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2010年09月25日

明智光秀公〜首塚〜

京都は亀岡。谷性寺は通称光秀寺と呼ばれている。天正年間明智光秀公は本尊不動明王をあつく尊信し将兵はその加護をう。光秀公が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらしその功徳を得て本懐を遂げた。又真言宗の祖山高野山は「信長の高野攻め」の危難をまぬがる。天正10年(1582年)光秀公、秀吉の軍と天王山で戦って敗れ、坂本上に向かう途中山科小栗栖で落命、随従していた四天王の一人溝尾庄兵衛が介錯なし、近臣に托し生前光秀公の尊信あつかった当寺不動明王のもとに手厚く葬るよう命じて坂本に去った。

 光秀公の善政は挙げて限りなく当亀岡ではその遺徳を偲ぶ声が巷に溢れ、光秀公顕彰会の発表をみ、光秀祭りの多彩な行事となっていった。その後亀岡春まつりと名称は変わったが光秀主従の武者行列を中心とする春まつりは先づ谷性寺の光秀公首塚墓前での追善供養の後、繰り広げられ毎年五月三日の亀岡を飾る。公の家紋の桔梗は七月初日から九月に至るまで次々と咲きみだれ境内が桔梗一色に塗りひろげられるところから人呼んで「桔梗寺」という。周囲の山を借景にした眺めはまた絶佳というべく戦国武将光秀公の心につながる。谷性寺HP引用







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