2014年09月09日
九谷庄三 香炉
九谷焼 香炉
久谷庄三 銘
サイズは概ね 10×10×12cm
九谷庄三
【出身地・師系】
加賀国(石川県)出身
【略歴・作風など】
加賀国能美郡寺井の農民の子として生まれ、11歳の頃より画工として陶業に携わり、その後九谷の窯場を巡遊、また小野窯、梨谷小山焼や越中丸山焼では陶技指導にも講じて26歳の頃に寺井に工房を開き独立。
当時日本画の顔料が中心であった絵付けを輸入され始めたばかりの洋画の顔料に切り替えて今まで表現が困難であった中間色の釉薬を完成、さらに金彩の技法に優れ極彩色で緻密な描写の「彩色金襴手」の作風を確立、現代九谷焼の基盤となった。
明治に入ると庄三の作品は海外にも輸出されその絢爛豪華な作域が大いに好評を得た。
〔陶 印〕
赤絵手描「庄三」「九谷庄三」「大日本庄三」「庄三製」など多数。角福印との併用や金彩で枠飾りの物などは上手の部類に入る。が複種の手描印のため近年の贋物・模写品が多数横行し、庄三銘の物は90%が偽物と云われるほどなので、鑑定鑑別には細心の注意と研究が必要。
特徴は、真作の場合、大小にかかわらず字体の端々の筆はらいを強調した楷書または草書で字体の賓を見るようにする。
〔市場評価〕★★
文化13年(1816)、能美郡寺井村の農業茶屋庄三郎の子として生まれ庄七と云った。 わずか11歳で上絵付の陶工として歩み始め、当時九谷上絵付の名工として最も著名であった粟生屋源右衛門と共に 主工として活躍し非凡な才能を発揮したといわれる。 庄七は天保3年(1832)より小野窯陶画工として従事し、そして源右衛門からは多大の影響を受けたとみえる。 また庄七在銘の赤絵細描の作品は、古酒屋孫次や、金沢の民山窯の影響によるものと思われ、小野窯は一時期薮六右衛門から、 一針村の塚野善太夫に経営が移ったが、庄七はそのまま小野窯に留まって上絵付に従事していた。 天保12年(1841)、庄七は26歳で寺井に帰り、工房を開いた。この頃より本格的な活動期に入り 、名前も嘉永頃(1850頃)より庄七から庄三に改めている。作風は、故事に基づく南画風な題材を中心として、 小野窯時代の赤絵細描に色絵と永楽風な金彩を加味した華やかな「庄三風」を完成、 一方大和絵的な草花をも好んで描き、琳派風な作品も多く残している。また、 加賀平野の農村地帯で働く農民の姿に強く愛着をもっていたと見え、色絵の細描で農耕図・茶摘み図などを見事に描き出しており、 これらに優品が多い。 洋絵具を取り入れ「彩色金襴」技法を確立し、 さらに、江戸時代末期から明治初期にかけて、日本に輸入された洋絵具をいち早く取り入れ、 顔料釉薬のみでは表現できなかった中間色の絵付にも成功し、描画の繊細と多彩な作風を生み出した 「彩色金襴」という技法を確立する。こうした精密な九谷上絵の傾向が、明治初年の外国貿易品としての好みに適し、 商人の手によって大量に輸出され、また国内に販路を拡げた。このようなことからこうした作風が 「庄三風」として九谷焼作風の大きな比重を占めるにいたったのである。工房には200余人にもの職人がいたと伝えられている。 初代武腰善平、徳久弥三次、中川二作、小坂磯右衛門、中野忠次、笠間弥一郎等の名工を生み、 庄三以上の腕前をもった絵付陶工もいたようだ。そうした意味で、九谷庄三は、九谷焼生産に果たした役割が 極めて大きく、今日の産業工芸としての九谷焼の基盤を確立した人物である。
久谷庄三 銘
サイズは概ね 10×10×12cm
九谷庄三
【出身地・師系】
加賀国(石川県)出身
【略歴・作風など】
加賀国能美郡寺井の農民の子として生まれ、11歳の頃より画工として陶業に携わり、その後九谷の窯場を巡遊、また小野窯、梨谷小山焼や越中丸山焼では陶技指導にも講じて26歳の頃に寺井に工房を開き独立。
当時日本画の顔料が中心であった絵付けを輸入され始めたばかりの洋画の顔料に切り替えて今まで表現が困難であった中間色の釉薬を完成、さらに金彩の技法に優れ極彩色で緻密な描写の「彩色金襴手」の作風を確立、現代九谷焼の基盤となった。
明治に入ると庄三の作品は海外にも輸出されその絢爛豪華な作域が大いに好評を得た。
〔陶 印〕
赤絵手描「庄三」「九谷庄三」「大日本庄三」「庄三製」など多数。角福印との併用や金彩で枠飾りの物などは上手の部類に入る。が複種の手描印のため近年の贋物・模写品が多数横行し、庄三銘の物は90%が偽物と云われるほどなので、鑑定鑑別には細心の注意と研究が必要。
特徴は、真作の場合、大小にかかわらず字体の端々の筆はらいを強調した楷書または草書で字体の賓を見るようにする。
〔市場評価〕★★
文化13年(1816)、能美郡寺井村の農業茶屋庄三郎の子として生まれ庄七と云った。 わずか11歳で上絵付の陶工として歩み始め、当時九谷上絵付の名工として最も著名であった粟生屋源右衛門と共に 主工として活躍し非凡な才能を発揮したといわれる。 庄七は天保3年(1832)より小野窯陶画工として従事し、そして源右衛門からは多大の影響を受けたとみえる。 また庄七在銘の赤絵細描の作品は、古酒屋孫次や、金沢の民山窯の影響によるものと思われ、小野窯は一時期薮六右衛門から、 一針村の塚野善太夫に経営が移ったが、庄七はそのまま小野窯に留まって上絵付に従事していた。 天保12年(1841)、庄七は26歳で寺井に帰り、工房を開いた。この頃より本格的な活動期に入り 、名前も嘉永頃(1850頃)より庄七から庄三に改めている。作風は、故事に基づく南画風な題材を中心として、 小野窯時代の赤絵細描に色絵と永楽風な金彩を加味した華やかな「庄三風」を完成、 一方大和絵的な草花をも好んで描き、琳派風な作品も多く残している。また、 加賀平野の農村地帯で働く農民の姿に強く愛着をもっていたと見え、色絵の細描で農耕図・茶摘み図などを見事に描き出しており、 これらに優品が多い。 洋絵具を取り入れ「彩色金襴」技法を確立し、 さらに、江戸時代末期から明治初期にかけて、日本に輸入された洋絵具をいち早く取り入れ、 顔料釉薬のみでは表現できなかった中間色の絵付にも成功し、描画の繊細と多彩な作風を生み出した 「彩色金襴」という技法を確立する。こうした精密な九谷上絵の傾向が、明治初年の外国貿易品としての好みに適し、 商人の手によって大量に輸出され、また国内に販路を拡げた。このようなことからこうした作風が 「庄三風」として九谷焼作風の大きな比重を占めるにいたったのである。工房には200余人にもの職人がいたと伝えられている。 初代武腰善平、徳久弥三次、中川二作、小坂磯右衛門、中野忠次、笠間弥一郎等の名工を生み、 庄三以上の腕前をもった絵付陶工もいたようだ。そうした意味で、九谷庄三は、九谷焼生産に果たした役割が 極めて大きく、今日の産業工芸としての九谷焼の基盤を確立した人物である。
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