アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年09月28日

沓掛城 〜桶狭間の戦いで有名に・豊明市〜

20150202_092228_547 (1024x768).jpg

◆所在:
豊明市沓掛町東本郷

◆歴史:
日進・長久手から豊明・大府を抜けて衣浦湾に流れる境川と並行して通る街道と、鎌倉街道が交差する交通の要地に築かれた城。
南北朝時代に沓掛の住人である近藤宗光が後醍醐天皇に召し出されたと言う記述がある。













沓掛の地は近藤氏が支配しており、子孫の近藤景春は当初松平広忠の傘下に入っていたが、広忠が死去し、松平氏の勢力が衰えると織田氏に従うようになった。

1559年に松平氏を傘下に収めた今川義元が尾張への侵攻を決意。鳴海城主の山口教継が今川方に寝返り、さらに山口教継の調略を受けた沓掛城は大高城と共に今川方へと寝返った。

1560年、本格的に尾張への侵攻を開始した今川義元は知立城を出て、沓掛城へと入城し軍議を開き、翌日には沓掛城を出て桶狭間へと移動するが、信長に討たれる事になる。











近藤景春は織田勢に備えるため沓掛城を家臣に預け、薬師ヶ根城に移ったが、義元が討たれて今川勢が撤退すると沓掛城に戻り、織田勢と戦って討ち死にした。
その後、沓掛城は桶狭間の合戦で戦功を立てた簗田政綱に与えれれ、その後は織田信照(信長の弟)、川口宗勝が城主となった。
川口宗勝は関ヶ原の合戦で西軍に付き、伊達政宗にお預けとなったため、沓掛城は廃城となった。

◆現在:
近代の城とは異なり、小さい縄張りながらも、本丸や二の丸、堀、出丸など様々な遺構が整備保存された沓掛城址公園となっている。











2020年09月27日

梟ヶ城 〜フクロウが鳴いて敵を知らせた・豊田市〜

20160411_111729_558 (1024x768).jpg

◆所在:
豊田市豊松町西ヶ入

◆歴史:
築城年など詳細は不明。
夜中に梟が鳴き、敵襲を知った城側が守りを固めて、敵を撃退したと言われている。













立地から見て大田城、もしくは大給城の出城であり、北側を流れる巴川と、それに沿って作られた足助街道を見張る砦だったと思われる。

◆現在:
北側にある大滝渓谷と併せたハイキングコースの中に入っている他、大岩が多い土地のため、フリークライミングの練習地にもなっているようである。









2020年09月26日

牟呂城 〜東三河十七騎の城・豊橋市〜

20190622_083245 (1024x768).jpg

◆別名:
室城

◆所在:
豊橋市牟呂公文町12

◆歴史:
築城は文亀〜永正年間(1501年〜)、北条早雲が今川氏の武将として三河に侵攻し、岡崎の岩津城近辺で松平長親と戦った時代で、今橋城(吉田城の前身)や野田城、長篠城などが築かれ、地域の豪族達が力を持ち始めた時代。













室城は、牛久保城主の牧野氏を始めとした牛久保六騎と共に、今川氏に従属した十七地侍衆(東三河十七騎とも)の一人、室金平が築いた城館で、その後、兵庫政茂が跡を継いだと伝わっている。
兵庫政茂は蒲郡市の不相城を拠点とする鵜殿氏と関係があり、鵜殿姓を名乗ったとも言われているが、同名の人物と混乱した部分もあるようで、詳細は不明。












享禄2年(1529年)松平清康(徳川家康の祖父)が勢力を伸ばし東三河に侵攻すると、豪族達の一部は松平氏に付き、今橋城の牧野氏と宇利城の熊谷氏を中心とした反松平軍と激戦を繰り広げ、兵庫政茂は松平軍の猛攻にさらされ、討死を遂げたと伝わる。
ただし、永禄5年(1562年)まで生き延びて、徳川家康の三河統一戦の際、不相城で討死したとの説も存在している。

◆現在:
JA豊橋西すぐ脇に土塁の一部が残されており、神社の鳥居の脇には鵜殿兵庫之城と書かれた、小さな碑が立てられている。











2020年09月25日

下津城 〜清須城以前に守護代が住んだ城・稲沢市〜

20191017_145537 (1024x768).jpg

◆所在
稲沢市下津高戸町

◆歴史
応永年間(1394年〜1427年)初期に尾張守護に任ぜられた斯波義重が尾張国守護所を置いた事が始まりとされる。













応仁の乱が起こると、守護の斯波氏にも家督争いが勃発。
さらには尾張守護代の織田氏も伊勢守家と大和守家に分裂して抗争を始める事となった。

織田氏の嫡流であり、代々守護代を世襲してきた伊勢守家当主の織田敏広は下津城を居城としていたが、織田大和守家の当主であった敏定との戦いに敗れ、下津城は焼失したと伝わっている。
その後、敏広は岩倉城を築いて尾張北方四郡を支配するが、守護所は清州城へと移り大和守家が守護代の地位を獲得し、尾張南方を支配する事になった。











なお、戦国武将の中でも有名な武将の一人である織田信長は、大和守家の配下で清州三奉行の内の一家である織田弾正忠家の出自である。

◆現在
県道155号線の西側に城址碑が建てられているのみである。











2020年09月24日

小田井城 〜清須城の支城・清須市〜

IMG_9302 (1024x768).jpg

◆所在
清須市西枇杷島町小田井


◆歴史
応永年間(1394年〜1428年)に尾張守護代当主である織田敏定が清州城の支城として築いた事が始まりと言われている。













立地を見ると、清州城と那古野城を結ぶ美濃街道の脇街道として使用された、庄内川の渡しを支配する事が目的だったと思われる。

清州城に守護代が置かれると、織田籐左衛門家当主の織田常寛が城主となり、八代目城主織田(津田)忠辰は織田信忠、信雄に仕えたが、小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉の軍勢に小田井城は攻め落とされ、廃城となっている。

◆現在
字古城の近辺が城跡と言われているが、高速道路建設の際に区画整理が行われ、大正4年に立てられた城址碑は、近隣の城址公園の中に移設されている。





















2020年09月23日

龍泉寺城 〜織田信勝(信行)が築いた城・名古屋市守山区〜

IMG_8273 (1024x768).jpg

◆所在:
名古屋市守山区龍泉寺

◆歴史:
龍泉寺は延暦年間(782年〜806年)に最澄が建立したとあるが、延暦2年(783年)から同21年(802年)までは比叡山などで修業を行い、延暦23年(804年)から1年間は空海と共に中国へと渡海しているため、弘仁6年(815年)から行った東国行脚の途中での開基ではないかと考えられる。













龍泉寺は庄内川沿いの断崖の上に建ち、濃尾平野を一望できるため、有事の際には軍事拠点として利用される事がたびたびあった。

弘治2年(1556年)織田信行が、柴田勝家らを味方に付けて兄の信長との家督争いを行った際に、龍泉寺を城塞化し、ここを拠点として、城から北へ3km程にある信長の倉入地である篠木郷を略奪しており、永禄3年(1560年)の桶狭間合戦の際は、織田信長が清州城の防衛線として、龍泉寺城をはじめとした庄内川沿いの各城へ部隊を派遣している。















天正12年(1584年)に起こった小牧長久手の戦いの際は、小幡城へ入った徳川家康を討つべく、豊臣秀吉は龍泉寺に入り、一夜にして空堀を築いたと言われている。
現在残されている空堀跡は、この際に掘られた物と考えられているが、秀吉の兵が撤収する際に、本堂などに放火して立ち去ったため、本堂などの建物は後世に再建されたものである。

◆現在:
龍泉寺の東側の竹藪内に空堀や土塁の跡などが残されている。







2020年09月22日

川尻城 〜奥平五家老の城・新城市〜

IMG_6019 (1024x768).jpg

◆所在:
新城市作手高里松風呂

◆歴史:
天授年間(1375年〜1380年)に上州に住む奥平貞俊は、外戚の山崎左衛門高元を頼って移住してきた後、応永年間(1394年〜1428年)初期に川尻城を築いて本拠とした。













川尻城を本拠として勢力を伸ばした奥平氏だが、次第に手狭となり、応永31年(1434年)には清岳を切り開いて亀山城を築城し本拠を移したと言われている。

なお、山崎高元も上州奥平郷に隣接する坂口郷の出身で、奥平氏とは縁戚関係であった。
高元は奥平氏に先駆けて作手の地へと移り住んでおり、奥平家五家老家の一つとして名を残している。

◆現在:
創造の森城山公園の一部として整備保存されている。













2020年09月21日

古瀬間城 〜松平郷西方を守る城・豊田市〜

20151214_115006_034 (1024x768).jpg

◆別名:
巴城

◆所在:
豊田市志賀町城山

◆歴史:
永生3年(1506年)松平宗忠によって築かれた城である。
宗忠は松平宗家の三代目信光より分かれた長沢松平勝宗の息子で、当初は松平家が寺部城の鈴木氏を攻略する拠点として築城した。宗忠は岩津城へと移ったが、古瀬間城は宗忠の息子である親常が城主を継いでいる。














後に尾張の織田氏、駿河の今川氏との戦の中では丸根城と共に西方を守る重要拠点となるが、徳川家康の関東移封に伴い、廃城になったと伝わる。

◆現在:
浄願寺境内から城址公園に続く遊歩道が整備され、公園内には見張り櫓が復元されている。













2020年09月20日

常滑城 〜水野氏の一族・常滑市〜

IMG_3153 (1024x768).jpg

◆所在:
常滑市市場町5丁目

◆歴史:
緒川城主水野忠政の曾祖父である水野貞守の次男である政祖(まさとも)が分家をして常滑の地へ移り、常滑城を築いたのが始まりとされる。













本家の緒川水野氏を水野信元が継ぐと、信元は織田信長と結び、知多制圧に乗り出した。
常滑水野氏は常滑北部にある大野城の佐治氏と争いながらも、常滑南部だけではなく半田市板山あたりまで勢力を拡大していたが、常滑三代目城主の水野守隆は知多半島中南部まで勢力を伸ばしてきた信元の娘を娶り、一族として本家の知多制圧に力を貸す事になる。

◆現在:
正法寺に隣接する公園に看板と常滑城址の碑が立ち、そこから約150m程南東の道路脇にも同様に城址の碑が立っている。
碑からさらに300m南東にある天澤院は水野氏の菩提寺で、一族の墓が残されている。













2020年09月19日

長坂屋敷 〜塩の生産地・東浦町〜

20160418_092424_008 (1024x768).jpg

◆所在:
東浦町生路坂下

◆歴史:
生道郷は平安時代以前から塩の生産地として有名で、延喜式には『生道塩一斛六斗与調塩共進自余輸絹絲塩』と記されている。













長坂氏は生道郷を支配する武士であるが、塩の生産と販売の権利を有しており、室町末期には長坂弥右衛門守勝が、連歌士の里村紹巴(※1)を招いて連歌会を主催するほどの力を有し、緒川水野氏の菩提寺である乾坤院にも寄進を行っている。

また、対岸の地内城の城主には長坂伝十郎の名前を見る事ができる他、岡崎市にある桑子妙源寺の文書には天文元年(1532年)に小柿江(小垣江)郷の長坂与次守親が小垣江の山林を寄進したとの記録があり、妙源寺には平岩親吉や本多忠豊(本多忠勝の祖父)本多忠高(同父)などの墓と共に、長坂血槍九朗の墓も残されている。

長坂屋敷の長坂守勝と、小垣江の長坂守親、地内城主の長坂伝十郎、徳川家臣の長坂血槍九朗の血縁関係は定かでは無いが、長坂屋敷の長坂守勝と、小垣江の長坂守親に関しては、同時期に衣浦湾を挟んだ対岸に領地を持った上、同じ『守』の通字を持つことから、お互いが全く関係の無い人物とは思えず、長坂氏として衣浦の東西である程度の勢力を誇っていたと想像できる。

◆現在:
館があったとされる地は定かではなく、現在は宅地化されて遺構は残されていない。
神社から西に200m程に位置する生路小学校の字名が傍示松(※2)となっており、かつては緒川城の水野氏と宮津城の新海氏、成岩城の榎本氏などが支配する土地の境だったと思われる。
伊久智神社の北側には神後院が建てられており、日本で初めて白糖を製造した原田氏の菩提寺となっている。



(※1)里村紹巴
戦国末期の連歌士で公家や織田信長、明智光秀、島津義久、最上義光など数多くの戦国武将と交流を持った人物

(※2)傍示:
街道に立てられた国境を示す立札











ファン
検索
<< 2020年10月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
だいさんの画像
だい
愛知県のお城は1,000以上。 全部回る事が目標です!
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。