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2016年05月28日

人は一度でも人をだますとその味をしめてしまう。自分に都合の悪いことは忘れる「非倫理的健忘症」とは?




『人は一度でも人をだますとその味をしめてしまう。自分に都合の悪いことは忘れる「非倫理的健忘症」とは?』

人は良き人間であろうとする。だが人間はちょっぴりずるい生き物で、魔が刺すとモラルに反したことをしてしまうこともある。そしてそれがバレなかった時、更に過ちを犯すこととなるのも人の常だ。人は自分が過去に悪い行いをしたことを忘れてしまうだけでなく、都合の悪い事実ををすべて忘れることによって、また悪さを繰り返す傾向にあるという。これは「非倫理的健忘症」と呼ばれるものだ。

 聖人君子など存在しないが聖人君子であろうとする。自分を律することで人は良き人間であろうと努める。だが、ちょっとでも隙があれば、些細なことで人をだましたり、ずるをすることはままある。例えば、小学校での書き取りのテストのとき、カンニングしたり、友だちの宿題を丸写しするといったことだ。あるいは、パートナーへの裏切りという場合もある。どこまでがだましやごまかしになると認識しているかはさておいて、大切なのは人をだました、ずるをした後であなたがそれをどう感じたかということだ。その罪を認めてすべて白状する? それとも、少しは罪の意識を感じながらもそのまま普通に人生を送る?あるいは、そんなことはまあ忘れてしまって、また次の悪事へと踏み出す?こうしたことに心当たりがあっても、自分はずるいことなんかしていないと思うあなた、それは悪い行いはみんな忘れてしまっているせいだ。これには科学的理由があるようだ。

一度だますと、味をしめる?
 選択記憶の概念は、よく知られているが、繰り返して人をだます行為の裏には、まさにこの選択記憶というものが隠れているのかもしれない。専門用語では、これは「非倫理的健忘症」として知られている。ノースウェスタン大学のマラヤン・コーチャックと、ハーバード大学のフランチェスカ・ジーノによると、この現象によって、時間の経過とともに過去の自分の悪い行いからなるべく遠ざかるようにしているのだという。おもしろいことに自分自身の悪事は忘れてしまうのに、他人の悪事は鮮明に覚えているものだという。

ゲーム
 コーチャックとジーノは、自分の過去の行動を人がどれくらい覚えているかについて9つの実験を行った。まず、343人に自分の過去の倫理的、非倫理的な行動をいろいろ書き出してもらい、その後アンケートに答えてもらう。また別の実験では、70人の学生にコイントスゲームをしてもらうが、そこでは比較的簡単に相手をだましてお金を得ることができる。2週間後、参加者にゲームのこととその夜に食べた食事について、質問事項に答えてもらう。すると、半数近く(43%)の人が、だます行為を行ったことを報告したが、食事の内容ほどは鮮明に覚えていなかったそうだ。

なぜ人は何度でも人をだましたり、ずるを繰り返すのだろうか?
 これを調べるために、再び悪事を繰り返すか、思いとどまるかを見る別の実験を行った。230人の学生に別のサイコロゲームをしてもらう。3日後に、同じ被験者たちに、簡単に相手をだましてお金を得ることのできる言葉集めのゲームをしてもらう。すると、最初のゲームで自分がずるをしたことをよく覚えていなかった人たちは、このゲームでも再び同じ行動を繰り返す傾向があることがわかった。

善良な人ですら他人の悪事に敏感で自分の悪事に鈍感である
 非倫理的な行為をした者の悪事の記憶が曖昧なのは、肯定的な自己像を維持するための行動なのだ。やはり、悪い行いのせいで心理的な苦痛や居心地の悪さを感じているからなのかもしれない。都合の悪いことは遠ざけよう、忘れようとして、さらなる不誠実が続く。しかし、これがこと他人のこととなると、まったく逆で、自分の悪事は棚に上げて、他人の違反には極端に敏感になる。これはごく普通の善良な人にも、同じことが起こりえる。この発見は、道徳的な自己概念について重要な役割を示している。いいことをしようが、悪いことをしようが、自分のいいイメージを損なわないようにするために、さまざまな経験を構築しては再構築し直しているためだ。私は常々、どんな善良な人間の心にも魔は宿っていると思っている。それを抑制できるのは己の罪悪感でだけである。だが善良な人間ですら、罪悪感はそれがバレないと生まれない。例えば買い物をするともらえる駐車場の無料チケット。それをもらうには駐車場に入場したときのカードが必要となるわけだが、たまたま車に置き忘れたといってもらったとしよう。実際に車で来ていないので、そのチケットをもらえば、別の買い物をするときに利用できる。置き忘れたという理由が通じることがわかると何度か繰り返すが、車で来ていないことが偶然バレてしまい、無料チケットはお出しできませんと言われ始めて我に返る。そうなって初めて罪悪感に見舞われるわけだ。そうなると二度とその店で買い物ができなくなる。自分のイメージが完全に損なわれたのだ。「あいつはズルいやつ」と思われたに違いないのだ。たかだか数百円で「ずるい」、「せこい」の烙印を押されるのなら最初からそんなことをしなければいいのに、人の心に宿る「魔」はいつでも顔をだしてくる。それが「非倫理的健忘症」というやつならば納得がいく。一度バレても、また隙あらば、ズルを繰り返していくことになるのだろう。人間はそういう風にできているという事実がわかれば、頭ごなしに他人を批判することはできなくなるはずだ。どんな人間でも隙があればズルいことをする。この事実だけは頭に刻んでおくことで避けられるトラブルがあるはずだ。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52218536.html

<コメント>
善良な人ですら他人の悪事に敏感で自分の悪事に鈍感です。
どんな人間でも隙があればズルいことをするそうです。


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オバマ米大統領が広島で演説(全文)




『オバマ米大統領が広島で演説(全文)』

歴史的訪問
 バラク・オバマ米大統領は2016年5月27日夕、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。オバマ氏は平和記念公園で「原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。歴史を直視して、何をしなければならないかを自問する共通の責任がある」と演説し、「核兵器なき世界」を追求する重要性を訴えた。1945年8月6日朝の惨劇の記憶を薄れさせてはならないとも語った。その後、参列した被爆者と言葉を交わし、抱き寄せた。オバマ氏は2009年1月の大統領就任時から被爆地訪問を模索、7年越しの実現となった。一方、米大統領に原爆投下の事実と向き合うよう求めてきた被爆者にとっては、長年の願いがかなう歴史的訪問となった。

 オバマ氏が広島市平和記念公園で行った演説全文は次の通り。

 71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。広島を際立たせているのは戦争の事実ではない。暴力的な紛争は原始人にも見られることが遺物から分かる。石英から刃物を作り、木からやりを作ることを学んだわれわれの祖先は、こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対して使った。全ての大陸で、文明の歴史は戦争で満ちている。穀物の不足であれ金(ゴールド)への渇望であれ、国粋主義の熱狂的な扇動や宗教的な熱意であれ、帝国は興亡し、人々は支配されたり、解放されたりしてきた。節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の死者を出し、彼らの名前は時間とともに忘れられた。

きのこ雲が想起させる矛盾
 広島と長崎に残酷な結末をもたらした世界大戦は、最も豊かで最も強力な国々の間の戦いだった。彼らの文明は、世界の偉大な都市や素晴らしい芸術を生んだ。その思想家たちは正義と調和と真実についての考えを進展させた。しかし、最も単純な部族間紛争の原因となった支配や征服への同じ基本的な本能によって戦争へと発展した。古いパターンが新しい能力によって、新たな制約もなく増幅した。数年の間に、およそ6000万人が亡くなった。われわれと何ら違いのない男性、女性、子供たちが、撃たれ、たたかれ、行進させられ、爆撃され、収容され、飢えさせられ、ガスで殺された。世界中に、この戦争を記録する多くの場所がある。勇気と英雄の物語を示す記念碑、言葉では言い表せない悪行がこだまする墓地や空になった収容所がある。しかし、この空に立ち上ったきのこ雲の姿は、人間性の中心にある矛盾を最も鮮明に想起させる。われわれを種として特徴づけるひらめき、思想、創意、言語、道具を作ること、自然界から人類を区別し、自然をわれわれの意志に従わせる能力。これらがいかに、不相応な破壊力もわれわれに与えるかということを。物質的な進歩や社会革新が、どれほどこの真実からわれわれの目をそらさせるのだろうか。われわれは、より高度な理由のため、暴力を正当化することをいかに簡単に学んでしまうのだろうか。全ての偉大な宗教は愛と平和と正義への道を約束するが、いかなる宗教にも信教を理由に人を殺すことができると主張した信者がいた。各国は犠牲と協調の元に国民を結束させる話を説きながら台頭し、偉業が成し遂げられるが、同時にこうした話は自分たちとは異なる人々を虐げ、人間性を奪う口実に利用されてきた。

薄れさせてはいけない記憶
 科学のおかげで私たちは海を越えて交流し、雲の上を飛び、病気を治し、宇宙を理解するが、こうした科学的発見はより性能のいい殺りく兵器にも変わり得る。近代の戦争は私たちにこの真実を教えてくれる。広島がこの真実を教えてくれる。技術は、人間社会の進歩を伴わなければわれわれに破滅をもたらす。原子の分裂へと導いた科学的革命は、モラルの革命も必要とする。 だから私たちはこの場所に来る。私たちはここ、この街の真ん中に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。目の当たりにしたことに混乱した子供たちの恐怖を感じずにはいられない。われわれは声なき叫びに耳を傾ける。あのひどい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起きる戦争で命を落とす全ての罪のない人々のことを忘れない。単なる言葉だけでこれらの苦しみを表すことはできない。しかし、私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを食い止めるために何をしなければならないかを自問する共通の責任がある。いつの日か、ヒバクシャの証言の声は聞けなくなるだろう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。その記憶のおかげで、私たちは自己満足と戦うことができる。その記憶が私たちの道義的な想像力をたくましくしてくれる。その記憶が私たちに変化を促してくれる。そしてあの運命の日以来、私たちは希望を持てる選択をしてきた。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、戦争を通して得られたものよりもはるかに多くのものを私たちにもたらした友情も築き上げた。一つの人類の仲間として欧州の国々は、戦場を商業と民主主義の結束に変えた連合を構築した。抑圧された人々と国は自由を勝ち取った。国際的な共同体は、戦争を回避し、核兵器の存在を制限、縮小し、究極的には廃絶を目指すための制度と条約をつくった。それでもなお、われわれが目にする国家間のあらゆる侵略行為、世界中でのあらゆるテロ、汚職、残虐行為、抑圧は、われわれの仕事が決して終わっていないことを示している。悪事を働く人間の能力をなくすことはできないかもしれない。そのため、国家、そしてわれわれが締結している同盟は、自身を守る手段を持つ必要がある。しかし、私の国のように核兵器の備蓄がある国は、恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、核兵器なき世界を追求しなければならない。私が生きているうちに、この目標を実現できないかもしれない。しかし、粘り強い努力によって破滅の可能性を低くできる。こうした備蓄の破棄につながる計画を立てることはできるし、他国への拡散や致死性の物質が狂信者の手に渡るのも阻止できる。しかし、それではまだ十分ではない。今日の世界を見渡すと、最も粗末なライフルやたる爆弾でさえ、恐ろしい規模の暴力をもたらすことができる。われわれは外交を通じて紛争を防ぎ、起きてしまった紛争を終わらすため、戦争自体に関する考え方を変えなければならない。われわれの相互依存の拡大を暴力的な対立ではなく、平和協調への理念と見なそう。破壊の力ではなく、つくり上げるもので国を定義しよう。そして、恐らく何にもまして、われわれは一つの人類の仲間として、お互いのつながりを改めて思い起こさなければならない。これも、われわれ人類を類ない存在としている。われわれは遺伝子情報によって、過去の過ちを繰り返すよう規定されてはいない。われわれは学ぶことができる。選ぶことができる。われわれは子供たちに別の物語を話すことができる。共通の人間性を描いたり、戦争の可能性を減らし、残虐さをそれほど簡単には受け入れたりしない物語だ。われわれはヒバクシャのこうした話を知っている。原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性がいる。本当に憎んでいたのが戦争それ自体だったと分かったためだ。この地で死亡した米国人の家族を捜し出した男性がいる。彼らと自分自身の損失は同じと信じていたからだ。私自身の国の物語も、簡単な言葉から始まった。「全ての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」(米独立宣言)。この理想の実現は決して容易ではなかった。わが国内や国民の間でさえそうだった。しかし、この話に忠実であろうと努力する価値はある。それは、真剣な努力に値する理想であり、大陸そして海を越えて広がる理想だ。全ての人間の絶対的な価値を示し、全て生命は大切であるという揺るぎない主張だ。われわれは皆一つの人類という家族の一員であるとの根源的で必然的な考え方だ。これこそ、われわれ皆が伝えなければならない物語だ。これが広島を訪れる理由だ。愛する人、自分の子供たちの朝一番の笑顔、台所の食卓越しの夫や妻との優しい触れ合い、心安らぐ親の抱擁といったことに思いをはせるためだ。こうしたことに思いを寄せると、71年前にここで同じように大切なひとときがあったということが分かる。亡くなった人々は、われわれのような人たちだ。普通の人には分かることだと思う。皆、戦争はたくさんだと思っている。科学の驚異は暮らしの向上に焦点を当てるべきで、命を奪うものであってはならないと考えている。国々やその指導者が決断を行うときにこの単純な知恵が反映されれば、広島の教訓は生かされたことになる。世界はここで永遠に変わってしまった。しかしきょう、この街の子供たちは平和に一日を過ごすだろう。それは何と貴重なことか。それは守るに値することであり、全ての子供がそうあるべきだ。これこそわれわれが選択できる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られる未来だ。(時事)
http://www.jiji.com/jc/v4?id=obama-hiroshima0001

<コメント>
全ての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。この理想が叶います様に。。。


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