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第10回/浮世なんか子供だましさ。ほら、吹く風が気持ちいいじゃないか。 2012/03/13.17:16 .STORY

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人はものごとそれ自体によってではなく、自分がそれをどう見るかによって混乱する。(エピクテウス)

冷たい朝、僕は欠伸をかみ殺して蒲団から這い出た。鏡を見ると髪が中村獅童になっていた。昨夜、髪を洗ったとき、よく乾かさなかったからだ。水道で顔を洗い、タートルネックとジーンズに着がえていると、妻はスリップとストッキングのまま化粧台の鏡に立って化粧を始めた。

「どうしてそんな寒い格好で化粧をするの」妻に訊いてみた。
「だっていつもこの格好でしてるもん」そんなことを訊く方がおかしいという表情をした。
「スカートが皺になっちゃうの」そう、妻は言い、スカートを器用にくるくると回して身に着けた。

玄関の鍵を閉め、駅にむかった。途中、通行止めの看板が針金で巻かれた保安柵が置かれて、その先に、これから舗装される砂利道が続いている。駅に行くにはこちらの方が近道なんだ。僕は保安柵を乗り越えた。妻も黙ってついてくる。微かな雨の匂いを胸に吸って歩く。空はどんよりとした雲に覆われ、地は雨に濡れて靴に泥がつく。まだ寒いというのに、すれ違う女性の薄着姿が気になる。

信号待ちをしていると、女性の後ろ姿があった。髪は金髪で、肩を露出した淡いピンクの服を着て、そしてスカートはパンチラのミニスカだ。信号が青に変わったとき、女性がうしろを振り返った。化粧を厚く塗った老婆がセクシーな胸元で笑う。老婆の笑いは異質な雰囲気があった。どうしておばあちゃんがこんな格好をしているんだろう。祭りの仮装?まさかね。うむ、そうか、ちょっといっちゃっているのかな。

黒い雲が早送りのように流れる。南風を受けながら僕は安全靴で軽快に歩く。公園内に植えられた桜のつぼみが大きくなっていたり、舗道の脇に並んだ葉がガサガサと乾いた音をたてる。3階建ての木造が並び、その向かい側にボンジュールという看板が見えた。引き寄せられるように妻と店内に入る。

「いらしゃいませ」と女性の声がしたが、姿はみえない。僕は通路側に座り、彼女はソファーに座る。しばらく考えてポークソテーに決める。店員がくるあいだ、店内を眺める。クリーム色の壁に絵が1枚。淡いピンクのカーテン。そして誰もいない。客は僕と妻だけだった。

テーブルに置かれたカーネーションが気になった。なぜ、枯れたカーネーションが置いてあるんだろうか。カーネーションは一年草だったっけ。僕は花瓶に挿してあるカーネーションを観察した。ふむ、これ、もしかして造化。枯れた造化なんてあるのかな。そういえばドライフラワーがあったよね。

「やーだー、かわいいっ」唐突に彼女が言う。彼女の視線を追うと、出窓のところに崖の上のポニョのぬいぐるみがこちらを見ていた。へー、かわいいんだ。そっか、かわいいのか。

店員は水をテーブルに置き「何にしますか?」と訊いた。店員の女性は大きなお腹で、今にも赤ちゃんが生まれそうな感じだ。注文を確認して、店員は微笑んで奥に入っていった。その笑顔がとてもまぶしかった。

壁に飾ってある絵を眺める。
「ね、あれってムンクだよね」と僕。
「えー」と彼女。

血のような赤い空。青い水に浮かぶ2隻の船。斜めにのびる欄干の上で、頬に両手をあてて、体を捩じらせて目と口を大きくあけている人物。あの人は何を恐れているのかな。叫んでいるように見えるし、耳をふさいでいるようにも見える。ゆらゆらと揺れて、自分の存在に身悶える姿。人生辛いことばかりさ。楽しいことなんてひとつもないと言っているよう。

ありのまま生きていくしかないじゃん。泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。あの空は血なんかじゃない。君の見間違いさ。静かな夕日が君の頬を染めているんだ。僕は君の手を優しく握って、潮の匂いに包まれながら、「南半球には偽南十字星があるんだ」なんて、つまらない話をして君の心を落ち着かせる。ところで君は男かい?それとも女?

「ねえ、聞いてる?」
「えっ」
僕はポテトフライを食べながら空想に浸っていた。
「このポークソティ、おいしいって言ったのよ」
「うん」
僕はにこやかに笑いながら汗をかいた。
「それでね。宇多田ヒカルどうしてるのかしら。私、わりと……」

僕はムンクの絵を見ながら、やっぱりどうも似合わないと思った。セザンヌとかモネがいいと思うんだ。まあ、人の趣味をどうこうと言うこともないけどさ。あれはきっと主人の好みなのかな。マッシュルームのスープ、皮付きポテトフライ、ポークソティ、どれもおいしかった。

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