2014年09月25日
湖東焼 壺 きじ 花
湖東の銘
サイズは概ね 高さ:55cm 直径:25cm 重さ:4.5Kg
彦根藩井伊家の御用窯で1842年に井伊家14代直亮が絹屋半兵衛に上納されたのが始まりとされている。
以降、九谷、瀬戸、京都の陶工・画工を招いて45年には大量の磁器制作をするために5間の丸窯を築窯、販売ルート確立の為に問屋制の実施など藩の名物となる。
直亮の没後(1850年没)は嗣子の直弼が井伊家十五代に就任して引継いだが、この頃丸釜改築の負債などがかさみ湖東焼存続の危機に遭う。
しかし、直弼が存続を強く希望し新たに良工を各地より招致(この復興の為に招致された陶工の中に有名な所では京都の幹山伝七、3代 清水六兵衛、九谷の木崎卜什など)、再び興隆の兆しを見せていたが60年に直弼が桜田門外の変にて没すると急激に陶工が四散し、62年直弼の子直憲の時代に廃止となった。
作品は染付中心であったがそのほかにも各地より専門技術を有する陶工を多数招致していた為に赤絵、呉須、青磁、九谷、伊賀、織部、志野、交趾、京焼、中国写など各地の諸窯の作品も製作、又磁器絵付けにおいても寿老人、羅漢、仙人などの人物から花鳥、獅子、鳳凰、孔雀など動物、鳥獣に至るまで多岐にわたる。
しかし、藩窯になる以前より絹屋窯、また後年には山口窯がありさらに中山道沿いの旅人に販売していた床山、自然斎、賢友と号す陶人や敏満寺焼、久平焼、文助焼、亀七焼、円山湖等焼、北川焼など藩窯とは別の近隣諸窯も存在。
藩窯製の物には直弼が一応下記参照の書銘、陶印に統一させていたが、無名の物や書銘を入れる陶工が毎回違う為、また上記の自然斎らの陶人、近隣諸窯も湖東銘を使用していた為、さらに写し物では角福、成化年製といったものも残り、これが現存している湖東焼の書体が様々になっている由縁となり、そうした物以外にも贋物も多数造られているので一概に藩政時代の湖東焼とは言えず、判別は困難を極めている。
さらにそうした事由のほかに藩政時代の窯(20年間ほど)と諸窯を加えても40年間ほどしか製作されていない為に幻の窯とされている。
また、藩政時代の湖東焼の優品の多くが井伊家に納めらており、彦根藩江戸屋敷に多数所蔵されていたが1923年の関東大震災時に大半が失われたとされている。
サイズは概ね 高さ:55cm 直径:25cm 重さ:4.5Kg
彦根藩井伊家の御用窯で1842年に井伊家14代直亮が絹屋半兵衛に上納されたのが始まりとされている。
以降、九谷、瀬戸、京都の陶工・画工を招いて45年には大量の磁器制作をするために5間の丸窯を築窯、販売ルート確立の為に問屋制の実施など藩の名物となる。
直亮の没後(1850年没)は嗣子の直弼が井伊家十五代に就任して引継いだが、この頃丸釜改築の負債などがかさみ湖東焼存続の危機に遭う。
しかし、直弼が存続を強く希望し新たに良工を各地より招致(この復興の為に招致された陶工の中に有名な所では京都の幹山伝七、3代 清水六兵衛、九谷の木崎卜什など)、再び興隆の兆しを見せていたが60年に直弼が桜田門外の変にて没すると急激に陶工が四散し、62年直弼の子直憲の時代に廃止となった。
作品は染付中心であったがそのほかにも各地より専門技術を有する陶工を多数招致していた為に赤絵、呉須、青磁、九谷、伊賀、織部、志野、交趾、京焼、中国写など各地の諸窯の作品も製作、又磁器絵付けにおいても寿老人、羅漢、仙人などの人物から花鳥、獅子、鳳凰、孔雀など動物、鳥獣に至るまで多岐にわたる。
しかし、藩窯になる以前より絹屋窯、また後年には山口窯がありさらに中山道沿いの旅人に販売していた床山、自然斎、賢友と号す陶人や敏満寺焼、久平焼、文助焼、亀七焼、円山湖等焼、北川焼など藩窯とは別の近隣諸窯も存在。
藩窯製の物には直弼が一応下記参照の書銘、陶印に統一させていたが、無名の物や書銘を入れる陶工が毎回違う為、また上記の自然斎らの陶人、近隣諸窯も湖東銘を使用していた為、さらに写し物では角福、成化年製といったものも残り、これが現存している湖東焼の書体が様々になっている由縁となり、そうした物以外にも贋物も多数造られているので一概に藩政時代の湖東焼とは言えず、判別は困難を極めている。
さらにそうした事由のほかに藩政時代の窯(20年間ほど)と諸窯を加えても40年間ほどしか製作されていない為に幻の窯とされている。
また、藩政時代の湖東焼の優品の多くが井伊家に納めらており、彦根藩江戸屋敷に多数所蔵されていたが1923年の関東大震災時に大半が失われたとされている。
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