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2014年07月10日
母ちゃんは泣いた
小柄な母に、ゴールへ飛び込む息子の姿は見えなかった。
エムウェーブのスタンドで一番うしろの席だった。スタートの合図と同時に、目の前の大観衆が一斉に立ち上がった。 30数秒後、バンザイをする手で視界がいっぱいになった。ああ、勝ったんだ、と思った。
清水津江子さんはこの日、金メダリストの母になった。
夫の均さんが9年間の闘病の末に亡くなったのは7年前だ。4人兄弟の末っ子の清水選手は、まだ高校生だった。
泣いている暇はない。建設現場の作業員として働き始めた。
汚水管の中へ入って継ぎ目をふさぐ。大型の金槌でコンクリートを砕く。免許を取り、大型ローラーで地固めもした。小柄な体にはきつかった。最初は勝手がわからず、現場の監督によく叱られた。
「でもね、外で働く方がお金になるんですよ。冬は雪で仕事がないから、宏保の試合の応援に行けるし」
生活は苦しかった。清水選手はスケートのおかげで高校、大学と授業料は免除された。でも、試合に出るための遠征費の半分は、自分で負担しなければならない。
大学2年のとき、費用が足りず、ワールドカップ(W杯)を3戦、欠場した。
「長男も娘たちも、みんな必死で働いて宏保に仕送りしたんですが……。私がふがいなかった」
いま、清水選手は海外遠征に行くたびに、「かあちゃん、みやげ持ってきたぞ」と、スカーフや時計やブローチを買ってくる。「日雇い仕事をしていた私には、エメルスだかエルメスだかの高級ブランドなんてもったいない」と、たんすの肥やしになっている。
清水選手の4組前の選手が接触して転倒、会場に響きわたるようなうめき声を上げた。津江子さんは身を乗り出し、そしてうつむいた。
頭を上げると、練習用レーンをゆっくり滑る清水選手の姿を、目でずっと追い続けた。
津江子さんは、「スケートは夫の形見なんです」という。壮絶な父子だった。
足が少し不自由だった均さんは、3歳でスケート靴をはいた息子に、五輪への夢を託した。友達と遊びに行こうとすると、「30分で戻って来い」と命じ、毎日リンクへ通わせた。転ぶとどなり、言った通りに滑らないと殴った。
ガンの宣告を受けたとき、清水選手はまだ小学2年だった。「死」の実感がない息子に、「スケート靴は命の次に大切だ。お父さんがいなくなっても、一人で刃を研げるようにならなきゃだめだよ」と話すのを見て、津江子さんは涙が止まらなかった。
入院しても、息子が見舞いに来ると知ると、椅子にきちんと座り、「強い父」を装った。そして、「ここへ来る暇があったら練習しろ」と叱った。
均さんの通夜を終えた深夜、清水選手は突然、トレーニングウェアに着替えた。
2月の寒い夜だった。「今日も走るの」と驚く津江子さんに、「おやじなら『走れ』って言うに決まってる」と言って、泣きながら飛び出していった。
母は涙もろい、と清水選手は言う。
その通り、スタート前からずっと、白いハンカチで目を押さえていた。
コートのポケットに、均さんの遺影をしのばせていた。
ゴール後、ピンクの小さな額縁に入った写真を、そのハンカチでそっとくるんだ。
「夫もびっくりするでしょう。特別な思い入れのあったスケートと、息子ですから」。
日の丸を振ってウイニングランをする清水選手が津江子さんの見つけ、にっこり笑った。そして手で目を覆った。 それを見た母は、今度は声をあげて泣き始めた。
五輪の前、津江子さんは息子のふとももに触った。
「そしたら、すごく硬いんですよ。この足で滑るんだなあって、何か感動してしまいました」。 母にもらったその足で、息子は勝った。
1998/2/11 長野冬季オリンピック(世界に輝く小さな体 朝日新聞より)
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