その後の小沢氏については詳細は不明だが、建暦三年の和田合戦で、和田義盛に
与した横山党は敗れて壊滅したため、小沢氏もこのとき滅亡したと考えられる。
は、金子氏が小沢城に拠っていたと考えられているため、遅くとも室町時代までには小沢氏は
小沢古城は、三方を細尾根に囲まれ、残る一方は相模川の河岸となった、擂鉢状の特異な
擂鉢の中心部は字「城の内」と呼ばれ、主郭ないし居館跡と推測されて
さながらミニチュア版の鎌倉のような縄張りといえます。
現在、主郭部は工場となっていて、立ち入ることはできません。
城内へは西の尾根から入る道があり、城外とは橋で
結ばれていたようで、以前は架橋跡や門跡、濠跡があったそうですが、今では失われている
『日本城郭大系』では、文明九年の長尾景春の乱で金子掃部助が籠もった小沢城
戦術の変化に伴い鎌倉時代末期に杉本城を築いたというのに、戦国時代初期にもなって
多面防御の城を実用していたとは考えにくいように思われるからです。
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