する。
写真は谷性寺(亀岡市)。光秀公首塚は白川筋にもある。谷性寺の首塚は亀岡の民に愛された光秀公を偲んで造られたのではないかと考えられる。
『心しらぬ人は何とも謂はば謂へ 身をも惜まじ名をも惜まじ』
戦国時代 ブログランキングへ
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
この記事へのコメント