2018年04月21日
【日本拳法の武道本】創始者澤山宗海先生の貴重な本!
日本拳法創始者 澤山宗海先生の武道本の紹介です。
日本拳法をつくられたのは澤山宗海先生。
ご存知でしたか?
なんと、私の大学の大先輩にあたる方なんです。
私もこの本を大学の図書館で一度見かけたことがありその存在は知っていました。
現役時代の頃は何度か熟読し色々と参考にしたこともあります。
日本拳法の基礎や体形、理論を学ぶ上では最高の本ではないでしょうか?
特に、日々の練習や試合においては、
自分の格闘スタイルがボクシングであったり、柔道であったり、他の武道に偏ってしまう傾向にあります。
私も一時期、ボクサースタイルになっていた時もありました。
これでは、せっかくの日本拳法の理論がおろそかになってしまいます。
ある意味、こういった傾向に陥るのは、日本拳法が総合格闘技である所以、
仕方がないことではありますが、澤山宗家も様々な武道の経験があり、
その上で生み出された日本拳法の理論はそれらを加味した中でつくられたものであり、
そういった基礎的なことをしっかりと体で学んでおかないと、身に付きません。
すべての技をくまなく習得してこそ、本当の強さが手に入るのだと思います。
特に相手が強ければ強いほど、偏ったスタイルでは絶対に勝つことはできません。
これは断言しておきます。
是非、一度は読まれるといいです。
楽天市場に1冊販売していましたので掲載しておきます。
さすがに貴重な本となっているので、高額ですがせっかく日本拳法をはじめたのなら手元に置いておくべきです。
あなたの成長に必ずや役に立つはずです。
価格:48,600円 |
参考までに澤山先生の紹介を載せます。
【経歴など】※ウィキペディアより
澤山宗海は1906年に奈良県に生まれ、幼くして養子となり、山陰地方の名門として知られる、豪族・山名氏の門流である澤山家の人となる。生来病弱であったうえに養父母が溺愛し、少しでも危険と見れば、わずかな運動すらさせなかったゆえに、小学生の頃は通学するだけで疲れるほどひ弱だったという。
自分の体力のなさに一念発起し、大正8年(1919)、偕行社小学校の尋常科を終え、日進商業学校に進学したときにボディービルと柔道を始め、のちに五段の腕前になる。しかし、柔道において一般に当身の攻防の練習が軽視されていたことに失望し、のちに糸東流を創始する摩文仁賢和との出会いを機に彼に師事して空手(当時は「唐手」と呼ばれていた)を学び、昭和5年(1930)6月、通っていた関西大学に「唐手研究会」を立ち上げる。
だが、摩文仁との練習も二人相対しての型稽古で、澤山の求めた自由な攻防には程遠かった。そこで澤山は懸命に思案、研究、試行錯誤を重ね、「約束組手」「自由組手」「真剣組手」を考案する。
昭和7年(1932)秋、春に関西大学を卒業していた澤山は、「大日本拳法会」を発足させた。会長には澤山が就任した。それからは防具を装着しての稽古の開始(昭和9年=1934)、第一回開演演武会(昭和11年=1936)、第一回大日本拳法選手権大会(現・全日本学生拳法選手権大会の母体。昭和14年=1939)の開催などを経て、<乱稽古>=自由な撃ち合い稽古を整理・確立していくが、昭和15年(1940)2月、応召されて中国大陸に渡る。昭和21年(1946)5月に復員し、28年(1953)、東京・読売新聞ホールで開催した公開演武が大成功を収めるや、日本拳法は武道界の注目の的となり、立正大学が東日本で最初に拳法部を作り、早稲田、慶応、明治などの関東を中心に各大学で日本拳法部が次々と誕生し、全国的に広がっていった。
昭和29年(1954)、澤山は一代限りの宗家を号し、「日本拳法会」会長の座を同志の矢野文雄に譲った。昭和50年(1975年)9月、肺癌に倒れた澤山は、
「私は日本拳法の中心的な部分を作っただけだ。さらに研究を重ねて、より高いものへと発展させねばならない。それは君たちの仕事だ」
と言い残して2年後の9月27日、71歳でこの世を去った。
澤山の遺訓は本流、傍流の弟子たちによって日本全国・海外まで伝播され。近年、修法者の叡智を結集し武道競技団体として(公益財団法人)全日本拳法連盟(平成21年10月13日内閣府認証)を発足し研究を重ねより高いものへと展開されている。
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