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2015年11月04日

中国と東京裁判(2):中国代表検事の向哲浚

向哲浚は1896年湖南寧郷に生まれ、1911年に北京精華大学に入学、6年後にアメリカ留学に派遣されイェール大学卒業後にジョージ・ワシントン大学法学部に転じ、帰国後は上海第一特区法院主席検察官や上海高等法院主席検察官を務めた。

向哲浚

1945年末に向哲浚は突然に電報を受けたが、その電報の内容は極東国際軍事法廷に参加するために準備せよとの指令であった。向哲浚は強烈な使命感に駆られて、少しの猶予もなく東京裁判に参加する任務を引き受けた。彼は裁判官と検察官のどちらかを選ぶことが許されたが、彼が選択したのは検察官だった。向哲浚が裁判官を選ばなかったのは戦犯を裁くにはまず戦犯の罪を暴露しなければならず、検察官の仕事の方が責任が重大であると感じられたからであった。1946年の新年に向哲浚は重慶に赴き司法部から正式に任命を受け、清華大学での後輩にあたる梅汝璈を極東国際軍事法廷の裁判官として推薦した。

連合軍本部からの催促に応えて、向哲浚は秘書の裘紹恒とともに東京へ急行した。彼らはこのたびの裁判にいかなる困難が待ち受けているかを知る由もなかった。準備の時間の不足により、裁判の証拠集めは困難を極めた。

東呉大学法学院の優秀な卒業生であった裘紹恒は司法業務に習熟しているのみならず、英語も流暢に操ることができ、上海のとある銀行お抱えの弁護士となっていた。彼も最初はこの仕事を引き受けるか躊躇したものの、東京裁判に参加することは人生の中でも得難い経験になると考えて、最終的に引き受けたのであった。彼らが米軍のC―47大型輸送機に乗り日本へ到着したときには東京厚木飛行場には大雪が舞っていた。裘紹恒はこのように回想している。「私は東京に到着したあの日、東京には雪が厚く降り積もっていたのを覚えています。時間が過ぎるのはとても速く、決定してから我々は何の準備もなく、どんな資料を携えていけばいいのかも知らされていませんでした。あの時の南京政府はこの裁判について何も知らされておらず、どう対応したらいいかもわからず、何の指示もなく、どんな資料を持って行けというような指示もありませんでした。だから我々二人はなにも知らないままに日本へ到着したのです。」

1946年2月7日に向哲浚と裘紹恒が東京に到着すると、すぐに国際検察局に中国政府が認定した11人の戦犯リストを提出した。このリストは蒋介石総統自らがチェックして手渡したものであった。リストの一番目に挙げられていたのは特務活動で有名な土肥原賢二、第二番目が関東軍司令官などを勤めた本庄繁であったが、本庄繁はこの時にはすでに自決していた。三番目が南京大虐殺で悪名を馳せた谷寿夫である。その他には板垣征四郎、東条英機、梅津美治郎などがリストに挙げられていた。

向哲浚と裘紹恒が東京に到達した9日後に、極東国際軍事裁判国際検察局はキーナンの司会で第一回の検察会議を開催した。中国・英国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの検察官がこの会議に出席した。国際検察局の日本の戦犯に対する予審と犯罪の証拠収集の作業は思ったようにはかどってはおらず、キーナンは焦りを感じていた。ところが、中国の検察官である向哲浚が持ってきたのは戦犯のリストだけで、それ以外の証拠となるものを何も持っていなかったのである。キーナンは「たったこれだけ?」と向哲浚と裘紹恒に問いかけた。キーナンは日本の中国侵略に対する犯罪が東京裁判の中で中心的地位を占めており、充分な証拠が提出できなければ戦犯を裁くことができないことを明確に知っていた。キーナンの問いに向哲浚と裘紹恒の二人は顔を見合わせて、ようやく事態の重大さに気づかされたのであった。

証拠収集が困難な理由は、先ず日本側が戦争資料の厳格な秘密保持を要求し違反者は罰せられる恐れがあったこと、第二に日本が敗戦後に大量に戦争中の文書を焼却したり廃棄したり隠匿したりしたことであった。さらに中国側も戦争期間中は証拠集めや保存どころではなかったことも原因であった。中国側から言わせれば侵略の証拠は収集せずとも目の前に明らかであった。

極東国際軍事法廷で証拠が重要視されたのは、裁判の採用した手続きが英米法に乗っ取ったもので、露仏のような大陸法系によるものではなかったためである。この二つの法体系では全く裁判の方式が異なっていた。大陸法系では裁判官を中心として進められ、被告はいったん起訴されると基本的にそれで有罪とみなされる。英米法系の裁判では、証拠の有無が中心として議論され、被告は最終的に有罪とされるまでは罪が確定されておらず、起訴側と弁護側が証拠を巡り弁論を進め、裁判官が証拠を採用するかどうかを決めることができる。簡単に言えば、大陸法系の裁判では被告は有罪とみなされているのに対し、英米法系では被告の罪はまだ確定しておらず証拠がなければ無罪とみなされるのである。

それで、英米法系の裁判では証拠があるかどうか、証拠が有力かどうか、弁護側に論駁されるかどうかが訴訟において非常に重要になってくる。1946年3月から4月、向哲浚と裘紹恒はしばしば中国に帰国し、過去に日本占領区であった場所や攻撃を受けた難民などを訪ねて証言や証拠を収集した。この時に、キーナンは連合軍本部の調査員を派遣して中国での証拠収集に協力させ、キーナン自身も向哲浚と共に自ら中国に赴いて調査を進めた。キーナンはさらに国際検察局から特別に資金を中国検察団に支出して、向哲浚に本国で法律に詳しくて英語に堪能な職員を探して東京での作業を増員するように求めた。向哲浚は上海に戻り、新聞で極東国際軍事法廷国際検察局の人員を募集した。東呉大学法学部の卒業生であった高文彬はこの新聞の募集を見てキャセイホテルでの面接にやってきた。

まだ若い高文彬は1945年7月に東呉大学を卒業後にまず上海の地方裁判所で刑事裁判の書記官を勤めた。しかし彼は職場になじめず、すぐに辞職してしまった。その後に人の紹介で、老閘区役所の戸籍管理の仕事に就いた。しかしここでも同様に役人の官僚主義に嫌気がさして辞職してしまった。ちょうど、この時に彼は新聞で東京裁判の翻訳助手を募集しているとの広告を目にしたのであった。

後に高文彬は次のように面接のときの情況を回想している。「初めてキャセイホテルで向哲浚先生に会った時の印象は、とても礼儀正しくて、学問があり、人に対してもとても温和な人であると感じた。その頃の国民党の役人の官僚主義はとてもひどかったが、彼にはそんな感じはまったくなく、完全に一人の学者風の態度であった。それで、私の彼に対する印象はとてもよく、後に私は採用されることになった。」

この時に高文彬と一緒に採用された人物にはほかにも31歳の周錫卿がいた。当時、中国では東京に行こうと願う人間はあまり多くはなかった。そこで、向哲浚は妻の親戚にあたる周錫卿に面接に来るよう伝えていたのである。周錫卿は1938年にアメリカのフィラデルフィア州ペンシルバニア大学の修士学位を取得したが、アメリカにとどまることを潔しとせず抗日戦争真っ最中に中国に戻っていた。

向哲浚がこの時に採用した国際軍事法廷の助手にはほかにも張培基、劉継盛、鄭魯達の三人がいる。数日後に彼らは向哲浚からの採用通知を受け取り、キャセイホテルに集合して、東京に行く準備をするよう告げられた。当時、キャセイホテルは米軍輸送司令部に徴用されていた。彼らはアメリカ人から飛行機に乗る前に映画を見るよう告げられ、飛行機に乗りに来たのに、どうして映画を見なければいけないのだろかと奇妙に思った。高文彬は次のように回想している。「彼らが映画を見るように告げたのは、飛行機の基礎知識を映画で見せるためでした。飛行機がどのように飛ぶのか、緊急事態が発生したときはどのようにパラシュートを装着するか、どうやってパラシュートを使うかなどです。映画を見おわるとアメリカの軍用のバスで私たちを江湾飛行場に連れていかれ、米軍の輸送機で東京まで送られました。」

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