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2014年09月08日

駿河漆器 

実に見事な色彩の漆塗りお重

サイズは概ね幅20×奥20.5×高さ38cm

静岡漆器同業組合検査証あり


製造は、明治時代(静岡漆器同業組合検査証より)


箱は大変古く、傷みみられますが、

中の漆器の保存良く、とても美しい


純和風で、むしろ外国人にも喜ばれそうです。

駿河漆器

静岡で漆器が作りはじめられたのは、いつ頃か明らかではありませんが、登呂遺跡から
の出土品にも漆が塗られた器があり、また、今川時代の文献にも当時、静岡で漆器を作っ
ていたことが記されており、古くから静岡で漆器が作られていたことがわかります。
漆器が、静岡に根をおろすようになった要因は、徳川時代に行われた浅間神社造営によ
り、江戸をはじめ各地から集められた漆工たちが、造営後も住みやすい静岡に移り住み、
技を磨くかたわら土地の人達に漆芸技術を教え広めたことと言われています。
駿府の漆芸品は、享保年間(1716〜1736)に幕府の商業政策のもとで保護奨励をうけ、
諸候の参勤交代の折の土産物として諸国に知られるようになりました。
明治初期になると、静岡の漆器職人は輸出品を作り始めます。横浜港が開港されると、
駿府の商人は共同で横浜に出店し、駿河の漆器や茶の輸出取引を始めました。
慶応3年(1867)にパリで開かれた万国博覧会に、日本は初めて出品します。このパリ
万博に駿府からも日本を代表する物産として漆器のタンスが出品されています。明治 6 年
(1873)のウィーン万博では、寄席木細工の漆器が静岡から出品され賞に輝きました。万
博での入賞を契機に、海外から注文が殺到し、低価格で精巧な漆器は、ヨーロッパ各国に
広がりました。
日清戦争後、日本の漆器の黄金時代を迎えた頃には、全国の輸出漆器の大半を駿河漆器
が占めていました。この時代に、駿河漆器の一つの特徴となっている様々な変わり塗りが
開発されています。
ところが第一次世界大戦が始まると、対欧貿易が途絶えるようになり、静岡の漆器職人
は、塗下駄や雛具あるいは鏡台の製造に転向していきました。昭和になると、「輸出漆器工
業組合」を組織し、輸出品の品質向上を図り、駿河漆器の名声維持のための努力を続けま
した。
第二次世界大戦後の輸出の進展に伴い、業界では過当競争による値下がり傾向が進み、
漆器製造にかかる各部門を統合するため「静岡県輸出漆器商工協同組合」を昭和 33 年(1958)
12 月に設立しました。
伝統の技術を活かし、新時代に適応するデザインで、工芸品としての価値を見出すため
漆器連絡協議会を立ち上げ、昭和 34 年(1959)10 月には「静岡漆器協同組合」として組
織されました。この組合が現在の「静岡漆器工業協同組合」です。
江戸時代から続く髹

漆(きゅうしつ)技術を継承し、明治時代以降も高い技術水準を保
ちながら、数多い技法を有して、豊富な品種とともに駿河漆器の製品は作られています。
平成 19 年 9 月 7 日、静岡漆器工業協同組合が申請していました「駿河漆器」が、地域
団体商標登録され、地域ブランドとして保護されることとなりました。商標登録第 5074934
号、商標登録第 5074935 号、商標登録第 5074936 号で、指定商品は、静岡で漆塗りを施し
た漆器製の椀、盆、箸、筆箱、筆立てなどです。


■私立漆工学校・静陵図案会・物産陳列館
○私立漆工学校
静岡の漆工芸も明治 20 年代より欧米文化の色が濃くなってきます。デザインや構図の追
及が始まるものの、デザインの専門家がいたわけではなく、新風の漆工芸に理解と興味を
持つ小栗常蔵らが、漆工芸界をリードすることになりました。
小栗は徳川家に随従した家臣団の一人で、狩野芳崖の門下でした。小栗は二番町に住み、
漆工と蒔絵の弟子を集めて絵画を教えていましたが、明治 33 年(1900)に初代静岡市長星
野鉄太郎を校長に迎え、三番町に私立漆工学校を設立しました。当時市内の有力な漆器問
屋であった、中村嘉十、小沢誠一、岩本庄吉、海野善次郎、矢沢久右衛門らが設立に協力
し、文部省の認可や助成に奔走しました。
当学校は、三年制で髹漆(漆工)、蒔絵、木工の三科を置き、指導陣には、東京上野の美
術学校で学んだ萩原元次郎が漆工を、同じ美校出身の藤村彦四郎が図案を教え、蒔絵部長
に酒井遷、塗りの部長に長嶋清吉などがいました。後に県立工業試験場からも技士などを
迎えていましたが、明治 42 年(1909)に廃校となりました。
○静陵図案会
明治 33 年(1900)、当時静岡県立静岡尋常中学校教諭小栗常蔵(東京美術学校出身)の
指導のもとに、中條重太郎、小林八郎、原田金吾等数 10 名が静岡漆器同業組合に集まり、
毛筆画を学習していました。同志が増えるにつれ静岡漆器工青年会と名づけた会を組織し、
絵画の学習と漆器図案の研究を行うようになりました。
明治 40 年(1907)会の名を「静陵図案会」と改名し、新たに会則を制定して新発足しま
した。会の目的として、「静岡市存在の蒔絵業者を以て組織し、ひろく工芸図案、特に輸出
漆器の意匠図案の進歩改善を図り、これの研究製作をなすことを目的とする」とあり、以
来、意匠図案講習会の開催、懸賞課題図案、漆器展覧会の開催、優秀図案の印刷配布等の
事業の計画と実施を行いました。
大正 3 年(1914)市の徽章の懸賞応募があり、静岡の「葵に岡」の徽章は、会員の中川
延次郎が応募、採用決定されたものです。
大正 10 年(1921)6 月、初めて長期意匠図案講習会が開催されました。これは従来実施
してきた意匠図案研究を強化したもので、毎年一カ月夜間 3 時間、三カ年をもって修了す
るもので、後進子弟の基礎教育に重点をおくものでした。
大正 14 年(1925)5月、天皇皇后両陛下ご結婚 25 周年銀婚奉祝にあたり、本会及び静
陵漆器若葉会は、静岡県より献上衣装盆ひと組の製作依頼の光栄に浴し、大正 14 年 9 月 30
日これを完納しました。
この図案会の活動は、大正から昭和初期にかけて静岡の漆芸意匠に一つの流れを提起し
てきましたが、昭和 33 年(1958)に静岡木漆共同職業訓練所にバトンタッチされました。
○物産陳列館 静岡市は明治 38 年(1905)、「物産陳列館」を駿府城城代橋付近に建設しました。当館
は地場産業の委託販売及び各種展示会からはじまり、技術講習会、県内、諸外国から参考
品を購入し展示するなど次第に地場産業の発展にかかわる総合センターの機能を有するよ
うになりました。
事業の拡大に伴い名称も「商工陳列所」、昭和5年に木工の発達に寄与すべく付属工作館
を建設して翌6年には「商工奨励館」と改名しました。
しかし、この施設は昭和 20 年(1945)6 月の静岡大空襲によって灰塵と帰しました。
昭和 25 年(1950)に開所された「工芸指導所」はその継承施設として安倍川町(現葵区
新通)に建設され、静岡市特産品たる内外各種産業工芸品の質的改善と技術意匠の向上を
図る目的で、商品生産のための研究指導や各種展示会を行ってきました。
その後建物の老朽化が著しく、時代の流れに沿った指導範囲を拡充するため組織、名称
を改めて、昭和 48 年「静岡市産業工芸センター」が現在の駿河区中島に建設されました。
昭和 53 年(1978)ごろからは、不況から脱し景気が上向きとなり、静岡市内で開催され
る見本市、展示会などが増加してきます。特に地場産業関係の見本市は回を重ねるごとに
大規模化して、従来使用していた市立体育館、駿府会館等では手狭になってきました。ま
た、もともと展示機能を備えた施設ではないので利用上さまざまな制限と不便も感じてい
ました。
これを契機に、積極的に地場産業の育成と振興を図るには、拠点となる専門展示場が必
要であるとの機運が高まり、昭和 57 年(1982)静岡産業館がオープンしました。平成 8 年
(1996)にはツインメッセ静岡として、展示場面積の増設と各種会議室等の充実を図り、
今日に至っています。
一方で、平成 3 年(1991)JR静岡駅アスティ静岡内に株式会社駿府楽市を開設し、地
場産品の宣伝・展示及び委託販売によって、「物産陳列館」の初期の機能を継承しています。
参考ですが、静岡県においては、明治 39 年(1906)漆芸及び紙業の試験研究機関として
「県立工業試験場」を設立しています。
漆器部には、図案、描金(蒔絵)、髹漆(漆工)、木工の4科が置かれ、硬化透明彩漆に
よる新しい蒔絵法や改良下地の発明など業界の発展を促す新技法を次々と開発しました。
図案科には、人間国宝であり静岡市名誉市民である芹沢_介も在職したことがありまし
た。工芸品の命は特にデザインであるとの考えから、図案科は漆器だけでなく、染色、玩
具、家具、鏡台など広い範囲に渡って指導、実績をあげました。

P1110094.JPG

P1110058.JPGP1110056.JPGP1110052.JPGP1110053.JPGP1110057.JPGP1110065.JPGP1110061.JPG

posted by 越後守 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 茶道具
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