2017年08月30日
保育のお仕事
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2017年08月30日
保育のお仕事
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2017年08月29日
妊活・妊娠中のあなたに
2017年08月29日
保育士の転職支援サービス
保育士の仕事は子供たちの将来の生き方にも
影響を与える仕事の一つと言えるかもしれません。 子供たちも、その親たちも、そして保育士も安心できる保育園。 そんな願いをかなえられるよう、転職支援サービスを利用できます。 2017年08月28日
赤ちゃんがほしい。
厚生労働省推奨の「ベルタ葉酸サプリ」
我が家にかわいい赤ちゃんがやってくる。 それを夢見て頑張っている、 かわいい赤ちゃんがほしい。 厚生労働省推奨の「ベルタ葉酸サプリ」がある。 わたしも赤ちゃんが欲しくて頑張った時期があった。 もう何十年も前の事だけれど。 あの時はこんなサプリの事は聞いたこともなかった。 ネットも普及してなかったし。 でも、今はサプリがあるのですね。 2017年08月28日
シミソバカスを防ぐ美肌お試しセット
2017年08月28日
マヌカハニー、夏風邪で熱が引かず休んでいた時に友人からのプレゼント
マヌカハニー
夏風邪が長引き一週間も休んでいた。去年の夏。 友人が心配して、見舞ってくださった。 マヌカハニーって知っていますか? いいえ知らないわ。 どんな蜂蜜の事かしら? のどの痛みがすぐ直るから飲んでみてね。 やさしい友人がプレゼントしてくださったのが この、マヌカハニーでした。 飲んですぐ、のどの痛みが和らぎ、とても感謝しました。 今回このマヌカハニーを見つけました。 ぜひ、試していただきたいと、紹介することにしました。 医師も驚く!! 天然活性物質MGOマヌカハニーは健康の源です。 ニュージーランドの人里はなれた大自然から採れた幻のハチミツ!! 非常に活性度の高いブレンドによる他の量産品とは全く異なり どなたが利用頂いても必ずその有用性がすぐ実感できる製品です。 2017年08月17日
旧、静岡市が空襲警報で安倍川に避難した日の思い出
静岡空襲の日、確か6月19日
あの日はどうして空襲があると分かったのでしょうか? まだ、5歳だった私は母に手を引かれて安倍川に向かって歩いた。 桑畑のそばの田んぼの中を歩いていた。 空から赤い火がチラチラと降りつづけ、幼い私はとてもきれいだと思った。 神経質で、警報が鳴るたびに恐ろしくて、防空壕に逃げ込んでいた私だったが この日は、恐ろしいと思わなかったのは、なぜでしょうか。今でも理解できない。 母は4人の子供に支度させるのに手間取って安倍川についたのは朝方だった ように、記憶している。 桑畑のある細い道を一番土手に向かっているとき、桑畑の中に大勢の人々が すわっていた。そこに避難していたのだろうか。 あとから聞いた話によると、早く非難した人たちはけがをしたり、亡くなったりして 桑畑の中に座り込んでいたようだ。 母は4人の幼子に支度させるのに手間取り、逃げるのが遅くなっていたのだ。 その時刻に安倍川に向かって歩いている人はほとんどいなかった。 母はわき目もふらず、ただ安倍川に向かって黙々と歩き続けた。 普段は活発な二人に姉もおとなしく、母のそばを離れなかった。 一番土手を上り下るとそこも桑畑だった、桑畑をとおりぬけて二番土手を 昇った。母は安倍川には降りず、土手を南に歩き続け市内のほうが見えるように すわった。私も姉たちも母にならって、土手にすわった。 安倍川には大勢の人たちがいたようだが、土手の上に人の姿はなかった。 私たちが安倍川についたころには、爆弾も、焼夷弾も安倍川には落ちてこなかった。 空襲も終わりあたりがすっかり明るくなってから家に戻った。 家の中には見覚えのない荷物がたくさん放り込んであった。 逃げる途中で預けて行ったのでしょうか? あの日の桑畑の中に座り込んでいた人々、道路に倒れていた人々。 思い出すたびに戦争の悲惨さを感じる。 世界中から戦争が無くなる日が一日も早く来てくれることを願う。 平和な時代に生活できているので、健康に生きていきたい。 母は弟を背中におんぶし、私の手をしっかり握りしめていた。 姉たち二人は母のそばから離れなかった。 2017年08月14日
戦時中の記憶 食糧事情 そして戦後の食糧事情
戦時中は食糧不足が続いたけれど、三度の食事には事欠かなかった。
今のように、満足するまでとはいかなかったけれど、さつま芋の切干など一斗缶に いっぱい保管されていた。 また、子供達だけで、食糧の豊富な田舎の遠い親戚に疎開させられた。 庭に植えられた果物の木、あれは柿の木だったと記憶しているけれど自由に 食べることができた。食事も白米を十分にいただけた。 けれど、戦後になると食糧事情は一変した。 配給が始まったけれど、そのなかには古くなって割ると糸を引くパン アメリカから送られてくる豆かす(これはフライパンで炒ってたべると香ばしくて なんとか、食べることができた)。 ふすま(麦のぬか)はぼそぼそしておいしくなかった。 芋粉(生のさつま芋を乾燥させて粉にしたもの)これは腐ったさつま芋を混入させてあり 苦くて食べられなかった。 でも大人はそれでも我慢して生きるために食べた。 子供たちは、毎日お腹をすかしいつも何か食べたいと思っていた。 ガリガリにやせている子供たちが大勢いた。 買出しは違法ですが生きるためにやむを得ず行く人たちがいる一方で 商売のために行う人たちもいて、闇市ができた。 警察につかまり全部取り上げられる人たちがいる一方で上手に潜り抜け 大儲けする人たちもいた。 それで、ある家では食糧不足がなくなった。 終戦の翌年、小学校に入学した。一年生だけで6クラスもあった。 しかも、ひとクラス60人以上いた。 ある日,先生が教壇に新聞紙を広げ金平糖を数えはじめた。 そして、一人に一包み手渡してくれた。配給が学校で行われたのだ。 たしか、16銭だったと記憶している。うれしくて大事に大事に抱えて家に帰った。 学校での配給はそれ一回だけだった。 今は、飽食の時代で余った食事を簡単に捨ててしまう。 一方で世界のどこかで、いつも食糧不足に苦しんでいる人々がいる。 食糧を無駄にしないで、感謝の日々を送りたい。 2017年08月13日
戦時中の記憶 警戒警報
毎晩のように空襲警報、警戒警報で幼かった私は戦争が恐ろしくゆっくり眠ることもできなかった。
一晩のうちに何回も警報が鳴るようになると、私はすぐに逃げられるよう、靴を履いたまま床に就くようになった。 神経質な私を思いやり、母は何一つ小言を言わなかった。 夕方暗くなると、近所の交番のお巡りさんが、明かりのもれている家に声をかけた。 とても、親切で住民の安全を気にかけていることが、幼い私にも感じ取れた。 家の中で明かりのついている部屋は一か所だけだった。 電気の傘のまわりに風呂敷をかけて、明かりが外に漏れないよう気をつけた。 当時、家にいたのは母、小学3年の長女、一年の次女、5歳の三女私、弟の家族5人だけだった。 父のいない家はとてもさみしく、心細かった。 父は、東京の軍需工場で働いていた。 近所には大人の男性はいなかった。 警報が鳴ると裏庭にある防空壕に逃げた。防空壕の中は暗く恐ろしさをさらに強く感じさせた。 昼間、警戒警報や、空襲警報が鳴ったか覚えていない。 そのころまで、警報は鳴っても近くで爆弾が墜ちたことはなかった。 有機大麦若葉を使用した有機高原の青汁! 2017年07月15日
熱中症に気をつけましょう
毎日暑い日々です。
今日も各地で30度以上の蒸し暑い日になりました。 どうぞ熱中症にも気を付けてお過ごしくださいますように。 こまめに、水分補給が大切といわれています。 年を重ねるとあまり喉がかわかなくなるように思いますがいかがでしょう。 それで、私はテーブルにいつもおいしい水を置いています。 そして、冷蔵庫にはスイカを常備しています。 カットしてありますので、いつでも一口だけでも
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