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2020年10月18日

小林城 〜織田一族の城・名古屋市中区〜

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◆所在:
名古屋市中区大須4

◆歴史:
天文17年(1548年)織田信秀が末森城を築いて本拠地を移すと、鎌倉街道の抑えとして、川村北城にいた娘婿の牧長清に命じて、小林城を築かせた。













その後、支城として島田城を築くなど、信長の勢力拡大と共に支配地域を広げていったが、元亀元年(1570年)に長清が死去すると、小林城も廃城となった。

◆現在:
長清の死後に城跡は廃れたが、柳生兵庫の屋敷となる。
元禄年間(1688年〜1704年)に清浄寺が建立され、尾張徳川家累代の祈祷所となり、境内には牧父子の墓所が存在する。











また、長清は、生涯において富士登山を数度行うものの、老境にさしかかり富士登山ができなくなると、富士塚を作り浅間神社を勧進しており、現在も浅間神社として大須観音東に残されている。











posted by だい at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 中区の城

2020年10月17日

野田城 〜武田信玄が狙撃された地・新城市〜

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◆別名:
根古屋城・三河野田城

◆所在:
新城市豊島本城













◆歴史:
足利尊氏によって設楽・宝飯郡一帯の支配を命ぜられた富永氏であったが、戦国時代に入ると、田峯城の菅沼氏、亀山城の奥田氏などの勢力に押され、本拠地の富永館周囲4ヶ村を支配するのみに衰退する。8代当主の富永千若丸が乱心自害すると富永氏の血が絶えたため、永正2年(1505年)今泉四郎兵衛は他家から嗣子を迎える事を画策し、田峯城の菅沼定忠の三男竹千代(後の菅沼定則)を養子に迎える事になる。翌永正3年(1506年)富永勝永など反対勢力の離反を経て、富永館へ入場した竹千代は拠点を野田館と改め、支配を固めて行った。

三河松平氏と駿河今川氏の間での戦乱が激しくなってきた永正5年(1508年)に元服を果たした菅沼定則は、防御と豊川の水害対策として野田城の築城に着手し、8年の歳月を経て完成した野田城に本拠地を移した。今川氏に従属していた野田菅沼氏であったが、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反。永禄4年(1561年)今川軍に攻囲され一旦は開城したものの、翌永禄5年(1562年)に菅沼定盈が夜襲によって奪回する。











野田城は2年に渡る戦で損壊が激しかったため大野田城に拠点を移し、野田城の修復を図った定盈であったが、元亀2年(1571年)甲州武田軍の遠江・三河侵攻が本格化すると、大野田城は山県昌景らの攻撃により大野田城は破壊されたため、修復中の野田城へと籠城。元亀4年(1573年)に入ると武田軍の攻撃を支えきれずに開城降伏し、定盈は武田軍の捕虜となったものの、武田信玄の病状が悪化し武田軍は撤兵。捕虜交換で徳川方に戻った定盈は天正2年(1574年)に野田城を奪還し、城主として再入場している。

天正18年(1590年)徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随して上野阿保1万石を得る事となり、野田の地は吉田城へ入った池田輝政の支配下となり、片桐半右衛門が石田城を築いて本拠とし、一帯を支配したため野田城は廃城となったとされる。

◆現在:
各曲輪及び空堀や土塁が残されているが、北側の谷などは埋め立てが進められており少しずつではあるが、遺構が縮小されている。
また、城門は西隣の法性寺へ移築されている。











2020年10月16日

福谷城 〜酒井忠次vs柴田勝家・みよし市〜

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◆所在:
みよし市福谷町杁の奥

◆歴史:
室町時代に糟谷宗則と言う人物が築いた城と言われているが、詳細は不明。













その後、豪族の原田氏重が城を支配していたが、天文24年(1555年)には徳川四天王の一人である酒井忠次が城主となった。
この時期は、織田信秀が死去した後、跡目争いを行う織田家の隙を伺うため、今川から派遣されてきたと考えられる。

翌年の弘治2年(1556年)1月、上社城の柴田勝家が攻め寄せてくるが、酒井忠次と原田氏重らは協力してよく守り、大久保忠勝(大久保忠世の叔父にあたる蟹江七本槍の一人)らの援軍もあり、勝家軍を撃退した。
同年5月、織田信長の義父である美濃の斉藤道三が討ち死にを遂げ、これを機に、信長と弟の織田信勝(信行)の家督争いが勃発。6月には稲生の戦いが起こり、福谷城は一時的な平和が訪れたようである。











桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げた後、三河一向一揆や小牧長久手の戦いなどでも福谷城は出てこないため、織田と松平の間で清洲同盟が結ばれた頃に廃城になったと思われる。

◆現在:
城址公園となっており、主郭には土塁が残されている。
二郭などは宅地化され、土塁の上に民家が立っている。











2020年10月15日

成岩城 〜僧侶から城主、そして滅亡へ・半田市〜

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◆所在:
半田市有楽町6丁目

◆交通:
知多半島道路半田ICを下車し、県道34号線を東に進み、名鉄河和線の高架下を抜けた先に成岩橋と言う信号交差点があるので、南に向かう。3つ目の有楽町6丁目交差点にある南西方向へ向かう狭い路地に入り、最初の路地を名鉄の線路側へと曲がった先に集合住宅が見えてくるが、その脇に碑が立っている。













◆歴史:
成岩の豪族である榎本了圓が築いたとされる城。
榎本了圓は元々常滑市の金蓮寺の僧侶だったが、成岩の地に来て城主になったと伝わる。

緒川城主の水野氏が知多制圧のため南下し、成岩城攻略のために神戸川の北側に成岩砦を築いた後、砦を拠点として成岩城を攻略。攻略後は横根城にいた梶川五左衛門をこの地に移し守らせた。

その後、慶長16年(1611年)に犬山城主である成瀬氏の領地となり幕末まで続いた。











◆現在:
名鉄河和線の東側の小高い個所に集合住宅があり、その脇に碑が立っている。
碑は成瀬氏の子孫が昭和12年に建立し、裏には成岩城の歴史が刻まれている。











2020年10月14日

九之坪城 〜桶狭間戦功第一簗田政綱の居城・北名古屋市〜

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◆別名:
此壷城

◆所在:
北名古屋市九之坪西城屋敷

◆歴史:
説明版によると簗田正綱が永禄3年(1560年)の桶狭間合戦の戦功によって、この地を得たとなっているが、城より300m程北西にある十所神社は永禄2年(1559年)に簗田正綱が建立したと言う記録があるため、実際に簗田氏は桶狭間合戦以前よりこの地を支配していたと思われる。

簗田氏が来るまでの久之坪城近辺の支配者は不明だが、十所神社の南側には織田信長の兵法の師で平田城主でもある平田三位が永禄7年(1564年)に建立した平田寺があり、その脇を岩倉街道が通っている。













平田寺の近辺は市場という字名が今でも残っており、平田寺の山門前には『売買●術制境内(●はのぎへんに丸の字)』と言う碑が立てられており、一帯がかなり繁栄していた事を伺わせる。

桶狭間の合戦で簗田正綱が今川義元の本陣の位置を知りえたのも、支配地の市場へ出入りする行商人や芸人などを代々保護しており、それらの人々から情報を得たと考えると納得は行くが、これに関しては様々な説が専門家から出されているため、この場での力説は避けたい。

いずれにせよ、簗田正綱の得た情報によって、桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った織田信長により、九之坪城とは別に沓掛城(豊明市)と米田城(名古屋市守山区)を与えられ、嫡子の広正は天正4年(1576年)加賀大聖寺城の城主にもなっている。











九之坪城の廃城時期も不明だが、斯波氏の家臣だった簗田弥次右衛門が天正10年(1582年)に、正綱が建立した十所神社を修築したと信長公記にあるものの、同姓である事以外に正綱と弥次右衛門の関係は不明だが、最低限この頃までは簗田氏が支配していたと思われる。

◆現在:
健康ドームの西隣に、城址碑と看板が残るのみとなっている。











2020年10月13日

水野代官所 〜江戸幕府初期から100年余り機能した代官所・瀬戸市〜

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◆別名
水野陣屋

◆所在
瀬戸市小田妻町













◆歴史
水野代官所は、初代尾張藩主である徳川義直が、後に尾張藩菩提寺となる定光寺近くの山野での狩猟を好み、定光寺の南3km程の地に宿泊所(水野屋敷)を築いた事が始まりである。

二代目藩主の徳川光友は宿泊施設を役所と官舎がある陣屋に改装し、山林を管理する奉行所とし、水野村に住む水野正勝を奉行に任命したと伝わっている。

水野正勝は入尾城主であった滝口氏の末裔で、代々この地を支配していた豪族と言える。
天明元年(1781年)尾張藩は陣屋の南にあるこの地へ代官所を移設し、春日井郡行政の中心地として機能を開始。林方奉行の水野正恭が代官職を兼任する事となるが、その支配地域は広大で111ヶ村に及ぶ物であったと言われている。











時代は下り、江戸末期の慶応元年(1865年)新選組参謀の伊藤甲子太郎と佐野七五三之助、安藤勇次郎の三名は尾張方面に逃走した脱走隊士の捜索で、水野代官所に捜索に対する上申書を提出し、調査を依頼している事が瀬戸市史に記載されているため、江戸時代終焉を迎えるまでの100年余り機能していた代官所であった。

◆現在
跡地は水野小学校となっており、正門前に代官所の碑が立てられている。











2020年10月12日

青野城 〜松平一族の城・岡崎市〜

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◆所在:
岡崎市上青野町稲荷西

◆歴史:
室町時代中期に松平義春が築いたとされる城。
義春は松平家5代目にあたる長親の六男(※注1)で青野松平家を興した人物であり、青野城から中島城を通り東条城までの南北に抜ける街道沿いを支配していたとされる。













義春の孫にあたる家忠の代になると東条吉良氏の勢力は衰退し徳川家康に屈する事となり、家忠が東条城へ入り東条松平家が成立する。
しかし、家忠に跡継ぎがなく没したため徳川家康の四男である松平忠吉が東条松平家に入り跡を継いだが、関ケ原合戦で受けた傷の影響で28歳の若さで没した。
忠吉にも跡継ぎがなかったため東条松平家は4代で消滅する事となった。











◆現在:
青野城の遺構は存在しないが、来迎寺の境内には松平義春の墓(※注2)が残されている。

※注1:
義春は長親の四男と一般的に言われているが墓碑には六男と記載されているため、これに準じて、ここでは六男と表記している。

※注2:
義春の息子である忠重の墓と言う説もあるが、ここでは墓碑に記されている通り義春の墓とする。











2020年10月11日

細川城 〜細川氏発祥の地・岡崎市〜

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◆所在:
岡崎市細川町上平













◆歴史:
足利義兼の三男である義氏は、母が北条家の出自であったため、承久の乱(1221年)が終わると、足利家の名跡を継いで東海道の要所である三河守護となり、東条城を本拠として三河の地を治め、吉良・今川家の祖となった。

義氏は足利一門の足利実国、義季の兄弟をこの地に移し、兄は近隣の仁木城を拠点とし、仁木実国を名乗り、弟の義季は細川の地を拠点として細川義季と名乗った。











この義季の子孫は後に管領細川家をなどを輩出し、その末裔である79代内閣総理大臣の細川護熙もこの地を訪れている。

◆現在:
細川家発祥の地だが、住宅地の中に土塁のような高まりがあり、その上に城址碑が立てられているのみである。











2020年10月10日

今川城 〜今川家発祥地・西尾市〜

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◆所在:
西尾市今川町土井堀

◆歴史:
今川氏発祥の地とされる。
源義康は父の源義国から下野国足利を相続して足利を名字とした。
義康の兄である源義重は得川氏(徳川氏)や里見氏、山名氏などの先祖である。













源義康の孫である3代目の足利義氏は三河守護に任ぜられ、その嫡子である長氏は、母が側室だったため、西町に丸山御所を築いて西条吉良家を起こした。

長氏の隠居地がこの今川荘であり、次男の国氏がこの地を譲られて今川氏が起こったとされる。












なお、国氏の十代後に今川義元がおり、傍流には徳川家康の正妻である築山殿の実家である関口氏の名前を見る事ができる。

◆現在:
西尾中学の南側の道路沿いに看板と碑が立っている。◆所在:
西尾市今川町土井堀











2020年10月09日

荷之上城 〜城跡は重要文化財・弥富市〜

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◆別名
服部家屋敷

◆所在
弥富市荷之上町

◆歴史
荷之上は元は二之江と言う地名で、平治の乱で平家に敗れた源義朝(頼朝、義経の父)が東国へと落ち延びる際に『ここまでくれば安心』と言って船にあった荷物を港(江)に上げて休息を取った事が由来と言われている。













永享7年(1435年)室町幕府6代将軍足利義教の時代、後醍醐天皇のひ孫にあたる良王君は、父である尹良親王と共に世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎を率いて、隠遁の地である諏訪から三河足助に向けて軍を発するが、阿智郡浪合(現在の長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討ち死にを遂げるものの、良王君は津島四家七名字に付き添われて、その長である大橋定省の居城である奴野城に入城した。
荷之上城の築城年は不明だが、津島四家七名字の中に服部家の名前が有る事から、上記の永享7年より前には城館があったと推測できる。

時代は下り、戦国時代になると津島を本拠としていた織田氏が次第に勢力を伸ばし、信長が尾張統一を目指す中で服部党は臣下となる事を拒み、長島一向一揆と結んで敵対する事になる。

元亀元年(1570年)に信長の弟で古木江城主として一向宗に対峙していた信興が服部党に討ち取られた事を機に、織田信長は服部党を含めた長島一向一揆殲滅を決意し、三度に渡って大軍を送り込んで一向一揆を殲滅した。











天正4年(1576年)服部正友が離散した一族を代表して服部家の復興を信長に願い出て許可を受けると、荷之上城跡に城館を構え拠点とし、荒廃した市江島(現在の弥富)を開拓してこの地を復興させる。

後の江戸時代には苗字帯刀を許された上、代々庄屋を務める事になっていく。
江戸末期には漢詩・書家として名を馳せた服部擔風を輩出しており、弥富市平島町には服部擔風書斎(藍亭)が残されている。

◆現在
天正4年に建てられた服部家住宅は現存しており、国の重要文化財に指定されている。
建物には現在も服部氏の子孫の方がお住まいになっており、内部は非公開である。











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