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2020年09月30日
寺津城 〜大河内松平家の本拠・西尾市〜
◆所在:
西尾市寺津町御屋敷
◆歴史:
永正7年(1510年)に大河内信綱か築いた城。
大河内氏は源頼政の血を引く一族で、以仁王の乱で頼政が討たれると、岡崎市の大河内郷まで落ち延び、大河内城を築いて本拠とした。
承久3年(1221年)に足利義氏が三河守護になると、これに従い、後には吉良氏の家老となって巨海城や長縄城などに一族を配して勢力を固めていった他、遠江にある吉良氏の領地に代官として派遣された血筋も残されている。
その後は、森山崩れで松平清康(徳川家康の祖父)が謀殺された際に、長縄城の大河内小見が遺体を持ち帰り埋葬するなど、松平氏と近い関係にあったが、大河内12代目の大河内秀綱は三河一向一揆では主君の吉良義昭が一揆側に付くと、これに追随して家康と敵対した。
一揆が敗れると家康に請われて出仕。秀剛の次男である正綱が家康の命により長沢松平家へ養子に入り、相模玉縄藩主となった後は大河内松平家として幕府の信頼を得、さらには甥の信綱が養子となって跡を継ぐと、徳川家光の小姓から始まり『知恵伊豆』と呼ばれ、最後には老中まで出世し、その子孫の数家は幕末まで大名として存続している。
◆現在:
瑞松寺一帯が城跡と言われ、寺の北西角にある高い部分はかつての土塁跡。
また、寺の北側の路地は堀跡と伝わる。
また、城跡から200m程北側に建つ寺津八幡社は大河内顕綱の創建である。
2020年09月29日
絵下城 〜赤穂四十七士のご先祖様の城・刈谷市〜
◆所在:
刈谷市泉田町惣助改田
◆歴史:
『えげ』とは僧侶が辻説法をする場所を指しており『会下』『絵下』などの字が使われて、地名として各地に存在している。
刈谷市の絵下城は矢田作十郎が矢作川沿いの高台に築いたと伝わるが、それ以前より、ある程度は人の集まりがあった土地で、矢田氏が支配していたと思われる。
矢田作十郎は父祖の代から松平氏に仕え、金鯉の兜で有名な武将だが、一向宗を信仰していたため、三河一向一揆では一揆方に属して大将の一人として松平元康に敵対。松平忠倫らと共に上宮司城に籠城したが、鉄砲に中り討ち死にを遂げた。
※小豆坂で討ち死にしたとも言われている。
その子孫には、赤穂四十七士の1人である矢田五郎衛門助武がいる。
◆現在:
絵下城児童遊園となっているが遺構などは存在しない
2020年09月28日
沓掛城 〜桶狭間の戦いで有名に・豊明市〜
◆所在:
豊明市沓掛町東本郷
◆歴史:
日進・長久手から豊明・大府を抜けて衣浦湾に流れる境川と並行して通る街道と、鎌倉街道が交差する交通の要地に築かれた城。
南北朝時代に沓掛の住人である近藤宗光が後醍醐天皇に召し出されたと言う記述がある。
沓掛の地は近藤氏が支配しており、子孫の近藤景春は当初松平広忠の傘下に入っていたが、広忠が死去し、松平氏の勢力が衰えると織田氏に従うようになった。
1559年に松平氏を傘下に収めた今川義元が尾張への侵攻を決意。鳴海城主の山口教継が今川方に寝返り、さらに山口教継の調略を受けた沓掛城は大高城と共に今川方へと寝返った。
1560年、本格的に尾張への侵攻を開始した今川義元は知立城を出て、沓掛城へと入城し軍議を開き、翌日には沓掛城を出て桶狭間へと移動するが、信長に討たれる事になる。
近藤景春は織田勢に備えるため沓掛城を家臣に預け、薬師ヶ根城に移ったが、義元が討たれて今川勢が撤退すると沓掛城に戻り、織田勢と戦って討ち死にした。
その後、沓掛城は桶狭間の合戦で戦功を立てた簗田政綱に与えれれ、その後は織田信照(信長の弟)、川口宗勝が城主となった。
川口宗勝は関ヶ原の合戦で西軍に付き、伊達政宗にお預けとなったため、沓掛城は廃城となった。
◆現在:
近代の城とは異なり、小さい縄張りながらも、本丸や二の丸、堀、出丸など様々な遺構が整備保存された沓掛城址公園となっている。
2020年09月27日
梟ヶ城 〜フクロウが鳴いて敵を知らせた・豊田市〜
2020年09月26日
牟呂城 〜東三河十七騎の城・豊橋市〜
◆別名:
室城
◆所在:
豊橋市牟呂公文町12
◆歴史:
築城は文亀〜永正年間(1501年〜)、北条早雲が今川氏の武将として三河に侵攻し、岡崎の岩津城近辺で松平長親と戦った時代で、今橋城(吉田城の前身)や野田城、長篠城などが築かれ、地域の豪族達が力を持ち始めた時代。
室城は、牛久保城主の牧野氏を始めとした牛久保六騎と共に、今川氏に従属した十七地侍衆(東三河十七騎とも)の一人、室金平が築いた城館で、その後、兵庫政茂が跡を継いだと伝わっている。
兵庫政茂は蒲郡市の不相城を拠点とする鵜殿氏と関係があり、鵜殿姓を名乗ったとも言われているが、同名の人物と混乱した部分もあるようで、詳細は不明。
享禄2年(1529年)松平清康(徳川家康の祖父)が勢力を伸ばし東三河に侵攻すると、豪族達の一部は松平氏に付き、今橋城の牧野氏と宇利城の熊谷氏を中心とした反松平軍と激戦を繰り広げ、兵庫政茂は松平軍の猛攻にさらされ、討死を遂げたと伝わる。
ただし、永禄5年(1562年)まで生き延びて、徳川家康の三河統一戦の際、不相城で討死したとの説も存在している。
◆現在:
JA豊橋西すぐ脇に土塁の一部が残されており、神社の鳥居の脇には鵜殿兵庫之城と書かれた、小さな碑が立てられている。
2020年09月25日
下津城 〜清須城以前に守護代が住んだ城・稲沢市〜
◆所在
稲沢市下津高戸町
◆歴史
応永年間(1394年〜1427年)初期に尾張守護に任ぜられた斯波義重が尾張国守護所を置いた事が始まりとされる。
応仁の乱が起こると、守護の斯波氏にも家督争いが勃発。
さらには尾張守護代の織田氏も伊勢守家と大和守家に分裂して抗争を始める事となった。
織田氏の嫡流であり、代々守護代を世襲してきた伊勢守家当主の織田敏広は下津城を居城としていたが、織田大和守家の当主であった敏定との戦いに敗れ、下津城は焼失したと伝わっている。
その後、敏広は岩倉城を築いて尾張北方四郡を支配するが、守護所は清州城へと移り大和守家が守護代の地位を獲得し、尾張南方を支配する事になった。
なお、戦国武将の中でも有名な武将の一人である織田信長は、大和守家の配下で清州三奉行の内の一家である織田弾正忠家の出自である。
◆現在
県道155号線の西側に城址碑が建てられているのみである。
2020年09月24日
小田井城 〜清須城の支城・清須市〜
◆所在
清須市西枇杷島町小田井
◆歴史
応永年間(1394年〜1428年)に尾張守護代当主である織田敏定が清州城の支城として築いた事が始まりと言われている。
立地を見ると、清州城と那古野城を結ぶ美濃街道の脇街道として使用された、庄内川の渡しを支配する事が目的だったと思われる。
清州城に守護代が置かれると、織田籐左衛門家当主の織田常寛が城主となり、八代目城主織田(津田)忠辰は織田信忠、信雄に仕えたが、小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉の軍勢に小田井城は攻め落とされ、廃城となっている。
◆現在
字古城の近辺が城跡と言われているが、高速道路建設の際に区画整理が行われ、大正4年に立てられた城址碑は、近隣の城址公園の中に移設されている。
2020年09月23日
龍泉寺城 〜織田信勝(信行)が築いた城・名古屋市守山区〜
◆所在:
名古屋市守山区龍泉寺
◆歴史:
龍泉寺は延暦年間(782年〜806年)に最澄が建立したとあるが、延暦2年(783年)から同21年(802年)までは比叡山などで修業を行い、延暦23年(804年)から1年間は空海と共に中国へと渡海しているため、弘仁6年(815年)から行った東国行脚の途中での開基ではないかと考えられる。
龍泉寺は庄内川沿いの断崖の上に建ち、濃尾平野を一望できるため、有事の際には軍事拠点として利用される事がたびたびあった。
弘治2年(1556年)織田信行が、柴田勝家らを味方に付けて兄の信長との家督争いを行った際に、龍泉寺を城塞化し、ここを拠点として、城から北へ3km程にある信長の倉入地である篠木郷を略奪しており、永禄3年(1560年)の桶狭間合戦の際は、織田信長が清州城の防衛線として、龍泉寺城をはじめとした庄内川沿いの各城へ部隊を派遣している。
天正12年(1584年)に起こった小牧長久手の戦いの際は、小幡城へ入った徳川家康を討つべく、豊臣秀吉は龍泉寺に入り、一夜にして空堀を築いたと言われている。
現在残されている空堀跡は、この際に掘られた物と考えられているが、秀吉の兵が撤収する際に、本堂などに放火して立ち去ったため、本堂などの建物は後世に再建されたものである。
◆現在:
龍泉寺の東側の竹藪内に空堀や土塁の跡などが残されている。