敷地の中心に御殿を配し、稲荷社が鬼門の方角に配された。
西側には馬場などがあったが、後述の焼き討ちで焼失してしまった。
慶応3年(1867年)秋頃から冬にかけ、関東では勤王のためと称し薩摩藩士ら中心による集団強盗が横行、愛甲地区も被害が多数出ていた 12月15日、江戸薩摩藩邸に集まった鯉渕四郎ら薩摩藩士中心の倒幕派浪士隊は、山中藩主が甲府城勤番のため留守であった山中陣屋を夜襲、焼き討ちした。
その際即死3人、深手を負った2名の内当代官が3日後死去、さらに12月16日早朝、集団は厚木川入村の佐野家へ押し入り金品を強奪し、津久井方面へ向かうなど藩と領民に衝撃を与える。
1871年(明治4年)に荻野山中県が廃止された後に、陣屋跡の一部は民間に払い下げられた。
残地は官地となったが、それも1932年(昭和7年)には払い下げられることになった(その際に、史跡を記念して「山中城址」碑が建立された)。
厚木市は、1970年(昭和45年)に跡地を史跡に指定した。
同公園は、地下の史跡を保護するために盛り土が行われ、地上の構造物は最小限にとどめられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/荻野山中陣屋