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2012年11月29日

「街場の教育論」内田 樹(うちだ たつる) ミシマ社 がイイ! 「間違いなく今年、一番面白かった本です。」 (紀伊国屋書店本町店 百々典孝) 「『成熟は葛藤を通じて果たされる』 !!!

「街場の教育論」内田 樹(うちだ たつる) ミシマ社 がイイ!

「間違いなく今年、一番面白かった本です。」
(紀伊国屋書店本町店 百々典孝)

「『成熟は葛藤を通じて果たされる』
 この一文が一番頭の中をかけめぐっています。」
(旭屋書店 柴田夕希子)



東京の大学から神戸女学院へ都落ちして
逆に花開いてしまった内田樹大学教授の書かれた本です。
人生って不思議ですね。

もう、退官されていますが、
これからの活躍をますます期待したい人物です。
世のため人のために、もっともっと発言して欲しい。





グローバル資本主義に毒されて、
経営者にとって都合のよい
社員間(労働者間)の競争
社員(労働者)の分解
進んでしまった今の日本の世の中!!

諸悪の根源はまさに、
この人間を『モジュール化』する
グローバル資本主義だとの主張には
大きく頷かざるを得ませんでした。



やり甲斐のある仕事」を求める若者は
グローバル資本主義に毒されているのだとの主張!!

成果がハッキリしていて、
責任の所在がハッキリしていて
成果を全部独り取りできる仕事。

それが、モジュール化された仕事
砂粒化された仕事であり、アウトソーシングされた仕事であり、
派遣の仕事であり、責任領域を厳格に定められた、
考えることを許されない仕事です。
なぜなら、グローバル資本主義においては、
考えるのは労働者ではなく経営者の仕事だから。


チーム・ワークやコミュニケーションや
上も下もみんなで繋がりながら
人間関係に縛られながら
無駄や無理だらけの
会社のために、これも手伝っちゃおうなんて、
従来の重たい仕事は「やりがいのない」
旧態依然の仕事だという感覚!!



確かに私たちは、この現実に少しずつ気づき始めています。
今の社会の状況は、グローバル資本が
働き手を解体し非正規雇用を増やし
組合を解体し、経営者と労働者を厳格に分けて
働く人を使い捨てにするための
策略だったのではないかと。



いまの企業が駄目駄目なのも
労働環境が過激な程に劣化したのも、
企業の経営者と労働者が分裂したのも
企業の経営者が結果として
労働者を人とも思わずリストラできるくらいに
人間として劣化したのも・・・


そして、若者が一人暮らしをして
結婚をしないのも
すべて、消費活動を最大限まで引き出そうとする
グローバル資本主義の策略が効を奏したのだとしたら・・・


家族で何かを買うよりも
個人の「個性」の発露として
それぞれの人間が購入活動を行った方が
消費は増える!!


だから、資本主義は家族の解体
必然として指向するのだと
内田先生は指摘されています。


歴史の必然なのか、
グローバル資本主義の策略なのか、
いずれにせよ、家族の結びつきは
昭和の時代よりもはるかに緩くなり、
個人が「尊重」され我々は「自由」になった。


ちょっと前の日本の資本主義、
そして、ずっと前のアメリカの資本主義も
愛や人のつながり義理人情に満ちていた・・・


そして、現代のこの
殺伐たる会社の風景
社会の風景
は何なんでしょう?


「街場の教育論」で
内田氏は教育論を語っているようで
実は核心的には
この社会を覆う閉塞状況全般
原因と分析を行っています。


帯にはこうあります。


「日本の教育が『こんなふう』になったのは、
 われわれ全員が犯人
 教壇の上には誰が立っていても構わない。
 学校はどの時代であれ
 一度として正しく機能したことなんかない。
 『他者とコラボレーションする能力』の涵養こそが喫緊の課題。
 学校、教師、親、宗教・・・
 あらゆる教育のとらえ方がまるで変わる、
 驚愕・感動の11講義!」


社会の閉塞状況も
学校でおきる子供たちの状況もすべて
グローバル資本主義もしくは
資本主義の歴史的必然が
「人と人とのつながる力」をから
我々から奪って来た成果だと考えると
たしかに、納得できることが多い。



内田氏は解決策は明示していません。
しかし、もし、分析が正解であるならば、
我々一人一人が良く考えて、
悪い資本主義に洗脳されずに

良き家庭人たらんとし、
良き社会人たらんとし、
良き仲間たらんとし、
人を人として扱い、
良き経営者たらんとし、
人と人のつながりや義理人情を大切にする
社会をもう一度取り戻すことが
まず必要なのでしょう。

難しいです。
私たちはいつの間にか
「強いもの勝ち」の世の中を肯定してしまいましたから。
弱いものを抱え込んで
みんなでやって行く発想を否定してしまいましたから。
競争、競争、競争!!力をつけて、周りの人間に勝て!!孤独になりますわ。



また、
会社の面接試験と大学入学試験の違いについて
書かれている事実は納得です。
面接官に直接聞いたところ、
入室して椅子に座るまでに合否は大体決まるそうです。

あの優秀な学生がなぜ面接試験に成功しないのか。
他者とコラボレーションする能力」がキーワードなんです。
最近の「優秀」な学生に欠如しているのは
実は「競争を勝ち抜く能力」ではなく
つながる能力」だという事実。


それでも、企業の役員や経団連の「偉い」人たちは
社会に出てすぐに使える生徒・学生を学校で養成するためには
詰め込み学習を増やし、
行事やイベントは教育の無駄であるとの
発想からはなれられない。


意外なことに、悪名高い「ゆとり教育」こそが
この社会の救世主だったのかも知れません。


内田氏は、
政治家が役職に付くと
必ず教育改革を叫ぶ理由についても
書いています。

それは、一番簡単で責任をとらずに済む
それでいて、仕事をアピールできる「政策」だから。
結果が分かってくるのは10年も先であって
そのころにはその政策が誰の発案かなんて
誰も覚えていません。

犠牲になるのは
結局、児童、生徒、学生であり
振り回されてわけが分からなくなりそうな
現場の先生方ではないでしょうか。


学校の先生に大して
政治家や社会が求めていることは、
端的に言えば、
子供たちに向かって、
「つながるな!無駄は省け!
 自分だけの能力を高めて
 競争に勝つのだ!!」
なんてことになりそうな、
世の中の雰囲気は確かに変です。

でも、少なくとも大人はこの言葉を
この10年ずっと浴びせられて来ました。


逆に「人と繋がる能力」は
予備校でも、進学一辺倒の学校でも
教えてはくれない。
そして、残念なことに
この「つながる・なかよくできる」能力こそ
実践的社会人の能力として
涵養しなければならない能力であると
発言する識者はほとんどいません。



資本主義が学校を浸食している!!
「オリバー・ツイスト」よりも
より巧妙でずる賢いやり方で!!
それが、子どもたちが追い込まれている状況です。



この本全体の本質を一番表現していると
思える部分を少し長くなりますが、
引用します。

何となく感じていることを、
きちんとした言葉につむいでくれた
内田氏に感謝です。



「現在の教育危機は『地殻変動的』規模で
進行中の社会全体の変化の一つの相に他なりません。
私はこれを学校教育の中に社会システムが入り込みすぎて、
コントロールを失った状態だと理解しています。

 何度も申し上げたように、
学校というのは、子どもたちを『外界』から隔離し、
保護する
ことをその本質的な責務とするものです。
学校と『外の社会』との間には『壁』がなくてはならない。
子どもたちを外から守る『壁』がなくてはならない。
学校は本質的に「温室」でなければならない。
これは異論のある方も多い(半数以上の日本国民が私に反対するでしょうけれど)と
思いますけれど、私の譲ることのできない教育観です。

 学校の仕事、教師の仕事は、
なによりも『外部』への欲望を起動することですけれど、
それはふつうの人が考えるような『俗世間』のことではありません。
子どもたちに『世の中、所詮、色と慾だ』というようなことを教えるのが
『外部』との回路を立ち上げるということではありません。
そのような、現に親たちや周囲の大人たちやメディアが喧伝する
『世俗の価値観』とは違う文法で叙され、ちがう度量衡で考量される
『叡智の境位』が存在するということを信じさせること、
それが教育の第一義的な目的だと私は信じています。

 学校教育を破壊したのは、学校と社会を隔離してきたこの『壁』が崩壊したからです。
教師たちも親たちも教育行政もそして子どもたちも、
みんなが『グローバル資本主義』の信奉者になってしまった
(一部の人は進んで、一部の人はいやいやながら)。
そして、学校の内側と外側の間の温度差がほとんどなくなってしまった。
『外部は存在しない。世界はすべてあますところなく〈市場〉に埋め尽くされている』
というのが現在、学校で子どもたちが日々実感させられていることです。
彼らが欲望することを教えられているのは『商品』であり、
もはや『叡智の境位』ではありません。
私はこれまでも大学院のこの演習では、
この事態を『原子化』とか『砂粒化』とか『モジュール化』
という言い方で何度か説明して来ました。」
(引用ここまで)



「オリバー・ツイスト」の時代には
劣悪な工場労働を子ども強いる資本家や
家事を手伝わせようとする親から
子どもたちを守るために
義務教育ができたことは
歴史的事実であり、「義務」は子どもたちの義務ではなく、
親の社会の義務なのだと
内田先生は指摘されています。



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2012年10月19日

村上春樹「走ることについて語るときに僕のかたること(文春文庫) 痛みは避けがたいが苦しみはオプションとは? 文系ジョガー(体育会系や理系と言い切れないジョギング愛好家)のための優れた哲学書!!

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)




痛みは避けがたいが苦しみはオプションとは? 

村上春樹 「走ることについて語るときに僕のかたること」(文春文庫)

文系ジョガー(体育会系や理系と言い切れないジョギング愛好家)のための

優れた哲学書!!

走ること。
一番シンプルで深いスポーツ。

「スポーツとは走ること」そんな言葉もあります。


僕自身は球技が苦手。
鉄棒とか床運動とか長距離だけは好きでした。

ボールの気持ちは分からないけど
自分の体ならコントロールできる
いや、してやる。

そんな気持ちを抱いていました。
ところが、大人になってから、
趣味としてジョギングを続けていると・・・


あら不思議、腰が安定するようになって、
ボーリングで今まで出したことのないようなスコアがでました。

スポーツが得意だった友人たちが
加齢とともに運動能力を劇手に落としていく中で
あれ、なんで、そんなことができないの?
俺ってこんなに球技上手だった?」的な。

スポーツとは走ること

色々な意味があるのでしょうが、
一つには、走ることで、全てのスポーツの基本である
腰が安定して来るという意味もあると実感です。

今までに、ハーフマラソン、フルマラソンにそれぞれ6回くらい参加したことがあります。
幸い全て完走。最高はフルの3時間58分。 

フルマラソンを走っている間に
ランナーの身体や心に何が起るか。

そのことは、自分が嫌というほど痛烈に経験しています。
知っているつもりでした

「村上春樹さんが書くとこうなるんだあ〜」
そんな思いで一杯です。

もともと、英語の翻訳をしていたこと、
マラソンが趣味であること、
神戸で育ったことなどは知っていました。

エッセイもたくさん読んでいます。
でも、この作品程、
村上春樹さんが自分自身の生き方や思いについて語っている作品はありません。

村上春樹さんは様々な事象や現象を言葉に紡ぐ優れた職人だと僕は思います。
その春樹さんが自分自身のこと、自分自身の内面、自分自身の生きる戦いについて
一番多く語っています。


走ること、特に長い距離を走ることは必然的に人間を裸にします。
自分の心の剥き出しの状態を観察することを、限界まで走ることは許してくれます

そんな「走ることについて」語ることは
剥き出しの自分について語ることを人に強いるのだ。

これは、村上春樹のファンにとっては、
本当にうれしい。

本当に、近づけたような気がしてくる。
例えて言うならば、
初めて泥酔しながら、朝まで語り明かしたような。
気恥ずかしさまで感じるような。

「おいおい、
そんなことまで、正直に言っちゃって本当に大丈夫?」
そんな感じです。


物書きとしての、また、ランナーとして、大切にしていること。
村上春樹さん自身の「哲学」に学ぶことが多いです。

Pain is inevitable, Suffering is optional. とは
あるマラソンランナーが走っている間に唱え続けるマントラだそうです。
村上氏によるとこの言葉は
「マラソンという競技の
一番大事な部分を簡潔に要約している」
とのこと。

前書きにこうあります。
「ここには『哲学』とまではいかないにせよ、
ある種の経験則のようなものはいくらか含まれていると思う。
たいしたものではないかもしれないが、
それは少なくとも僕が自分の身体を実際に動かすことによって、
オプショナルとしての苦しみを通して、
きわめて個人的に学んだものである。
汎用性はあまりないかもしれない。
でも何はともあれ、それが僕という人間なのだ

マラソンについて語っていることがびんびんと伝わって来ますよね。

マラソンを走ったことのある人が読めば、
走ることから自分の得た経験が、
村上春樹氏の思考と文章を通じて、
さらに深いものに深化、進化することを感じるはずです。

内容紹介
走ることについて語りつつ、小説家としてのありよう、
創作の秘密、そして「彼自身」を初めて説き明かした画期的なメモワール

もし僕の墓碑銘なんてものがあるとしたら、
“少なくとも最後まで歩かなかった”と刻んでもらいたい―
1982年の秋、専業作家としての生活を開始したとき路上を走り始め、
以来、今にいたるまで世界各地でフル・マラソンや
トライアスロン・レースを走り続けてきた。
村上春樹が「走る小説家」として自分自身について真正面から綴る。

村上/春樹
1949年、京都生まれ、早稲田大学文学部演劇科卒業。
79年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞、
82年『羊をめぐる冒険』で野間文芸新人賞、
85年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で谷崎潤一郎賞、
96年『ねじまき鳥クロニクル』で読売文学賞、
99年『約束された場所で underground2』で桑原武夫学芸賞を受ける。
2006年、フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、
2007年、朝日賞、坪内逍遥大賞、2009年、エルサレム賞、『1Q84』で
毎日出版文化賞を受賞


走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)


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