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2015年11月27日

中国と東京裁判(25):『梅汝璈日記』22

1946年5月13日月曜日
今日は九時半に開廷し観衆は特別に多く主に日本人が多かったが、おそらく彼らは被告の動議(法廷管轄権の問題)に大きな関係があるのであろう。孫立人将軍も参観に来て「貴賓席」に座り、私はまたも羅秘書を招待した。淡如(王之将軍)と孫立人の副官曾君も会場に来ていた。

先に被告の弁護士代表である清瀬一郎が先日提出した書面申請が力を発揮した。この老人は従容として繰り返しながら一段落述べればそれを訳し、彼一人だけで一時間半を占めた。話した言葉は多かったが、あれこれ言っても、書面よりも新規なことは何もなかった。様々に引用をしたが、つまるところは憲章に侵略戦争に対する処罰と平和と人道に対する罪が規定されているのはポツダム宣言範囲外であり、投降書の条件の許すところではないという主張であった。彼の主張によれば日本の投降は条件付ということになる。彼のこの論点は私から見れば、とても危ういものである。

裁判長は十分の休憩を宣言した。法廷が再開するとキーナン氏が答弁を始め、彼は彼の準備した長い文書を読み始めた。十分も立たないうちに、ウェッブ氏がキーナン氏の発言に干渉して、これらの修辞学上の文句は必要なのかと尋ねた。キーナン氏は怒り、腹を立てながら答えた。彼はなおも読み続けて、スターリンやルーズベルトの名言を引用し始めると、ウェッブ氏はわざと干渉して、彼の演説はあまりに扇動的だと言った。キーナン氏はまた怒り、なおも強弁したので、法廷は彼にしゃべりおわるまで続けさせたが、彼は面子をつぶされたようであった。私は1,2度ウェッブ氏に干渉しないように忠告した。私はウェッブ氏があまりにも感情的過ぎると思ったからである。あるいは彼はキーナン氏をまったく相手にしていなかったのであろうか。しかし、ここは報復をする場ではない。

十二時に休廷し、午後一時半に再開した。私は急いでホテルに戻って昼食を取り、十分間昼寝して、再び方秘書と共に裁判に戻った。一時半はまったく十分な時間ではなく、特に私にはそうであるがなおも観衆は満席であった。

キーナン氏は英国の陪席検察官カール(Carr)氏を紹介して、もう一方の答弁を開始した。カール氏は論文を読むように彼の答弁書を一度読んだが、大方四五十分を費やした。材料は比較的具体的で充実していた。キーナン氏が世界に向けて演説するのに対して、カール氏は法廷に向けて弁論を提出する。おしいことにカール氏の朗読の技術があまりよくないため、英国のアクセントが耳障りで、少なくとも私にはそうであった(ここ数日私の内心の反英感情はとても高くなっていた)。

休憩を十分とり、カール答弁書の日本語訳を読み始めた。私は黒眼鏡をかけて、もう少しでうたた寝をするところであった。読み終わると、清瀬がまた反駁したが、この老人はよどみなく話すわりには新しいところがない。ウェッブ氏は彼が条件付きの降伏と無条件降伏との区別がつかないようなので笑ったほかは、彼を制止したり干渉したりはしなかった。

清瀬がトルーマン大統領の今年正月の演説を引用した時、キーナン氏はたまらず法廷に抗議をした。ウェッブ氏はたいへん偏見をもっているようで、抗議の理由を問うこともなくキーナン氏に「さっきあなたはルーズベルト氏の引用をしたのはよくて、どうしていまトルーマン大統領を引用するのはいけないのか?」と述べた。キーナン氏はますます怒って、彼は元々顔が赤く赤鼻であるのに、ここに至って、ほとんど紫色になっていた。彼は憤然として、「私が引用したのはポツダム会議以前の話で、会議のときの人々の戦犯に対する理解を説明している。トルーマン大統領の今年の正月の演説は本題と何の関係があるのか。私は誰の話かで区別したり偏見をいだいているわけではない。」ウェッブ氏は自分のほうに理がないのに気が付くと、わざと左を向いて私に尋ね、また右を向いてヒギンズ氏にキーナン氏の抗議を受け入れるかどうか尋ねた。私は受け入れるように主張し、ヒギンズ氏も同意した。そこで彼は清瀬の発言を止めざるを得なくなった。

今日はとても緊張し、また暖房がまた熱く、着ている衣装も多かったので、もうすこしでめまいがしそうであった。幸運にもすぐに閉廷解散が宣告された。

ホテルに戻りお菓子を食べて、少し寝た。合作社ですこしの物を買い、土産の準備をした。裁判官たちとテーブルで食事をする際に、私は露骨にマクドゥガル氏、レーリンク氏、パル氏、パトリック氏に対してウェッブ氏の今日の態度への不満を表明した。公亮(朱世明)が来て、みなで孫立人の部屋で話をした。九時に私は部屋に戻り二通の手紙を書いて孫立人に託した。日記を書いた。

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2015年11月26日

中国と東京裁判(24):『梅汝璈日記』21

1946年5月12日日曜日
新聞を開けてみると、英国太平洋艦隊総司令フレーザー(Frazer)海軍上将が新聞記者を招待して談話を行った情況があり、彼は中国人民はみな英国が香港を保持するよう望んでいると述べていた。中央日報記者張仁仲氏はその場で彼と論争して勇敢に発言して、この帝国主義白人至上者のデタラメをいくぶんか正していた。

九時に私は代表団に話をしに行き、今日は日曜日だったので皆と会うことができた。十時過ぎにホテルに戻り、幾つかの文書を整理して、張仁仲氏のために法廷訴訟手続きに関する材料を探した。公亮(朱世明)から食事に誘う電話があり、代表団は今日の午後いくらかの中華料理を作ったとのことだった。私は食べに行ったが、あまりおいしいとは感じなかった。

三時から四時まで昼寝して、淡如(王之将軍)とホフ大佐が来てビルマ戦線の将軍である新一軍軍長の孫立人将軍が来て、帝国ホテルの一階10号に泊まっていると告げた。私はちょうど下の階に降りて挨拶しようと思っていたが、彼はすでに淡如と曾副官と共に私の部屋に来ていた。私はお茶とお菓子を持ってこさせ、みんなでおしゃべりをした。私と孫将軍が出会ったのはちょうど二十年前で(1926年夏季、彼は米国VMI軍校で学び、私と暘春叔と共に会いに行ったことがある)、それからは各自ばらばらとなり、会う機会がなかったが、指折り数えるとすでに一昔前になる。昔話をしたり、今の話をしたり、懐かしい話に花を咲かせた。

 七時に公亮(朱世明)が孫立人を招いて京華酒家で中華料理を食べるというので、自然と私も行くことになり、覲鼎、明思、淡如、歌川もみな出席していた。料理はとても豊富で、私は東京に到着してから始めて最もやみつきになった。我々は食べたり話をしたり、なんでも話し、解散した時は知らず知らずにすでに十時になっていた。

ホテルに戻り日記をつけた。明日は開廷はおそらく緊張する一日となりそうなので、私は早く眠りたかったが、おなかがとても一杯で、ベッドに横になったのは一時になるころであった。

ここ数日は東京はとても騒がしい。フーバーが去った後はアイゼンハウアー元帥がまた来て(今日の朝のアイゼンハウアー元帥の閲兵に公亮も参加した。)このほかに英国海軍司令のフレーザー、米国対日賠償委員会首席のパウリー(Pauley)も東京にいた。残念ながら我国はちょうど内戦がたけなわで、なさけない有様で、そうでなければ世界に名前を轟かせてインドとビルマで功績を立てた孫立人将軍もこのように大いに顔を出せたことだろう。ここまで書いて、私は我国の国際的地位が日増しに低下するのを悲しみ、本当に筆を投げて三嘆した。

注*日記に登場する朱世明と孫立人は米国と関係の深い中国軍人であったが、後に蒋介石より謀反の疑いを掛けられ朱世明は暗殺され孫立人は軟禁された。

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2015年11月25日

中国と東京裁判(23):『梅汝璈日記』20

1946年5月11日土曜日
午前九時に方秘書と羅秘書が来た。羅秘書は書き写した「細則」の訳文を提出した。私は校正した憲章の訳文を方秘書と相談し、やや修正を加えてから羅秘書に書き写させるために渡した。

私は方秘書に裁判所に動静を見に行かせ、自分は羅秘書と神田および銀座の一帯の商店を見てまわった。三越で幾つかの贈り物を買い、中国料理館の会芳楼で幾つかの海鮮を買い、帰国したさいの友人に送る準備をした。物産がとても欠乏しておりまた価格が高いので、私が購入したものは程度があまり良くないものだが、多少日本の特産を選んで、話の種にするつもりである。

ホテルに戻ると中央日報の張仁仲氏が名詞を残しており、訪問して来たとのことであった。ヒギンズ氏に昼食を誘われたが、彼は中国旅行のことで大変興奮していた。そのほかの同僚はなにやら羨ましそうであった。これは人情として致し方ないことである。

午後に寝て起きてから太極拳を練習し、新聞を読む。しばらくして淡如(王之将軍)と明思(向検事)が来て話す。

夕食は裁判官たちと一緒に食べたが(明思と一緒に食べるのは都合が悪いため)、テーブルには三人の香港より来た軍将校がいて、パトリック氏とノースクラフト氏の客人であるそうだ。彼らは英国の軍艦に随って訪問し、あさってに戻る。

夕食の後部屋に戻ってここ数日の新聞紙を検査して切抜きをした。十時にノースクラフト氏と食堂にダンスを見に行ったが、日本人が西洋のダンスを真似したものだったが、たいして似ておらず体格も合っていないので、あまり見栄えの良いものではなかった。

部屋に戻って日記をつけ、シャワーを浴び、約十二時半に就寝した。

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2015年11月24日

中国と東京裁判(22):『梅汝璈日記』19

1946年5月10日金曜日
朝に裁判所の副秘書長ハニー大佐(Col. Hanney)から電話があり、十時に臨時裁判官会議を開くとのことであった。私は九時半に裁判所に到着し、門を入ると秘書長に出あった。彼は私とヒギンズ氏が申請した専用機での中国行きはすでに司令部の批准を得たので、すでに電報で中国方面に通知したとのことであった。これは私をとても悦ばせた。米国人の処理は本当に正確で迅速である。

十時に会議を開いて討論したのはすべてコールマンが司令部に提出した裁判組織憲章の改正案で、国際弁護班併設の問題である。我々の考えるところでは、これは不必要であるだけでなく、全くの誤謬である。なぜなら弁護は被告自身の事情であり、もし司令部が専門班を設置して主任弁護士(Chief Counsel of Defence)を派遣するなら、これはすべてが公平な裁判の原則及び常識に反するからである。

討論した時の人々の意見は一致して態度もたいへん強硬であった。結果はコールマンに今日の午後三時前に彼が司令部に提出した文書を取り消さなければ、我々はマッカーサー元帥に直接厳しく交渉すると決定した。

 会議終了後に私はホテルに戻った。しばらくして、宋徳和氏が来て、彼は中国料理を用意しているので昼食に彼の住居に来てほしいとの誘いであった。私たちは一緒に彼の住居に行ったが、同居しているのは四人の米国新聞記者であった。彼らの態度はとても親切で和気藹々としていた。宋氏は日本の情況をとてもよく知っており、米国記者も家族同様に良く知っており、それで彼は東京でいつもあちらこちらに行くことができる。我々は食後にさらに一時間あまり話をした。彼の観察では天皇は依然として将来起訴されるかあるいは証人として喚問される可能性はあると感じていた。彼の述べる通りならば、天皇はまず退位するだろう。私たちは多くの国際問題や国内問題を話した。二時半に私は別れを告げてホテルに戻った。三時に方秘書と共に裁判所に会議に行った。

裁判官会議が始まると、まず裁判長がコールマン氏がすでに書面で司令部に提出した文書を撤回したと報告があったが、今日の午後に裁判官会議に出席して彼が司令部に国際弁護班の設置を申請した理由を説明したいと希望しているとのことであった。我々はコールマン氏の出席を許可して、コールマン氏がやって来た。いろいろな説明があったが、やはり彼ははっきりした理由を述べなかった。彼が退席した後に、我々は討論して、みなが弁護班の設立は必要ないばかりか、主任弁護士を司令部や裁判所が指定するのは不合理だと感じた。それは被告自身のことであって、彼らに自由に選択させるべきことである。コールマン氏は被告弁護人と連絡するための事務官に過ぎないのに、名前を主任弁護士(Chief Counsel of Defence)とするのは全く妥当ではない。私は再三発言して、この名称は改めなければならないと主張したが、同僚たちもみな私の意見に賛成した。結果私たちは秘書長を任命してコールマン氏の官職の名称を変更させる事にしたが、それは間違いや混乱を起こさないようにするためである。こうして意外な展開を見せたコールマン事件は一段落告げることになった。

裁判官会議が散会した後、私はホテルで休息を取り、新聞を読んだ。羅秘書と王将軍が来て話をした。帰国の可能性があるので、私は羅秘書と銀座の各商店を見て歩き、なにかお土産を買おうと思った。しかし時間が遅かったので、商店はどこも閉店しており、何も買わずに戻った。

夕食後に、パトリック氏、レーリンク氏、マクドゥガル氏、パル氏の四人で長く話をした。彼らは私が今日の裁判官会議で厳しい態度を示した事に驚いて敬服してくれた。実際のところ小さい事ならば私はあまり発言したくないのだが、大きな事についてはおろそかにすることはできない。私は何も発言しないことはすでにあきらめたことで、私が発言したことは必ず最後まで主張し、成功するにせよ失敗するにせよ、いくらかの結果を残さなくては引き下がれない。

八時四十分にマクドゥガル氏が映画に誘ってくれたが、一時間もしないうちに退席した。私は詳細に方秘書が翻訳した「極東国際軍事裁判組織法(すなわちCharter憲章)」を校閲した。十一時に太極拳を練習して、日記をつけて、約一時に寝た。

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2015年11月23日

中国と東京裁判(21):『梅汝璈日記』18

1946年5月9日木曜日
起きてからすぐに、ヒギンズ氏より電話があった。彼によれば専用機の交渉はすでに難関を突破しおおむね成功したので、現在はただ手続きの問題だけである。彼は私に十時に裁判所の事務室へ相談に来るように告げた。私はたいへん喜んで応諾し、彼が熱心に奔走した事に敬意を表明した。

十時に私たちは裁判所の私の事務室で会い、秘書長が一枚の中国行きの理由を書く表を持ってきたので、私とヒギンズ氏とで署名をした。我々三人は旅行のプログラムを相談したが、方秘書は上海人なので彼も参加することになった。我々はとても楽しく語らい、ヒギンズ氏は自分のことを「中国の愛慕者」と称した。我々の専用機には私たち二人と方秘書とフェロス秘書とパイロットの五人以外に、もう一人コルバート(Lt. Colbert)が我々の護衛武官(Military Aid)として付いてくることになった。全て妥当に手配をして、あとは司令部の批准を待つだけとなった。

裁判所を出てから中国代表団に行った。明思(向検事)と電話で会う約束をしていたからである。私と公亮(朱世明)、明思(向検事)の三人は長いこと相談したが、それは起訴書の中の二項における「モンゴル人民共和国」の問題であった。

相談が終わってから、公亮(朱世明)が二品の中国料理を注文し、私にも残って代表団で食事するように言った。食事の後にホテルへ戻って少し寝た。起きてから太極拳を練習し、新聞紙を読んだ。まもなくボーイがコールマン少佐の「国際弁護班」設置に関するマッカーサー元帥宛の文書を持ってきた(彼は憲章の修正を求めていた)。私は一通り見たが、大変に不合理であると感じた。

夕食後に裁判長のウェッブ氏とこの事を話したが、彼も同感で、私よりも憤慨していた。彼は明日裁判官会議を招集して対応を協議すると言った。

ヒギンズ氏が常々あこがれている「中国旅行」について、彼は私のところに来て長く話をした。我々は一緒に映画館に行き、見終わると再びバーで話をした。私は彼がとても興奮していたので、彼に警告して「あんまり高く期待しないでください、そうでないと失望する事になりますよ」と言った。彼は「例えどのようであれ、私は失望しないよ」と答えた。

十一時に別れて、私は部屋に戻り、日記を続けて書き、約十二時に就寝した。

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2015年11月22日

中国と東京裁判(20):『梅汝璈日記』17

1946年5月8日水曜日
朝起きて新聞を見ると中国のニュースが依然として重要な地位を占めていたが、良いニュースはなかった。公亮(朱世明)によれば、このたびフーバーが東京に来てマッカーサーと数時間会談したが、中国の事情についてはとても悲観的で、彼は記者から中国のことを尋ねられても沈黙を守り、ただ中国での災難は悲惨だと述べただけであった。

 私はマッカーサーの四月の日本管理報告書を読んだが、そこでは日本が次第に真の民主の道を歩んでいるとあった。これはいくぶん粉飾しすぎではあるが、しかしマッカーサーが実行している政策は確かに日本経済に少なからず便宜を与え、次第に復興の道をたどらせている。これは否定できない事実であり、我々勝利した中国と対照的なので恥ずかしさを感じないでいられようか。

 朝食後に私は方秘書が翻訳した極東国際軍事裁判の訴訟手続き細則の原稿を子細に校閲し、幾つか修正を加えた。十時半に裁判所に持って行き羅秘書にたのんで毛筆で写しを書かせることにした。

 ちょうど事務処理をしている際に、ヒギンズ氏から電話があり、彼の事務室に行って来週月曜の開廷の後の休廷時期(およそ三週間)に“中国旅行”の計画を相談しようとのことであった。彼の女秘書のフェロス女史(Miss. Ferros)はとても私達と同行したがったが、それは彼女のいとこが上海にいるからであった。私たちはたくさんの電話をして交通手段と乗り継ぎの方法を聞いた。相談の結果は専用機でなければならず、もし本当に北京にまで行かなければならないのならば、私たちの中国での時間はとても限られ(多くて二週間)、国内は大変に混乱しており、交通手段を探すのは困難であるということであった。私はヒギンズ氏に「私の妻は重慶から上海に到着したかどうかまだわからないが、おそらく十四、五日には到着しているはずだが、保証はできない。もし我々が司令部から一台の専用機を手配できれば、私はあなたと共に祖国へ一度戻って、あなたに付き添って案内したい」と述べた。我々は別れる際に専用機がみつかるよう願った。

帝国ホテルに戻って昼食を食べ、昼寝して起きると、方秘書が裁判所から電話してきて、ヒギンズ氏の周旋の結果、専用機の問題が初歩的に解決し、今晩か明日の朝に私を探して詳細に商談したいという。これは私にも意外なことでとても嬉しい。本当に、数日のうちに帰国できる希望が出てきたのである。

五時から七時まで、私は被告の弁護士が提出した裁判の管轄権に関する意見書を詳細に研究した。なぜならこれが来週月曜日の弁論の下敷きとなるからである。この意見書には合わせて4つの点があり、そのうち重要な二点は次のようなものである。
1.裁判憲章の規定で侵略戦争を発動した罪と平和と人道に対する罪で処罰するのはポツダム宣言違反であり(戦犯の処罰とのみ)、それゆえ範囲を超えた越権行為である。
2.起訴書にある二三の訴因は古い話で、このたびの戦争とは関係がなく、かつソ連とはすでに協定を結んで平和的に解決し、さらにその後に両国は中立条約を結んで交戦状態にあったわけではない。これらの古い件を重ねて提出するのは不合理であり、「遡って罪を罰する」嫌いがある。
この二点は法理上から言えば相当に理由があり、第一点は比較的に解決しやすいが、第二点はやや複雑であり、ただソ連にのみ渉っており、さらに微妙である。ともかく、来週の月曜日に大いに弁論をして、我々がそのときに採決するのもあるいは法学史上において歴史的意義を有するかもしれない。私はこの二問題について前もって詳細に考慮することにした。

夕食後に、私は新聞を読んで、本を読んで、日記をつけたが、祖国への旅行の事を片時も忘れられない。私は三度ヒギンズ氏に電話をかけたが、だれも電話に出ない。十一時半になっても、ヒギンズ氏はホテルに戻っていなかった。おそらく彼も興奮しているのか、あるいはまだ専用機のことであちらこちらへ奔走しているのかもしれない。まあよいだろう。私は太極拳を練習して、シャワーを浴びて、寝たのはもう一時近くであった。

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2015年11月21日

中国と東京裁判(19):『梅汝璈日記』16

1946年5月6日月曜日
今日はとても緊張した一日であった。裁判所は九時半に開廷し、観衆は依然としてすべての傍聴席に一杯であったが、貴賓席には前の二回ほどの人はおらず、我国の朱世民将軍もフーバー前大統領の閲兵式典に参加して席にはいなかった。

開廷してから一つ目のことは、検察庁が法廷で新たに東京に到着した陪席検察官のメノン氏(Menon)を紹介し、それから被告弁護士代表清瀬一郎博士(Dr.Kiyose 東条の弁護士)を紹介し、それから一人一人各戦犯の招聘した弁護士を紹介した。これらの弁護士は見たところ平凡そうだったが、みな東京の一流の弁護士であるそうで、中には東京帝国大学法科学長や明治大学の校長もいるそうだ。

清瀬は日本人としては中等の背丈で、年齢はおよそ六十前後、髪やヒゲはみな白く、あまり身なりには頓着せず、見たところ学級肌のようである。彼が発言する時にはいつも微笑みを称え、謙遜と親しみやすさを表している。声はあまり通るわけではないが、今日は英語の良くできる青年が翻訳したので、一言一言がとても力があり、彼が今日最も目立った一人であった。

彼は発言を要求して、彼は審判台上の裁判官を攻撃(challenge)するわけではないが、極東国際軍事法廷の管轄権(Jurisdiction)の範囲について異議を申し出た。この時に裁判官たちと観衆は少し緊張した。彼は従容としてウェッブ氏が裁判長と裁判官にふさわしくない四つの理由を挙げた(十分な内容はなかったが、ウェッブ氏がオーストラリアの戦争犯罪委員会の主席で、日本軍のニューギニアでの暴行に関する調査報告に署名したという一点は確かであった。)この時にウェッブ氏はとても我慢できないような様子であった。キーナン氏もマイクの前に来て一言二言話したが、それでも清瀬は動じる事がなかった。

ウェッブ氏はこのことは彼個人に関係しているので、同僚たちが会議を開いて議決し、会議の際は彼は出席せず、結果は再び法廷で報告すると述べて、それから休廷15分を宣言した。我々八人(ウェッブ氏を除く)は退席して会議室に集まった。みな神経がとても緊張していたが、特に清瀬が一人一人の裁判官に攻撃と異議を唱えると主張していたように聞こえたからである。討論の際にみなが発言し、それはとても熱烈であったが、わたしは会議の席で誰がどんな意見を述べたか(自己を除く)は明らかにすることはできない。それは誓約に背く事になるからである。

我々が緊張した空気の中で討論して得た結論は、裁判組織憲章第二条に基づき裁判官は連合軍の最高司令官が各国政府の推薦に基づいて任命する。これによれば、我々裁判官は自分たちで我々の中のいかなる人の任免をする権利も持ち合わせていない。このことが決定した後、我々はウェッブ氏を出席するように呼び、結果を彼に通知した。

約二十分して、法廷が再び再開し、やはりウェッブ氏が司会を始めると、群衆はざわめき、お互いにささやいて、何かを期待しているようであった。ウェッブ氏が発言する前に、我々はノースクラフト氏に発言を要請し、裁判官たちの審理の結果を通知してもらった。ノースクラフト氏は短く声明を出した後、法廷はいつもどおり進行した。

今日の最も重要なプログラムが始まった。それは戦犯たちが一人ずつ起訴書の訴状に対して「有罪」か「無罪」を宣言するものである。まず、呼び出されて起立して答えたのは荒木貞夫で、彼は名前がA字で(Araki)始まるからである。このややふてぶてしい感じの老人はきまりの悪そうな様子で、口の中でぐどぐどと多くの言葉を発した。私はウェッブ氏に彼の発言に干渉するようにささやいた。ウェッブ氏は「荒木、我々はあなたの演説を求めてはいない。「有罪」か「無罪」かを言うように」と述べた。荒木はなおも我慢できない様子で「私は七十歳まで生きたが、いままで平和や人類に対する罪を犯したこともないし、なんら起訴されるような暴行を行った事もない」と答えた。

荒木が述べ終わると、その他は流れる水のように「無罪」を宣言した。あるものは宣言のときに憤然として、あるものは体操場での呼びかけのように、特に山下泰文と武藤章はそうであった。松岡洋右はやはり西洋派らしく、病気で死にそうな様子であったが、とても流暢な英語で“Not guilty to all and every count”と答えた。東条が呼ばれたのは二十六人目であったが、彼が最も注意を引き、立ち上がったときにはたくさんのカメラが彼に向けられた。彼はとても落ち着いてはっきりと「すべての訴因に、私は無罪を声明いたします」と述べた。

二十七名の戦犯(そのうち大川一人は会場におらず、暫時延期)の声明が終わると、法廷は検察官と被告の双方に実際の審判と証拠の聴取の日取りについて意見を求め、双方はかなり論争となった。最後に裁判長が人々の意見を聴取した跡、正式に宣言した。五月十三日(来週月曜日)に法廷管轄権の問題を弁論し裁定する。六月三日に(四週間後)法廷は正式に実際の審判と証拠聴取を実施する日にちとした。それから退廷を宣告して、来週の月曜日九時半に再開することとした。

ホテルに戻ると、中央日報駐東京特派員張仁仲氏が訪問してきたので、共に昼食を取り、たくさんの国内時事を話し、日本の政治潮流ときょうの開廷の様子を話した。

張氏が去った後、私は約二時間昼寝した。起きてから太極拳を練習し、五時過ぎに代表団に行き中央社の電報と中国の新聞を見た。朱世明将軍はとても嬉しそうで、中国代表団が鳩山に反対を表明したので、きょう司令部はすでに鳩山の組閣を禁止したとのことであった。鳩山はすでに口にくわえた肉を離さざるを得なくなった。この人物は戦犯に列せられる危険のある人物でもある。

五月十日は私が立法院に三ヶ月の休暇を届けて満期となる日なので、私は去る前に続けて三ヶ月休暇を申し出る電報を打ち、公亮(朱世民将軍)に託して代表団の無線機で電報を南京に打ってもらった。公亮(朱世明将軍)は私と帝国ホテルに来て夕食を取り、夕食後にパイル劇場で雑劇と映画を見たが、“将官ボックス”には我々二人しかいなかった。十一時に公亮(朱世明将軍)は代表団に戻った。私はシャワーを浴びて寝た。

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2015年11月20日

中国と東京裁判(18):『梅汝璈日記』15

1946年5月4日 土曜日
今日は極東国際軍事裁判の開廷第二日目である。朝起きてスター・アンド・ストライプス紙とジャパン・タイムス紙を見ると、どのページも裁判の昨日の開廷のニュースと裁判官や戦犯や法廷警備などのいろいろな写真があった。最も注目を引くのは半ページを占める法廷の全景で、新聞でも大川が東条の頭を叩いたことが細かく描写されていた。

今日は九時半から開廷で、私は九時に裁判所に到着し、同僚たちと会議室で三十分ほど話をした。開廷の儀式は完全に昨日と同じで、傍聴席はやはり客で一杯であった。我々はゆっくりと審判台に上がり席に就くと、裁判長が書記官代理に続けて起訴書を読むように命令し、第二十三の訴因から始めて、一段読み終わるたびに翻訳し、いささか聞く人を飽きさせた。

朗読の長い過程で、私は今日は注意して各戦犯の様子と表情を観察した。私は彼らの姓名と写真と座席を対照しながらなん度も見た。彼らの名前と顔とは私に多くの記憶と憤激を呼び起こしたが、特に前列右端に座っている顔の丸い土肥原である。彼は強いて沈着を装っていたが、時々ひどく身震いをし、不安な様子を表していた。東条は依然として身動き一つせず粘土の人形のようだった。荒木は七十歳の老人だが(彼は十万の竹刀でロシアを滅ぼすという馬鹿らしい主張をした)、彼の銀白色のヒゲが八字に長く伸び、以前の写真のように整ってはいなかった。この老人の目は静かに見開き、唇は何か言いたげにわずかに動き、見た感じとても頑強そうに見える。そのほかは名前は一時大変に轟いたが、彼らのこの時この場所での様子は大変に普通であった。なるほど今日のスター・アンド・ストライプ紙が戦犯たちを「当時の強大な帝国の統治者の一群には見えない」と形容したのもうなずける。本当にこの人々からは今日は確かに当時の威風と堂々とした様子を見ることができない。彼らはまるで東京で公共バスにたまたま乗り合わせた乗客のように平凡である。最も哀れなのはあの国際的に一時たいへん有名となった松岡洋右で、彼は九一八満州事変の後に日本を代表して国際連盟を脱退し、中国を地理上の名称として侮辱し三国防共協定と日ソ中立条約を締結しモスクワ駅ではスターリンと抱き合って接吻すらした。この男は今日は顔色が悪く痩せて憔悴しきった様子で、顔に口ヒゲが伸びているほかに顎鬚も生やしていた(英字新聞によればHe had a moustache and a beard.)。確かに彼のヒゲは伸び放題で、整えておらず荒れていた。その次は南京大虐殺の元凶である松井石根である。なんということか彼はまるで飼いならされたヤギのように恐縮している。この言葉は全くほかに適当なものがない。松井大将を見て私は『日の出』の中に出てくるあの小職員を思い出した。

この一群の戦犯たちは外見的には全く中国人とたいした区別はない。本来のところ日中は同文同種であり共存共栄するべきなのである。しかしこれらの戦犯と彼らの先達たちは、偏った民族優越の謬論を高く掲げて、その国民を害し彼らを夜郎自大の誰も目の中にないようにし、中国を滅ぼそうと妄想し、東アジアを席巻し、世界を征服しようと企てたのである。これらの徳もなく力もない戦犯は日本国家と民族を空前の災難に遭わせた。彼らは中国の敵であるだけでなく、世界の敵であり、また日本人民の敵である。我々は彼らの困惑した表情を見て、心の中に一面では民族の怒りの炎が燃えたぎり、もう一面では同種の悲哀を感じざるを得なかった。私は私がこのたび参加した歴史的劇で努力する事で、世界各民族の本当の相互の尊敬と相互の許しと共存共栄の新たな原則を作り出すのに貢献したいと願った。

起訴書の朗読が十時半になると、裁判長は十五分の休憩を宣言し、我々は会議室に戻り、それぞれ一杯のコーヒーを飲んだ。十時四十五分になって再び開廷した。松岡の弁護士が松岡の身体の情況が悪いとの理由で退廷を申し出た。ウェッブは「すぐに倒れるような危険がありますか?」と尋ねると、弁護士は「あります。」と答えた。しかしウェッブはその要請を許可せず、この問題は次の休憩時間に裁判官会議で決定すると述べた。
続けて朗読と通訳が行われている間、私は戦犯たちを注視するほかに、同時にいくつの訴因が中国に関係があるかを数えた。私は五十五の訴因のうち、十二個が完全に中国に関係があり、三個が中国と密接な関係があることに気づいた。我々の証拠資料は多くはなく、将来検察処が十分にこれらの訴因を実証できるのだろうか?ここまで考えると、私は少し心配になってきた。

十一時半に起訴書の朗読が終わり、五十五の訴因を二種の言語で読み終わった。しかし、これはただ主文だけで、主文は全体の起訴書の三分の一を占めるに過ぎず、附録が三分の二を占めている。ここまでで、皆は退屈で耐えられなくなってしまった。裁判長が被告の弁護士に附録の公開の朗読をとりやめることに同意するかどうか尋ねた。被告の弁護士は十分間相談してから答えたいと申し出た。その結果附録は読まないことで同意した。これでみんなはほっと一息ついた。もしそうでもしなければ二つの言語で読めば少なくともさらに六七時間は必要だからである。

約十一時半に裁判長が休廷を宣言して、来週の月曜日九時半に再開する事とした。法廷を退出してからバーですこしみなでおしゃべりをした。私はホテルに戻って昼食を取った。この二日はとても神経が緊張し、体も少し疲れたので、昼寝して起きるとすでに四時過ぎであった。

自動車に乗って三十分ほどドライブして新鮮な空気を呼吸して、ついでに中国連参処にここ数日の中国のニュースを見に行った。フーバーが中国に食糧危機を調査しに向かい、マーシャルが国共の調停を行い平和にむけて努力している。国民大会は延期を宣言して、国民政府は正式に五月五日を首都が南京に戻った記念日とした。

ホテルに戻りしばらく休むと公亮(朱世明)将軍からの電話で、私を中華レストランの天華楼に誘って食事をしたいとのことであった。私が七時に到着すると、同じ机に明思(向検事)淡如(王之将軍)、公亮(朱世明)自身の外に、さらに一人の米国運輸司令のバンダ大佐と彼と共に上海から日本に到着した石女史と祁女史(医者)がいた。

夕食を食べて、みんなとても楽しく過ごし、明思(向検事)以外はみな全員で帝国ホテルの音楽ホールでダンスに行った。中国の女性が帝国ホテルでダンスをするというのは、戦後初めての型破りだったので(私は戦前のことは知らない)、たいへんに注意を引いた。十時に日本の舞踊団が西洋のダンスをしたが、先週よりは進歩したようだ。日本人は模倣が得意だが、しかしなにか虎を犬のように描くような感が否めない。十二時にダンスを解散して、みんなと別れた。私は部屋に戻りシャワーを浴びて、寝たときには一時過ぎていた。昨日と今日とは新鮮で刺激に満ちた二日と見なさざるを得ない。

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2015年11月19日

中国と東京裁判(17):『梅汝璈日記』14

1946年5月3日金曜日
今日は極東国際軍事裁判の正式な開廷第一日目で、私が演出に参加する歴史的な劇の第一幕が開ける。私は三ヶ月前に重慶で政府から命令を受けた時のことを思い出していた。わたしは司法経験が欠乏しているし復員して家族の居る故郷に戻ったばかりで離れたくなかったので、政府の命令を受けた次の日に辞職願いを書いて外交部から行政院に提出してもらった。しかし数日もしないうちに外交部当局は孫院長に勧めの手紙を書かせて持ってきて、孫院長本人も私にこの命令を受けるように慇懃に勧める。

記憶しているのは、ある時に話していると彼は「これはとても得がたい機会で、価値があり興味深いだけでなく歴史に名を残すことができる。思ってみたまえ、半年も前には私たちは今日のようにほっと出来る日が来るとは思わなかっただろう?去年の今頃には独山も都奄煌ラ落して重慶の人でさえ恐れおののいて、どんな様子だったことか」と述べた。私は「国家の興亡は変化が激しくて予想しにくく、劇を演じているかのようです」と答えた。孫院長は「世界は元々一つの舞台で、歴史も一つの連続ドラマのようなものだ。劇だというのならば、君もひとつ配役を演じてもいいだろう」と述べた。

確かに彼の言う通りで私はすでに一つの役を担当しており、我々の劇はもうすぐ開演の時を迎えている。裁判所の規定時間は十時半だが、交通の渋滞を避けるためまた臨時法官会議が開かれるかもしれないので、私は九時半にホテルから裁判所へ向かった。街道では特に何も見えなかったが、もうすぐ陸軍省に着くという付近で行く人も車両も普段より多くなり、裁判所の入り口は警備が普通に比べて非常に厳重になっていた。大門を入ると広場にたくさんの車両が並んでいた。そのうちの一台の固く閉められた救護室のある大きな車が話によれば今日の朝二十六人の戦犯を乗せてきた車で、彼らは八時半に巣鴨監獄からここに連れて来られた(他の二人は南洋から今日の午前に東京に連行された)。

私は裁判所に入って毅然として自分の事務室に行った。マクドゥガル氏は私より先に来ていて、彼が近づいてきて数分間話をした。十時過ぎころ程なくして朱公亮(朱世明)将軍と私が迎えにやらせた羅秘書が一緒に来た。数分間話して私は羅秘書と方秘書を招いて彼らを「貴賓室」に座らせ、私は法衣を着て会議室に行き同僚と話したがこの時には九名の同僚がほとんど皆到着していた。それから英国のライト卿(Lord Wright 彼は特別に日本の視察に来ており、ニュンルンベルク裁判も見たという。彼はかなりの高齢だが国際法の権威として知られている)がいて、私たちと共にその場で話をした。

十時半になると総指揮が報告して二人のタイから連行された板垣征四郎と木村兵太郎の飛行機は今日の朝にすでに厚木飛行場に到着し、二人の戦犯を乗せた車は現在東京に向かっているところでまもなく法廷に到着するとのことであった。

私はこの知らせを聞いてとても嬉しく、観衆に三十分開廷を延期する事を報告するよう総指揮に命じる決定をした。この二人の戦犯のために日を改めてもう一度「演出」する必要をなくすためである。十一時すでに十分を過ぎたが、二人はまだ到着せず、電話で飛行場に尋ねると出発して二十分しか経っていないというので、少なくとも到着まであと一時間はかかる。我々は観衆が失望しないように、すぐに開廷する事にし午後に続けて開廷した時に起訴書を再読することにした。

裁判官たちの入場と席次はもう問題ではなくなっており、今日裁判所に到着した時に裁判長から書面で通知があり、裁判長が一番目のほか行列と席次は米、中、英、ソ、カナダ、仏、ニュージーランド、インド、フィリピンの順序となった。私たちは一列に並んで、私は米ソの間に入り、門のところに到着すると、総指揮が「静粛に」(Silence!)と声を上げ、我々が門に入る時には「観衆起立」(Spectator rise!)と叫び、我々は順番に審判席に上がり、各人が自分の席の前に立って、全員がそろってから座った。私たちが座ると、総指揮が「着席」(Be Seated!)と叫び、その場にいた検察官・職員・観衆の全体が席に就いた。

法廷はとても大きく、廊下はとても長く、審判席は高く、裁判官の人数は多くて、動きにくい法衣を着ているので、裁判官の登場だけで十分近くを占めてしまった。この時は最も緊張して、全会場からフラッシュが光り、太陽の下にある広場のようにカメラや撮影機から不断に光が浴びせられる。

裁判長のウェッブ氏は彼の準備した開幕の辞を読み、続けて通訳がなされた。憲章に基づいてこの裁判では日英の二種の言語で進められることになっていたからである。裁判長が開幕の辞を読んでいる間、私は裁判所の様子を一通り見渡してみた。審判席の向かいには秘書席と検察官席があり、キーナン検察長が中に座り、中、英、ソ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド、フィリピンの各国の陪席検察官が長方形の机を囲むように座っている。検察官席の左右は二つの大きな長方形の机があり、一つは被告の弁護士、一つは裁判の記録係りと通訳人員である。発言のスピーカーは検察官席と被告弁護士の間に置かれている。

この三つの大きな机の後ろに、審判席に面しているのが戦犯の座席で、これは地面より数メートル高い長方形の台の上にある。二十六人の戦犯が二列に別れて整然とそこに座っている。フラッシュがとても強く、撮影記者がうろうろしており、裁判官たちの挙動も人々の目の監視下にあるので、私はこれら戦犯たちを一人一人を確かめる余裕はなかった。どの裁判官の席にも戦犯の写真が並べてあり、しかも彼らの席順に並べてあった。私はただ中央に座っている東条と太って丸顔の土肥原を確認できた。東条の後ろに座っているのは大川周明であったが、精神病のふりをして時々に騒ぐので、米国の憲兵が後ろで制止して、あるときは力で押さえ込んでいた。彼はすでに書面で精神と身体の状態を鑑定するよう申請を出していた。彼は二十六名の中で最も滑稽で最も注目を浴びた演技者の一人であった。そのほかの各人は仏頂面で、落ち着いた様子をつくろい、特に東条はずっと動きもせず、まるで石膏の人形のようであった。

私はこれら二十六人の人々を認識する余裕はなかったが、彼らと対面している我々は、内心で無限の憤りと、無限の思いが込み上げてきた。これらの人々はみな中国侵略の専門家で、中国を数十年にわたり害し、我々の数百万の同胞が彼らの手によって殺された。だから我々の憤りは同胞の憤りでもある。私が今日審判席に上がってこれらの巨悪の元凶を懲罰する事ができるのは、我々数百万の同胞の流した血と引き換えなのである。私は警告しなければならぬし、また私は慎重にならざるを得ない。

裁判所の右側は二層の座席で、下の座席は完全に新聞記者とカメラマンが占めており、連合国と日本がそれぞれ半分を占め、合計で約四五百人いた。彼らは今日の仕事が一番忙しい一群である。会場の傍聴している群衆は、やはり連合国と日本人がそれぞれ半分を占め、その間ははっきり分けられていた。いうまでもなく傍聴席は人が多くて一杯だが、秩序は良く取れていた。入場券のないものは入れなかったから、今日入れたものはみな何かのツテがあったもので、幸運だったのだろう。聴いたところでは入場券は一週間前にはなくなってしまったそうである。

裁判所の左側はみな二層の座席であるが、場所はやや小さく、およそ一二百人だけが座れる。これらの座席は「貴賓席」である。今日の貴賓席に座っているのはみな連合国の東京にいるVIPたちで、特に米国陸海軍の高級軍人たちであった。我国からは朱公亮(朱世明)将軍一人で、私が羅秘書を遣って招待した。彼は第八軍の軍長でマッカーサー元帥の部下の第一のお気に入りアイケルバーガー将軍と並んで座り、たいへん注目を引いた。マッカーサー自身が会場にいなかったのは、極東に食糧危機の調査に来た米国のフーバー前大統領を迎えに行ったからだそうである。

裁判長の開幕の辞が終わると、キーナン検察長が各国の陪席検察官の紹介をしたいと申し出た。明思(向検事)は真っ先に紹介された一人で、フィリピンのロペス(Lopez)氏の次であった。その次に、裁判の記録官と米国籍と日本籍の通訳人員が宣誓し、総指揮のヴァン・ミーター(Van Meter)氏が宣誓式を司会した。これらの手続きが終わると、裁判長は休廷を宣言して、午後二時半に二人の戦犯が到着してから再度起訴書を朗読する事にした。総指揮が大声で全体の観衆に起立を求め、我々は並んで退場した。裁判官たちは会議室でしばらく休憩して、ホテルに戻って昼食を取る事にした。

昼食の後一時間ほどうたた寝し、二時半前に裁判所に戻った。開廷の儀式は午前と同じで、観衆は依然として一杯であった。戦犯席は二人増えて、今日の午前に専用機でタイから連行された板垣征四郎と木村兵太郎がいた。板垣は中国侵略の主導者で、この名前を私は良く知っていたので、まじまじと彼の顔を見た。

しかし今日は開廷の一日目であったので、すべてが何もかも新鮮で、わたしも対面していた一群の犯人たちばかりを注目してもいられなかった。しかし私はこれらの一群の人々を見ていると義憤に駆られ、まるで同胞の憤りや恨みがすべて私一人の胸の中で叫んでいるかのようであった。まだ時間は早く、これは始まりにしか過ぎず、これらの巨悪の元凶たちはすでに法の縄に就いているのであるから、彼らが正義と公正の厳正なる制裁を免れる事はない。

今日の午後の手続きはとても簡単で、ただ総指揮のヴァンミーター氏と代理書記長のデル(Dell)氏が交代で起訴書を朗読しただけであった。一つの訴因(count)を読み終わるごとに一度通訳が入る。二つの言語を用いるので、これは避けられない面倒である。私は米国から八百個のイヤホンを調達し、この面倒を最適限度まで減少させるよう希望した。

二時間経って、ようやく二十二の訴因を朗読し終えたところで裁判長が休廷を宣告し、明日の九時半に再開する事になった。休廷を宣告している時に、あの狂人を装った大川が東条の頭を二度たたいて、「私は東条を殺したい」と叫び、会場に笑い声がどっと溢れた。

我々が退出した後に会議室に行き、コーヒーを飲みながら大川の問題を討論したが、結果は申請を許可して、彼を収監して裁判所の指定する二人の医者に彼の精神状態と身体の状態を検査させて、法廷で審査するに適しているかどうかを見ることにした。この議案が通過すると、みなは急いで去っていった。これで苦労の一日がようやく終わった。私は明日に中国の飛行機が上海に戻るので、ホテルに戻ってから手紙をすぐに整理し、婉如への贈り物を包んだ。

七時半に私は車に乗って代表団のところに来て、自ら李済之氏に手渡した。約十分間別れの言葉を述べてから、食事のために戻った。食事が終わったのはすでに九時であった。マクドゥガル氏が映画に誘ってくれたが、とても疲れていたので最後まで見ずに映画館を出た。太極拳を練習して、シャワーを浴びたときにはすでに十二時になっていた。今日は裁判が本当に動き始めた一日で、私はすべてがこれから順調にことが運んで、遅延しないように願った。ここまで思うと、私は言葉にできない愉快を感じた。

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2015年11月18日

中国と東京裁判(16):『梅汝璈日記』13

1946年5月2日木曜日
明日は極東軍事法廷の開幕で、私はずっと臨時法官会議が開かれるのではないかと気にかかっていたので六時前に目が覚めた。熱海は温泉浴で有名なので、私は再び湯船に浸かってひと風呂浴びすこしの菓子を食べてから淡如(王之将軍)と車に乗って東京に向かって出発した。運転手は少し疲れているようだったが自動車は平穏に進みスピードも出したので、九時半にならないうちに帝国ホテルに着いた。

方秘書から電話があり、法官会議はなく、法官たちも二三名が裁判所にいるだけとのことであった。私はそこで裁判所には行かない事にし、その時間で起訴書をじっくりと読むことにした。
起訴書は非常に長くて、大きな紙に字がびっしりと約40数枚もある。しかし主文は十四枚だけで残りは附録である。
訴因は全部で五十五項目あり、三つに分類される。
第一類―平和に対する罪(訴因1−36)
第二類―殺人及び殺人共同謀議の罪(訴因37−52)
第三類―通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因53−55)
起訴される戦犯は二十八名で、みな近年来日本の政治、軍事、経済、文化の各方面で重大な責任を担っていた首脳級の人物である。彼らをアルファベット順に並べると次の通りである。
1荒木貞夫
2土肥原賢二
3橋本欣五郎
4畑俊六
5平沼騏一郎
6広田弘毅
7星野直樹
8板垣征四郎
9賀屋興宣
10木戸幸一
11木村兵太郎
12小磯国昭
13松井石根
14松岡洋右
15南次郎
16武藤章
17永野修身
18岡敬純
19大川周明
20大島浩
21佐藤賢了
22重光葵
23島田繁太郎
24白鳥敏夫
25鈴木貞一
26東郷茂徳
27東条英機
28梅津美治郎
この二十八人の名前は、大方私の良く知るところであり、ほとんどがかつて中国に害をなした者たちで、特に土肥原というのは中国に分裂と内乱を起こす専門家で、さまざまに陰謀をめぐらし詭計に長じた人間である。彼の半生の歴史は中国を害した歴史でもある。その次は松井石根で、彼は南京大虐殺の総指揮官で、中国人は永遠にこの殺し屋の頭目を忘れないだろう。板垣・小磯・梅津はどれも中国侵略の将軍で子供や婦人でも知っている。それから九一八満州事変の後に国際連盟に出席した松岡、一二八淞瀘戦争後に虹口で足を爆破された重光、「日中提携三原則」の提唱者の広田、これらの人物も二三十年来多くの中国を害する罪を犯してきた人々で中国人は彼らの名前を骨に刻むほど恨んでいる。

起訴書はとても長くて、昼食時間まで読んでもわずか三分の一を読み終えただけであった。昼食後に少し寝た。起きた後に太極拳を練習した。四時から再び起訴書を読み始めたが、読めば読むほど怒りがこみ上げてくる。六時には正文を大体読み終えた。淡如(王之将軍)が来て、向明思(向検事)もちょうど中国から着いた所で、明日の開廷に出席する準備をしているとのこと。私はお菓子を取り寄せて彼らとお喋りをした。

あさっては中国の専用機が上海に戻るので、李済之博士がこの機に乗って帰国する。明日は開廷で一日忙しいので、私は今日の晩に急いで数通の手紙を書いて彼に託すことにした。晩飯の後に手紙を書くことに没頭し、あわせて八通の手紙を書き、そのうちの一通は孫院長に三ヶ月の連続した休暇を申請した。私が立法院に申請した休暇届けは三ヶ月(2月10日から)で今月の10日は満期になるからである。その他の数通の手紙は父親、波師、澧叔、秋原、一飛、敏恒、傑夫(復旦の友人)に宛てたものである。手紙には英文の新聞の切抜きを二枚、起訴書の要旨が掲載されたものと、裁判審理手続きと裁判官の写真が掲載されたもの、それから各被告戦犯の個人の写真(羅秘書に彼らの名前の上に漢字を加えさせた)を添付した。こうして、私の手紙はとても簡単だが、彼らは添付された文書をみればすぐに私の言いたい事を理解するはずだからである。

このような方法で、私は二時間以内に八通の内容がとても豊富な手紙を完成し、封筒にあて先を書いて、切手を貼った。私はとても満足に感じた。バーに行ってコーラを飲んでいる時に、裁判長のウェッブ氏に出会うと、彼は「明日は開廷の吉日だから、今日は早く休むほうがいい」と言った。私たちはお互いを見て笑った。私は部屋に戻って日記を書き、寝た時の時間は一時近くになっていた。

今日は熱海から東京に戻る途中で横浜一帯で多くの労働者団体がデモをしているのを見たが、秩序は良好で、男女の工人たちはみな衣服が清潔で、身体も壮健で、千万人の群衆の中に少しも栄養不良の様子は見られなかった。私はどうしてマッカーサー司令部は毎日日本人のために食料不足を叫んでいるのか不思議で、彼らのために至れり尽くせりなのかと疑った。このような敗戦国はほんとうに「運のいい」敗戦国である。我々のような災難が多い戦勝国に比べると、我々は嘆息せざるを得ない。

メーデーのデモでもう一つ気が付いた現象は赤旗が特に多いということである。私が一人の日本人の知識人に尋ねると、彼は「以前はこんな事はなかった。赤旗は革命の象徴で、赤化を意味している。世界が左向きに向かっているから、大勢の赴くところは、誰にも止められない」と語っていた。

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