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2021年01月07日
映画「ブレイブ ワン」‐ ニューヨークの夜に浮かび上がるもう一人の自分, そして衝撃のラストへ
「ブレイブ ワン」(The Brave One ) 2007年
アメリカ / オーストラリア
監督ニール・ジョーダン
脚本ロドリック・テイラー
ブルース・A・テイラー
シンシア・モート
音楽ダリオ・マリアネッリ
撮影フィリップ・ルースロ
〈キャスト〉
ジョディ・フォスター テレンス・ハワード
メアリー・スティーンバージェン
結論から言ってしまえば、女性版「狼よさらば」。
1972年にマイケル・ウィナー監督、チャールズ・ブロンソン主演で作られた「狼よさらば」は、街のチンピラグループに妻を殺され、娘をレイプされた男が、かつてアメリカに根付いていた自警の精神に目覚め、銃を手に入れて犯罪者を処刑(射殺)していくという話でした。
あきらかに「狼よさらば」を下敷きにしたと思われる「ブレイブ ワン」なのですが、違うところは、主人公が男性ではなく若い女性(多少無理はありますが)であるということと、「狼よさらば」が妻子を凌辱した犯人に対する復讐劇ではなく、社会の悪そのものに目を向けられていたのに対し、「ブレイブ ワン」では犯人への復讐に主眼が置かれていること。
エリカ・ベイン(ジョディ・フォスター)はニューヨークでラジオパーソナリティーを務め、恋人デイビッド(ナヴィーン・アンドリュース)との結婚を目前に控えて幸せな日々を送っています。
そんな二人は夜、デイビッドの愛犬を連れて散歩の途中、三人の暴漢にからまれ、袋叩きにされてデイビッドは死亡、エリカは一命をとりとめますが、事件の衝撃から立ち直ることができず、心に傷を負ったまま外出もできない状態が続きます。
警察は事件の捜査をつづけますが、警察署の対応に嫌気がさしたエリカは護身のための銃を買おうと銃器店に入りますが、ライセンス取得のために日数を要すると言われ、銃の購入をあきらめかけた直後、アジア系の男に声をかけられ、闇でオートマチックの拳銃を手に入れます。
ある夜、買い物のために立ち寄ったコンビニエンスストアでエリカは強盗事件に遭遇。店主の女性を射殺した犯人に追い詰められながらも、エリカは強盗を射殺してしまいます。
コンビニ事件を担当したショーン・マーサー刑事(テレンス・ハワード)とも親しくなる中、エリカの中でもう一人の自分が目覚め、地下鉄の暴漢を平然と射殺する、歯止めのきかない自分に気づきます。
事件を捜査するマーサー刑事は、犯人が男性ではなく女性であることに気づき、親しくなったエリカの言動に不審を抱くようになります。
やがて、エリカを襲った暴漢グループの所在が明るみに出始め、破滅を覚悟したエリカはマーサーに別れのメッセージを残し、ひとり、復讐の死地へと向かいます。
「狼よさらば」でもそうでしたが、法の裁きを経ずに犯罪者を処刑してゆく人間に対して、世論からは賛否両論の声が上がります。そして、それはそのまま、映画を見ている私たち観客に対してへの問いかけでもあります。エリカ・ベインのやっていることは正しいのか?
私たちは無法地帯に暮らしているわけではなく、法治国家に住んでいる以上、どんな犯罪者であろうとも法の裁きを経て審判が下されなければいけない。
だから、エリカは間違っている。
しかし、そう単純に決められないところに人間社会の、モヤモヤとした複雑さがあります。
「ブレイブ ワン」でエリカ・ベインの犯す殺人の設定には同じパターンはなくて、コンビニ強盗であったり、地下鉄の暴漢であったり、セックスにからんだ娼婦への暴行、さらに、マーサー刑事たちが追いかけながらも捕まえることできなかった犯罪組織の極悪なボスなどが登場しますが、これは社会悪の暴力の象徴として考えることができます。
それらを抹殺する中でエリカは煩悶します。殺さなくても、銃で脅すだけでよかったのではないか。
しかしまた、人間には自分で気づかないもう一人の自分がいることに気づくことがあります。
「アラビアのロレンス」(1962年)の中で、重傷を負って、とても助かる見込みがないと分かったロレンスの従者の少年を、楽にしてあげようとロレンスが銃で撃ち殺してしまう場面があります。
しかしロレンスは一発で仕留めるのではなく、二発三発と少年の体に銃弾を撃ち込みます。
そのときの邪悪な自分を振り返ってロレンスはこう言います。
「私は彼を殺すことを楽しんでいた」
「ブレイブ ワン」のラストでは、エリカの復讐が遂げられようとしている場面を私たちは目撃するのですが、そこへ現れたマーサー刑事の視点に立って、自分ならどうするだろうという問いかけが突きつけられます。
エリカの殺人をやめさせ、法に従うようエリカを説得するのか、それとも…。
マーサー刑事は「合法的な銃を使え」とエリカに自分の銃を渡し、復讐を遂げさせます。
このラストを、間違っている、と感じるのが正常な感覚であるかとも思います。法の番人たる警察官が殺人に手を貸したのですから。
「目には目を 歯には歯を」は、やられたらやり返せという意味ではありませんが、人の命を奪った者に対しては、その人の命で償うのが本当だと思いますから(明確に犯人が特定された場合に限ります)、映画としての、このラストはいささか衝撃的でしたが、個人的には納得してしまいました。
監督は、「クライング・ゲーム」(1992年)、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994年)のニール・ジョーダン。
ヒロイン、エリカ・ベインに、「ダウンタウン物語」、「タクシードライバー」(1976年)で天才子役と騒がれながらも映画界を離れ、後に「告発の行方」(1988年)、「羊たちの沈黙」(1991年)で二度オスカーを受賞したジョディ・フォスター。
エリカの心のよりどころとなるマーサー刑事に、「クラッシュ」、「Ray/レイ」(2004年)などのテレンス・ハワード。
ラジオ局のディレクター、キャロルに「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」(1990年)、「ギルバート・ブレイク」(1993年)、「ニクソン」(1995年)などの実力派で、1980年の「メルビンとハワード」ではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞しているメアリー・スティーンバージェン。
暴力という社会的で普遍的なテーマとエンターテインメントをうまく一つにまとめ上げた見応えのある映画。
ただ、欲を言えば、ジョディ・フォスターもいいのですが、さすがに40代半ばに達していて、これから結婚しようという女性を演じるにはちょっと無理があったかなあ。
一度結婚に失敗して、新たな幸せをつかめると思った矢先に暴力事件に巻き込まれるとか、そんなほうが良かったような気もしました。
「羊たちの沈黙」のころだと良かったのですがね。
アメリカ / オーストラリア
監督ニール・ジョーダン
脚本ロドリック・テイラー
ブルース・A・テイラー
シンシア・モート
音楽ダリオ・マリアネッリ
撮影フィリップ・ルースロ
〈キャスト〉
ジョディ・フォスター テレンス・ハワード
メアリー・スティーンバージェン
結論から言ってしまえば、女性版「狼よさらば」。
1972年にマイケル・ウィナー監督、チャールズ・ブロンソン主演で作られた「狼よさらば」は、街のチンピラグループに妻を殺され、娘をレイプされた男が、かつてアメリカに根付いていた自警の精神に目覚め、銃を手に入れて犯罪者を処刑(射殺)していくという話でした。
あきらかに「狼よさらば」を下敷きにしたと思われる「ブレイブ ワン」なのですが、違うところは、主人公が男性ではなく若い女性(多少無理はありますが)であるということと、「狼よさらば」が妻子を凌辱した犯人に対する復讐劇ではなく、社会の悪そのものに目を向けられていたのに対し、「ブレイブ ワン」では犯人への復讐に主眼が置かれていること。
エリカ・ベイン(ジョディ・フォスター)はニューヨークでラジオパーソナリティーを務め、恋人デイビッド(ナヴィーン・アンドリュース)との結婚を目前に控えて幸せな日々を送っています。
そんな二人は夜、デイビッドの愛犬を連れて散歩の途中、三人の暴漢にからまれ、袋叩きにされてデイビッドは死亡、エリカは一命をとりとめますが、事件の衝撃から立ち直ることができず、心に傷を負ったまま外出もできない状態が続きます。
警察は事件の捜査をつづけますが、警察署の対応に嫌気がさしたエリカは護身のための銃を買おうと銃器店に入りますが、ライセンス取得のために日数を要すると言われ、銃の購入をあきらめかけた直後、アジア系の男に声をかけられ、闇でオートマチックの拳銃を手に入れます。
ある夜、買い物のために立ち寄ったコンビニエンスストアでエリカは強盗事件に遭遇。店主の女性を射殺した犯人に追い詰められながらも、エリカは強盗を射殺してしまいます。
コンビニ事件を担当したショーン・マーサー刑事(テレンス・ハワード)とも親しくなる中、エリカの中でもう一人の自分が目覚め、地下鉄の暴漢を平然と射殺する、歯止めのきかない自分に気づきます。
事件を捜査するマーサー刑事は、犯人が男性ではなく女性であることに気づき、親しくなったエリカの言動に不審を抱くようになります。
やがて、エリカを襲った暴漢グループの所在が明るみに出始め、破滅を覚悟したエリカはマーサーに別れのメッセージを残し、ひとり、復讐の死地へと向かいます。
「狼よさらば」でもそうでしたが、法の裁きを経ずに犯罪者を処刑してゆく人間に対して、世論からは賛否両論の声が上がります。そして、それはそのまま、映画を見ている私たち観客に対してへの問いかけでもあります。エリカ・ベインのやっていることは正しいのか?
私たちは無法地帯に暮らしているわけではなく、法治国家に住んでいる以上、どんな犯罪者であろうとも法の裁きを経て審判が下されなければいけない。
だから、エリカは間違っている。
しかし、そう単純に決められないところに人間社会の、モヤモヤとした複雑さがあります。
「ブレイブ ワン」でエリカ・ベインの犯す殺人の設定には同じパターンはなくて、コンビニ強盗であったり、地下鉄の暴漢であったり、セックスにからんだ娼婦への暴行、さらに、マーサー刑事たちが追いかけながらも捕まえることできなかった犯罪組織の極悪なボスなどが登場しますが、これは社会悪の暴力の象徴として考えることができます。
それらを抹殺する中でエリカは煩悶します。殺さなくても、銃で脅すだけでよかったのではないか。
しかしまた、人間には自分で気づかないもう一人の自分がいることに気づくことがあります。
「アラビアのロレンス」(1962年)の中で、重傷を負って、とても助かる見込みがないと分かったロレンスの従者の少年を、楽にしてあげようとロレンスが銃で撃ち殺してしまう場面があります。
しかしロレンスは一発で仕留めるのではなく、二発三発と少年の体に銃弾を撃ち込みます。
そのときの邪悪な自分を振り返ってロレンスはこう言います。
「私は彼を殺すことを楽しんでいた」
「ブレイブ ワン」のラストでは、エリカの復讐が遂げられようとしている場面を私たちは目撃するのですが、そこへ現れたマーサー刑事の視点に立って、自分ならどうするだろうという問いかけが突きつけられます。
エリカの殺人をやめさせ、法に従うようエリカを説得するのか、それとも…。
マーサー刑事は「合法的な銃を使え」とエリカに自分の銃を渡し、復讐を遂げさせます。
このラストを、間違っている、と感じるのが正常な感覚であるかとも思います。法の番人たる警察官が殺人に手を貸したのですから。
「目には目を 歯には歯を」は、やられたらやり返せという意味ではありませんが、人の命を奪った者に対しては、その人の命で償うのが本当だと思いますから(明確に犯人が特定された場合に限ります)、映画としての、このラストはいささか衝撃的でしたが、個人的には納得してしまいました。
監督は、「クライング・ゲーム」(1992年)、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994年)のニール・ジョーダン。
ヒロイン、エリカ・ベインに、「ダウンタウン物語」、「タクシードライバー」(1976年)で天才子役と騒がれながらも映画界を離れ、後に「告発の行方」(1988年)、「羊たちの沈黙」(1991年)で二度オスカーを受賞したジョディ・フォスター。
エリカの心のよりどころとなるマーサー刑事に、「クラッシュ」、「Ray/レイ」(2004年)などのテレンス・ハワード。
ラジオ局のディレクター、キャロルに「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」(1990年)、「ギルバート・ブレイク」(1993年)、「ニクソン」(1995年)などの実力派で、1980年の「メルビンとハワード」ではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞しているメアリー・スティーンバージェン。
暴力という社会的で普遍的なテーマとエンターテインメントをうまく一つにまとめ上げた見応えのある映画。
ただ、欲を言えば、ジョディ・フォスターもいいのですが、さすがに40代半ばに達していて、これから結婚しようという女性を演じるにはちょっと無理があったかなあ。
一度結婚に失敗して、新たな幸せをつかめると思った矢先に暴力事件に巻き込まれるとか、そんなほうが良かったような気もしました。
「羊たちの沈黙」のころだと良かったのですがね。