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2020年10月21日

木戸城 〜成瀬氏の居城・安城市〜

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◆所在:
安城市木戸町東屋敷


◆歴史:
はじめ石川式部、石川太郎五郎の居城であったが、やがて足助重範の子孫である成瀬氏が、足助の地からこの地へ移住し、松平氏に従って一帯の支配を固めていった。













七代目の成瀬正頼は、森山崩れで松平清康が謀殺され松平家中に家督争いが起こると、広忠を支持し、一旦は岡崎城に入って家督を襲う姿勢を見せた松平信定(桜井城主)を退去させ、広忠の家督相続に尽力したが、その後の安翔城合戦で討死を遂げたため、嫡子の正義が家督を相続する事となった。

成瀬正義は、後に矢作川対岸の六名城へと移るものの、永禄5年(1562年)に同僚を切り捨て徳川家を出奔。正義は一旦は三河の地を離れて駿河高天神城の近辺へと身を隠すが、三河一向一揆が起きると徳川家康の下に帰参して一揆鎮圧に力を注ぎ、家康の三河平定後は織田信長への援軍として、六角氏攻め、姉川の合戦などにも参戦している。
三方ヶ原の戦いでは旗奉行として奮戦するも、馬場信房の突撃から家康を守るため、後事を弟の正一に託し、家康の身代わりとなって討ち死にを遂げた。











木戸城は家督を受け継いだ成瀬正一が引き続き本拠としていたが、徳川家康の関東移封に伴って正一も関東へ移ったため、木戸城は廃城となった。

なお、正一は兄より先に徳川家を出奔しており、武田家に仕えていた時期があった。
永禄3年(1560年)に起きた第四次川中島の戦いでは、上杉方に討ち取られた室住(諸角)虎光の首を奪い返す功績を上げている。

武田氏滅亡後は織田信長による武田旧臣への粛清の嵐が吹き荒れる中、武川衆を始めとした多くの武田旧臣を匿い、武川衆の子孫は徳川綱吉の側用人となった柳沢吉保など数多くの旗本を輩出している。

◆現在:
城の跡地には春日神社が建立されている。
神社の東側には窪地があり、当時の堀跡と言われているが、この窪地の形状をたどると、神社本殿の真下に堀が続いているように見えるので、違和感を感じるが、おそらくは現在の神社が建立されている場所には土橋があり、矢作川を背にして、北側に城館の入り口があったと想像すれば、形状には納得がいくが、絵図面などが残っている訳ではないので確証はなく、あくまで想像である。











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