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2018年02月10日

【映画】最近観た映画の感想など『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』『ラルジャン』『籠の中の乙女』におけるリアリティの話@


 こんにちは、つきひとです。前回の記事投稿からだいぶ期間が開いてしまってもうしわけありません。
 できれば四人称/移人称に関する記事を投稿しようと思っていたのですが、記事を書くにあたって読まなければならない書籍がばかなか手に入らないので、こちらはしばらく延期になりそうです。

 そして今回は、小説についてではなく、本ブログ史上初、映画について書いていこうと思っています。最近観た三作について一気に書くので、内容はそんなに充実していないかもしれませんが、つきひとはもともと映画関係の仕事をしたいと思っていた人間ですので、これからは何度か映画についても書いていこうと考えています。

『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』

『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』は(当時)若干二六歳アキ・カウリスマキ監督の処女作にして、原作をドストエフスキー罪と罰』に取った大胆な作品です。


 あらすじ自体はいたって明快で、精肉工場で働く労働者の若者ラヒカイネンが、ある実業家の男を射殺し、その現場に居合わせた若い女性エヴァに「警察を呼べ」と言いながらも逃げおおせ、出頭しないままエヴァや警察署の刑事たちとのあいだで倒錯した態度を取りつづける、というものです。
 内面描写を排したこの映画においては、ラヒカイネンは、逮捕されることを怖れているのか、それとも怖れていないのか、また、良心の呵責のようなものがあるのかどうか、その思想がどのようなものであるのかさえも、本当のところは、観客にはわかりません。厳密に言うと、最終的にはラヒカイネンは自身の殺人における動機のようなものを言葉少なに喋ってしまうのですが、その個人的な動機や思想が言葉によって提示されることにほとんど意義を感じられないほど、行為と行為者とが乖離しているという一つの事実を、この映画のストイックな描写方法は雄弁に語っていると思います

 つきひとの考えでは、『罪と罰』の原作者であるドストエフスキーという作家の文体には、ユーモアというか、緊張状態における滑稽さのようなものが含まれていると思うのですが、この監督の撮影方法は後述するロベール・ブレッソンのそれを思わせるものであり、DVDのパッケージや作品紹介サイトにも記されているとおり、観客の情緒に訴えかけるような劇的な演出というものを完全に排しています
 たとえば、原作のラスコーリニコフや、『地下室の手記』の語り手などは、作中の大部分を混乱した状態にあって、その内面が書き出されることによって読者への共感を促し、そこにユーモアの生まれる余地が生じてくるわけですが、映画となると、モノローグや登場人物同士の会話を多用しないかぎりは、内面を直接描写するようなことはできませんから、単純に考えると、その行為内容のみが登場人物から抽象されるような形で前面に現れてくることになります。この映画におけるラヒカイネンの場合、原作での言葉による混乱が、沈黙下の行動による不気味な倒錯として示されており、原作のラスコーリニコフ以上に狂人であるようにさえ見えます。
 そして、カウリスマキや、ロベール・ブレッソンのような映画監督たちは、物語からこの言葉による過剰な説明というか、わかりやすさのようなものを排除して、まるで作品世界内にただカメラを置いておいただけのような、ドキュメンタリーにも近しい乾燥した媒体(=カメラの写実的側面)を通して、『罪と罰』という作品世界を再提示します。ここでは、ハリウッド的なBGMなども、基本的には流れません。
 たとえば、中村文則のようなコンテンポラルな作家も、ブレッソンらには影響を受けているので、小説を読む、あるいは書く上でも、このような映画監督(カウリスマキ、ブレッソン、ミヒャエル・ハネケなど)たちの映画を観ることによって、視覚を通じた刺激を受けることができるのではないでしょうか。

 最後に、これはつきひとの個人的な好みなのですが、警察署の薄明りのなかでにやにやと笑うラヒカイネンの顔が、『タクシードライバー』のトラヴィスのようでどストライクでした(笑)。

『ラルジャン』

 こちらは前述したアキ・カウリスマキ監督が影響を受けた超大御所監督ロベール・ブレッソンによる作品で、お金を主題とした簡潔な物語です。原作はトルストイの中編小説。



 こちらも『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』同様あらすじ自体は単純で、巡りめぐって偽札をつかまされた労働者イヴォンがそれをきっかけに職を失い、強盗に関わって逮捕され、刑務所に入っているあいだに妻も子も失って、出所後には殺人に至るというものです。

 ロベール・ブレッソンは、劇的な演出を排し、俳優にもアマチュアを採用するなどしたフランスの監督で、その映画には緊張感が満ち溢れています。セリフは数少なく、BGMもなく、手元のクローズアップや登場人物の機械的な動作など、その仔細にいたるまで、これでもかというほどストイックに、厳選された演出を採用しているのです。
『ラルジャン』においては、たとえば、強盗のシーンでの発砲や、イヴォンによる最後の殺人などの、決定的な描写が削られています。これらのシーンは、普通であれば、作家や監督の腕の見せ所として描かれるシーンなわけですが、ブレッソンはここのところをあえて描きません。それにもかかわらず、これらの描写の欠如は、リアリティを損なうのではなく、むしろ補強するかのように重々しく余韻を残します
 つきひとは個人的には、決定的な瞬間を描写しない、という方法に賛否両方の意見があります。
 たとえば、殺人を綿密に描くかどうかという点ですが、経験したことがないことを作品の核として描くためにはある殺人に関わった加害者や被害者による証言や資料、作家の想像力などを結晶化することでそのリアリティを追求する必要があるわけですが、ひるがえって考えると、それらはすべて行為を解釈するための言葉(=二次的なもの、あるいは捏造)であって、それらをもとに描写されたものが本当に写実的であるのかどうかはわかわからないし、かといって、決定的な描写に欠いている場合、現実的なリアリティのみを重視していて(つまり、決定的な瞬間など描くことはできないというなげやりな態度)、フィクショナルなリアリティを蔑ろにしているようにも、つきひとには感じられます。
 そこへいくと、ブレッソンの映画は慎重で、殺人の瞬間をレンズに収めることはないものの、カメラは殺人が行われる部屋のなかにあり、凶行に及ぶ瞬間の、斧を振り上げたイヴォンの手元や、殺人によって壁に飛散した血痕、それから、劇的に惨たらしくはない遺体などはしっかり映しています。

 ロベール・ブレッソンという監督は、もう超大御所で今さらつきひとがなにを言うということもないのですが、『ラルジャン』や『スリ』はアキカウリスマキ『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』同様、寡黙なブルーワーカーの青年が主人公ということで、ドストエフスキー文学に通じるところがあり、それは今後日本で映画や小説が創作されるにあたって、もう一度確認されてもよいことであるとつきひとは思います。
 というのも、今の日本には貧しさが蔓延しているからです。年収1000万円超の人が人口全体の5%以下にまでなりながらさらには格差社会とも言われている時代ですから、これからの時代に、村上春樹小説の主人公のような、中産階級にある主人公は、すくなくともそれが社会派作品である場合、共感を得られなくなってくると思います。

『籠の中の乙女』

『籠の中の乙女』はギリシャの映画で、監督はヨルゴス・ランティモスという人です。カンヌ国際映画祭で、「ある視点」賞を受賞しました。


 こちらもやっぱり、あらすじは単純です。
 郊外のある家に、五人の家族が住んでいます。父と母、それから男一人女二人の三兄妹。一見普通に見える家族なのですが、じつは、この兄妹は生まれてから(おそらく)一度も家の外に出たことがありません。外出するのは一家の父だけで、父は「外は危険で、犬歯が抜けるまでは出られない。犬歯が抜けたら、外に出る準備ができたあかしだ」「ネコという凶暴な生き物がいる」などといって、兄妹を外に出さないのです。兄妹たちはすでに子どもとは言えない年頃になっているはずなので、当然、大人の犬歯なんていうものは自然に抜けるものではないのですが、(おそらく)幼いころから情報を操作されているので、父の言うことを完全に信用しています。このような状況が変化するきっかけとなるのが、父が雇ったクリスティーナという女性で、この女性は長男の性欲を処理するために、目隠しをされて家まで連れてこられます。そして、このクリスティーナが持ってきたビデオによって、妹の一人が、外の世界に興味を持ってしまいます。

 この作品の面白いところは、兄妹を外に出さないために積み重ねられる嘘にあります。
 たとえば、この兄妹にとって、「海」とは「椅子」のことであり、「高速道路」とは「強い風」のことであり、「プッシー」とは「大きな明かり」のことである、ということになっています。あるいは、この家族が暮らす家の上空はちょうど飛行機の航空路になっているのですが、兄妹はそれが無数の人間を乗せた巨大な機械であることを知りません。「飛行機が落ちたわよ!」と母が言うと、兄妹はわれ先にと家の庭に駆け出します。そこに、飛行機の小さな模型が落ちているんですね。これは母が用意したものなのですが、外の世界を知らない兄妹にとっては、それこそが「飛行機」にほかならないわけです。彼らにとっての「飛行機」は、家の上空を飛び、ときどき庭に落ちる無害な模型なのです。
 この兄妹がなぜ家の敷地内に軟禁されているのか、作品内で理由が提示されることはありませんが、どうやら監督自身がインタビューを受けて語ったところによると、子どもを害から遠ざける教育は子どもを犬のように躾けることにほかならないらしく、その潔癖主義的な在り方に問題意識を抱いたことから、この映画が撮影されたようです。
 この作品のなかには、たしかにモチーフとしての犬も、実際の犬も登場します。原題の英訳は『Dogtooth』、つまり「犬歯」であり、兄妹たちは、恐るべき生物である「ネコ」を追い払うための訓練として、犬の鳴き真似を強制されます。上述した、「犬歯が抜けるまで外に出ることはできない」というのも、これは父親が勝手に定めたルールなのですが、図らずも比喩表現となっています。つまり、犬歯が抜ける=犬ではなくなる=親に躾けられない状態に至って、はじめて兄妹は外に出ていくことができる、という構図が成り立つわけですね。


 Aにつづきます


posted by つきひと at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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 フィクションが好きでフィクションについて語りたい人間なのですが、社会人になってからというもの、あまりそういう場にめぐまれなくなってしまいました。このブログを大きくしていくことで、趣味に生きる沢山の人たちと交流できたらと思います。
 好きな小説は、カフカ「判決」、カミュ『異邦人』、クッツェー『マイケル・K』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、ドストエフスキー『地下室の手記』、ハクスリー『すばらしき新世界』、安部公房『砂の女』、色川武大『狂人日記』などなど。映画や音楽、ゲームについても書いていこうと思っていますので、ぜひよろしくお願いします!
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