第二次世界大戦中,ナチス・ドイツは約600万人ものユダヤ人を虐殺しました。
軍事的な必要性も必然性もないのに,ただユダヤ人というだけで殺したのです。
それは,決して起こってならないことであり,奈落の底が開いてしまったような出来事でした。
なぜ,このような恐るべき全体主義が誕生してしまったのでしょうか?
全体主義の原因とその解決を生涯かけて追及した者こそ,今回登場するハンナ・アーレント(1906〜1975)でした。
<悪の系譜>
全体主義の本質は,その無意味な暴力にあります。
もちろん,暴力をふるう支配者は昔からいました。
しかし,今までの暴君と全体主義は,その立脚している価値観が全く違います。
今までの暴君は,「汝殺すなかれ」というみんなが共有している戒律をあえて踏みにじることで,人々を恐怖させ支配してきました。
しかし全体主義は,道徳律そのものを根底から覆し,暴力が自己目的化してしまったのです。
すなわち,全体主義は,世界を壊すために壊し,人々を殺すために殺すのです。
人々を支配するために殺すのではありません,殺すこと自体(死体の製造)が目的となってしまったのです。
なぜ,このような恐ろしいイデオロギーが誕生してしまったのでしょうか?
ヒトラーのせいでしょうか?
ゲーリングのせいでしょうか?
もちろん,彼らがナチスを率いて,能動的な暴力の行使によって世界を支配下に置こうとしたことは事実です。
しかし,根本の原因はヒトラーでもゲーリングでもありません。
なぜなら,彼らでさえ,自分のことを支配者と考えていたのではなく,(アーリア人という優等人種が世界を支配しなければならないという)イデオロギーに従う一つの器官と考えていたからです。
では,誰が支配者だったのでしょうか?
アーレントは言います,全体主義に支配者はいないのだ,と(「全体主義の起源」)。
誰も支配者がいない(nobody)ということは,すべての人(everyone)が無意識的に悪に加担していることを意味しています。
ヒトラーと彼に従った大衆には,大きな共通点がありました。
それは,“自分の私的な生存のみに関心を持ち,公的な事柄に責任も関心も持っていない”ということです。
彼らはみな,世界に対して関心を持たず,彼らの一番の関心事は,ただ与えられた職務を果たして私生活の安全を確保することでした。
毒ガスによる殺人や生き埋めを日々見ていた収容所の主計官が,自分の罪を問われて,「私が何をしたのでしょう」と泣き出したという話があります。
ナチスに加担したすべての人々は,“日々の生活のために職務を果たしただけであって,自分には責任がない”と考えていたのです。
そこにあるのは,目の前の業務さえ行えばいいという部品と化した人間の姿であり,他者の立場から物事を考えられない完全な思考停止であり,責任を感じることができない人間の尊厳の欠如でした。
アーレントは,このような悪のことを,凡庸な悪と呼びました(「エルサレムのアイヒマン」)。
全体主義の原因,根源的な悪とは,このような凡庸な悪にあったのです。
<メサイア体験>
では,どうすれば,このような悪を克服することができるのでしょうか?
アーレントは最初,こう考えます。
イギリスやアメリカの市民革命のように,ある特定の人々が人間の尊厳を保てるような政治体制を創設すればよい,と(「革命について」)。
しかし,たとえ素晴らしい政治体制を整えたところで,問題の根本的解決にはなっていません。
全体主義の本質は,人々が同質性ばかりを重視して,異質な他者(ユダヤ人)を排除しようとしたことにあるのです。
複数性の欠如,異質な他者との共生を拒否する態度。
これが,全体主義の本性なのです。
ですから,たとえ素晴らしい政治制度を作ったところで,人間の側に他者の独自性を重んじる態度がなければ,根本的な解決にはならないのです。
このように思い悩んでいたアーレントは,1952年5月のある日,啓示を受けます。
ミュンヘンの劇場でヘンデルの「メサイア」をきいていた時,それは訪れました。
「我々のもとに一人の子どもが生まれた」(イザヤ書9−6)
「メサイア」のこのセリフが,アーレントの心を突如撃ち抜いたのです。
もともとこのセリフは,キリストが生まれる預言でした。
「一人の子ども」とは「a Child」,すなわちメシアとしての一人の子どものことであって,人々を救い出す使命をもった一人の人格を意味していました。
しかし,アーレントは,この箇所を「a child」,不特定多数の誰か,つまりすべての子どもたちと解釈し,新たな世界の可能性を開くのは複数の人格であると考えたのです。
アーレントは言います,「イエスの教えの独自性とは,人間の複数性を重視したところにある」と。
「神は男と女を造られた」(マタイ伝19−4)
このイエスの言葉の強調点は,「男」や「女」ではありません,「と」にあるのです。
イエスが言おうとしているのは,生物学的な性別の違いなのではなく,“人間はもともと異質なもの,独自な存在として造られた”ということなのです。
それは,イエスの愛の観念にも表れています。
パウロにとっての愛とは,二者の融合を意味していました。
人間は神の恩恵によって救われた同じ罪人,すなわち同質的な兄弟として,一体化しなければならない。
これが,パウロのいう愛でした。
しかし,イエスのすすめた愛は,“間”を介して言葉を交わしあう関係を意味していました。
人間はともに神の国を造る同志であり,異質な友として(ヨハネ伝15−12〜15),互いに言葉と行為によって交わり,つねに世界を新たにしていかなければならない。
これが,イエスのいう愛でした。
※パウロの教えの本質は“個人の不滅性”であり,イエスの教えの本質は“共同体(神の国)の不滅性”でした。故に,パウロにとっての信仰は救済であり,イエスにとっての信仰は活動でした。
では,人間の複数性を重視したイエスは,我々にどう生きるように説いたのでしょうか?
アーレントはこう指摘します(「人間の条件」)。
イエスが明らかにした人間の生き方とは,第一に奇蹟であり,第二に赦しです。
奇蹟とは,新しいことを始めることです。
ナザレのイエスがその教えの中ですすめる唯一の人間の能力とは,奇蹟を行なう能力でした。
人間はみな,神の似姿として造られました。
つまり,人はみな,唯一無二の力と使命を持っているのです。
神から与えられた独自性を発揮すること,能動的に自己をあらわすこと,この世の必然性を打破して新しいことを始めること。
人間の為すべきことは,神の創造の業を反復することなのです。
そして,こういった奇蹟を可能にするために必要なものが,赦しの愛です。
人はみな,思いがけず過ちを犯してしまうものです。
もしその過ちを赦してやらなければ,過ちを犯した人間は過去の行為に縛られてしまい,前進することができません。
いや,過ちを犯した人間だけではありません,過ちを犯された人間にしてもそうです。
他者の過ちを赦さず,復讐に心を燃やすということは,未来に目を向けずに,たった一つの過去に縛られてしまっているのです。
赦しは,赦す側も赦される側も,双方が自由になる行為です。
人間は赦しあうことによって,自発的に心を新たにして始めなおし,何か新しいことを始める偉大な力に信を置くことができるのです。
全体主義を克服する複数性の社会とは,イエスが教えたような“奇蹟と赦し”によって実現するものなのです。
<アーレントの前世>
アーレントの前世とは,キリスト教の大思想家アウグスティヌスです。
アウグスティヌスは「神の国」において,“自己愛によってできた地の国”と“隣人愛によってできた神の国”の対立という視点から歴史を考察していますが,これは「人間の条件」において,“自分の生命を保持しようとする労働(labor)”と“共同体のために尽くそうとする無私の行為(action)”の対立という視点から歴史を考察したアーレントを彷彿とさせます。
アウグスティヌスは「告白」において,後世の思想家に大きく影響を与えることになる心理的時間論を展開していますが,これは「精神の生活」において,鋭い実存的時間論(静止する今)を展開したアーレントと共通するものがあります。
アウグスティヌスもアーレントも,カルヴァンのような体系的な思想家ではなく,一つのテーマを生涯貫くような思想家でした。
初期の「告白」から晩年の「三位一体論」に至るまでアウグスティヌスの貫いたテーマは,意志の自由です。
そして,アウグスティヌスの出した結論は,“意志の究極は愛である(愛によって意志は救われる)”ということでした。
アーレントはアウグスティヌスの出した結論から出発します(「アウグスティヌスにおける愛の概念」)。
アーレントの生涯のテーマは愛であって,どうしたら異質な他者と共に共生空間を打ち建てられるか,ということでした。
アウグスティヌスがアーレントの前世かどうか確かめたい方は,アウグスティヌスの「三位一体論」における意志論と,アーレントの「精神の生活」における意志論を比べてみてもいいかもしれません。
また,アーレントの前々世は,旧約聖書に登場する預言者イザヤです。
イザヤもアーレントと同じように,鋭い政治感覚を持った大思想家でした。
「狼は小羊と共に宿り,豹は子やぎと共に伏し,子牛・若獅子・肥えたる家畜は共にいて,小さい童に導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,獅子は牛のようにわらを食い,乳飲み子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる」(イザヤ書11−6〜8)
イザヤが理想とした世界は,すべての人が精神的に成長し,異質な者が互いに共生できる政治空間の確立でした。
これは,複数性の社会の実現を目指したアーレントと同じ精神といえるでしょう。
イザヤの最後は悲惨なもので,伝説によると,ノコギリによって生きたまま身体を引き裂かれ,殉教したと言われております。
伝説がどれだけ確かかはわかりませんが,少なくともアーレントは,類似する悲劇に見舞われました。
アーレントの伝記を読むと,彼女がいかに友人を愛していたかが伝わってきます。
彼女にとって,共に議論し共に研鑽する友人の存在は,かけがえのないものでした。
「真理と友人をどちらか選ばねばならないとすれば,私は友人を選びたい」
これが,アーレントの信条でした。
しかし,ナチスのアイヒマン裁判を検証した「エルサレムのアイヒマン」を出版することによって,多くの友人を失うことになります。
ナチスを悪魔の如く憎悪する人々にとって,“アイヒマンは凡庸な人間であり,悪の根源は普通の人間の内にある”と結論づけたアーレントは,許しがたいものだったのです。
真実を語って友を失ったアーレントは,いわば真実と友の間で引き裂かれたといえるでしょう。
預言者イザヤ→アウグスティヌス→ハンナ・アーレントと転生した魂の霊的実体とは,七大天使の一人,大天使サリエルです。
思想(特に政治思想)を担当する存在です。
いつも政治的危機の時代にこの世に生まれ,激動の時代の中で社会の救いを追求してきました。
イザヤの時はアッシリアの脅威のもとでイスラエルの救いを追求し,アウグスティヌスの時はゲルマン民族の脅威のもとで教会の救いを探し求め,アーレントの時は全体主義の脅威のもとで世界の救いを模索しました。
<精神の生活>
政治現象としての全体主義は去りました。
では,アーレントの危惧した社会の危機は去ったのでしょうか?
去ってはいません,今なお存続していると私は考えています。
全体主義の特徴とは,何だったのでしょうか?
それは,他者とのつながりの喪失と人間の根無し草化であり,生きる意味がわからない虚無感の支配であり,エリートから大衆に至るまでの無思考性であり,人間を交換可能な塊とみなす人格の否定であり,自分のこと以外はどーでもいいというような社会の風潮です(「暗い時代の人々」)。
これら全体主義の精神は,今なおこの社会に瀰漫しているではありませんか。
もちろん,だからといって全体主義が復活するということではありませんが,違う形で問題が噴出しないと誰が断言できるでしょうか。
アーレントは晩年,再び人間が全体主義に陥らないためにはどう生きればよいかを探求しました(「精神の生活」)。
アーレントは言います,人間はまず思考しなければならない,と。
思考とは,本を読んだり話を聞いたりして,知識として結実するものではありません。
アーレントのいう思考とは,意味を考えることです(カントは,知識として成立する能力を知性,答えようのない問いを考える能力を理性と呼びましたが,アーレントのいう思考とはカントのいう理性のことでしょう)。
世の中の流れや常識を疑い,一旦立ち止まって,自分で自分に問いかけること。
自分の考えや行為に対し,「どういうつもりで君はそういうことを考えるのか?」と問うこと。
自分の中にもう一人の自分を想定して,その人と対話すること。
「思考は差異を現実化する働きである。これは知識と違って万人に開かれている。しかしこの思考は,社会的にはあまり役に立たない。価値も生まなければ,善が何であるかを見極め尽くすこともない。この世で生きやすくするよりは,生きづらくする。しかし,考えることのない人生は,人生の意味も知らず,夢遊病者のようなものであって,真に生きているとはいえない」
考えない人,自分の中に分裂した自己との論争がない人は,容易に世の風潮に流され,倫理を転倒させることになります。
ナチスに従った人々が,「汝殺すなかれ」から「汝殺すべし」に転倒したように。
思考は,悪を防止する最上の手段なのです。
思考の次に大事なものは,意志です。
人間が造られたのは,因果の法則に縛られ,この世の必然に流されるためではありません。
人間が創造されたのは,この時間の中で新しい“始まり”を造り出し,運命を突破して世を変えるためです。
そのために,神は人間に意志を与えたのです。
ですから,たとえ困難な状況や圧倒的な悪に直面しても,自分の意志を起動力として,状況を打破しなければなりません。
思考と意志,しかし最も大事なものは,愛です。
愛と言っても,いろいろな愛があります。
アーレントが強調する愛とは,ナザレのイエスの愛でした。
ソクラテスの愛とは,自分にないものを他者に望む愛であり,欲求としての愛でした。
パウロの愛とは,神への愛であり,圧倒的な恩恵によって罪人に注がれる愛でした。
ソクラテス的な愛は,未来に幸福を求めて最高善を享受しようとするギリシャ的な愛であり,パウロ的な愛は,過去に逆行して創造者という起源に帰還しようとするユダヤ的な愛でした。
しかし,イエスの愛はそれを上回り,今・ここで他者と共に共生空間を打ち建てようとする神の国の愛でした。
イエスの愛とは,同じく神に造られた同志としての愛であり,互いの独自性に対する尊敬に立脚した愛でした。
相手がどんな人間であろうとも,相手の中に神の似姿があることを信じる愛でした。
相手が最終的にどのようなものになろうとも,たとえ私とは異なる信念を抱くようになっても,私の希望とは違う道を選ぶことになっても,その人がその人らしく生きることを望む愛です(「思索日記」)。
イエスは,ユダが自分を裏切ることを知っていました。
そして,ユダが自分を裏切った時,イエスが発した言葉は「友よ」(マタイ伝26−50)でした。
たとえ自分を裏切って殺すことになっても,イエスは最後まで,ユダの内にある神の似姿を信じて疑わなかったのです。
複数性の社会を実現する土台となるのは,この種の愛なのです。
たとえ相手が罪を犯した人間であっても,知的に障害がある人間であっても,精神的に錯乱した人間であっても,社会的に無きに等しい人間であっても,また,私の信じる正義に敵対する人間であっても,心の奥底には神の似姿があるという盲目的信仰こそ,複数性の社会を実現する要石なのです。