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2015年07月08日
欧州発行の古地図上での日本の表記
「IAPAM」1560年頃
「IAPAN」1567年頃
「IAPAM」1568年頃
「JAPAN」発行年不明
「IAPONIAE」1595年
「IAPONIA」1595年
「IAPONIÆ」1595年
「IAPONIA」1598年
「IAPONIA」1598年
「IAPAO」1628年
「Iapan」1632年
「IAPONIA」1655年
「IAPON」発行年不明
「Iapan」1657年
「IAPONIA」1660年頃
「NIPHON」1694年頃
「JAPAM」1628年
「YAPAN」1628年
「IAPON」17世紀
「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初
「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃
「IAPONIA」18世紀初
「IAPON」1720-30年
「IMPERIVM JAPONICVM」1727年
「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃
「JAPANIÆ REGNVM」1739年
「IAPAN」1567年頃
「IAPAM」1568年頃
「JAPAN」発行年不明
「IAPONIAE」1595年
「IAPONIA」1595年
「IAPONIÆ」1595年
「IAPONIA」1598年
「IAPONIA」1598年
「IAPAO」1628年
「Iapan」1632年
「IAPONIA」1655年
「IAPON」発行年不明
「Iapan」1657年
「IAPONIA」1660年頃
「NIPHON」1694年頃
「JAPAM」1628年
「YAPAN」1628年
「IAPON」17世紀
「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初
「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃
「IAPONIA」18世紀初
「IAPON」1720-30年
「IMPERIVM JAPONICVM」1727年
「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃
「JAPANIÆ REGNVM」1739年
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・小笠原諸島などの諸島嶼から成る島国である。
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊を提示している。
「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。雅語で「ひのもと」と読むこともある。
『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。 魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。
「日本」の国号が成立する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとするが、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。
同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。
その後、2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した。
現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)、ほか日本放送協会、日本テレビ、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本、日本電気、日本電信電話などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会などがある。
(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、次のとおり。
「ニッポン」日本社会党(1945-1996)、日本自由党(1953-1954)、新党日本(2005-)、たちあがれ日本(2010-2012)、日本維新の会(2012-2014)、日本未来の党(2012)、日本を元気にする会(2015-)
「ニホン」日本共産党(1922-)、日本労農党(1926-1928)、日本自由党(1945-1948)、日本進歩党(1945-1947)、日本協同党(1945-1946)、日本農民党(1947-1949)、日本民主党(1954-1955)、日本新党(1992-1994)
和語あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。 「葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
「豊葦原(とよあしはら)」
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。 「秋津島」
「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。 「師木島」(『古事記』)
「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
「敷島」
おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。 「大八島」「太八島」
「大八洲」(『養老令』)
「大八洲国」(『日本書紀』神代)
ほつまのくに 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武記)
くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。 「細矛千足国」(日本書紀・神武記)
たまかきうちのくに 「玉牆内国」(日本書紀・神武記)
「玉垣内国」(『神皇正統記』)
やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。 「大和」「大和国」
「邪馬臺国」(魏志東夷伝倭人条)
みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。 「瑞穂国」
うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。 「浦安国」(日本書紀・神武記)
ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの 「日出処」(隋書)
漢語「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる。
英語の公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。その他、各国語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。漢字文化圏においては、ジーペン(中: Rìběn;日本)、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)など、「日本」をそのまま自国語の発音で読んでいる。
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊を提示している。
「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。雅語で「ひのもと」と読むこともある。
『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。 魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。
「日本」の国号が成立する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとするが、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。
同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。
その後、2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した。
現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)、ほか日本放送協会、日本テレビ、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本、日本電気、日本電信電話などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会などがある。
(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、次のとおり。
「ニッポン」日本社会党(1945-1996)、日本自由党(1953-1954)、新党日本(2005-)、たちあがれ日本(2010-2012)、日本維新の会(2012-2014)、日本未来の党(2012)、日本を元気にする会(2015-)
「ニホン」日本共産党(1922-)、日本労農党(1926-1928)、日本自由党(1945-1948)、日本進歩党(1945-1947)、日本協同党(1945-1946)、日本農民党(1947-1949)、日本民主党(1954-1955)、日本新党(1992-1994)
和語あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。 「葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
「豊葦原(とよあしはら)」
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。 「秋津島」
「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。 「師木島」(『古事記』)
「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
「敷島」
おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。 「大八島」「太八島」
「大八洲」(『養老令』)
「大八洲国」(『日本書紀』神代)
ほつまのくに 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武記)
くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。 「細矛千足国」(日本書紀・神武記)
たまかきうちのくに 「玉牆内国」(日本書紀・神武記)
「玉垣内国」(『神皇正統記』)
やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。 「大和」「大和国」
「邪馬臺国」(魏志東夷伝倭人条)
みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。 「瑞穂国」
うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。 「浦安国」(日本書紀・神武記)
ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの 「日出処」(隋書)
漢語「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる。
英語の公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。その他、各国語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。漢字文化圏においては、ジーペン(中: Rìběn;日本)、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)など、「日本」をそのまま自国語の発音で読んでいる。
AKB48
AKB48(エーケービー フォーティエイト)は、日本の女性アイドルグループ。秋元康のプロデュースにより、2005年12月8日に誕生した。
東京・秋葉原(東京都千代田区外神田)に専用劇場「AKB48劇場」(エーケービーフォーティエイトシアター)を持ち、「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしてチームごとに日替わりで、ほぼ毎日公演を行うことを特徴としている。マスメディアを通しての遠い存在であったアイドルではなく、身近に感じられる存在であり、その成長していく過程をファンに見てもらい、ともに成長していくアイドルということである。
その一方で、2009年頃からテレビ番組出演の増加などにより、「マスメディアで見かけるアイドル」にもなって知名度も上がり、さらに発表するCDの売り上げが次々と1位を記録したことにより、マスメディアから「国民的アイドル」と呼ばれる存在になっている。
特徴として非常に大勢のメンバーが在籍している。「AKB48」というグループ名から、メンバー数は48人であると誤解されることがあるが、実際は正規メンバーと研究生を合わせて100人超える大所帯で、ギネス世界記録に認定されている。
2015年現在、姉妹グループとして日本国内にSKE48・NMB48・HKT48、日本国外にJKT48・SNH48があり、姉妹グループの総称として「AKB48グループ」・「AKBグループ」・「48グループ」とも称されている。詳しくは#姉妹プロジェクトを参照のこと。
2005年12月8日、AKB48劇場で初公演を行い(初公演の一般入場者は7名)、2006年2月1日にシングル「桜の花びらたち」でインディーズデビュー。同年10月25日にシングル「会いたかった」でデフスターレコーズからメジャーデビュー。2007年にはいわゆる「アキバ枠」で「第58回NHK紅白歌合戦」に出場するものの、当時は「秋葉原のオタク向けアイドル」というイメージが強かったこともあり、世間の関心は薄かった。
2008年1月に地上波テレビ初の冠番組『AKB1じ59ふん!』の放送が開始される。レーベルを移籍して、同年10月にキングレコード(You, Be Cool!)から発売した10thシングル「大声ダイヤモンド」から徐々にCD売り上げが増え始める。2009年には、14thシングル「RIVER」で初のオリコンウィークリーチャート1位を獲得すると、その後発表する曲で次々と1位を獲得し、マスメディアから「AKB現象」「国民的アイドル」と呼ばれるようになる。2010年8月の17thシングル「ヘビーローテーション」は、シングルの連続初動売上50万枚突破やオリコン登場週数120週、オリコン週間カラオケチャート48週連続1位などの記録を残している。2011年には22ndシングル「フライングゲット」で、2012年には26thシングル「真夏のSounds good !」で日本レコード大賞を受賞している。また日本ゴールドディスク大賞でも、2011年から3年連続で「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」(邦楽部門)を受賞している。CD総売り上げは、2011年10月に23rdシングル「風は吹いている」で1000万枚突破、2013年3月に28thシングル「UZA」で2000万枚突破(発売は2012年10月)、2014年3月に35thシングル「前しか向かねえ」で3000万枚突破を記録(女性グループで初、ソロを含めた女性アーティストで5組目)、21世紀にCDデビューした日本のアーティストでは最高売上を記録している。
2005年のチームAのデビュー公演では、入場者72人のうち一般の観客は7人だった(65人が関係者)が、約2か月後の2月4日には初の満員(定員250名)を記録している。同年4月にはチームKの初公演が行われ満員となるが、3日目には半減するなど、紆余曲折を経ることとなる。2009年1月には、劇場公演のオンデマンド配信を開始している。劇場公演で最も高い応募倍率は、2012年8月27日に行われた前田敦子卒業公演の916倍となっている。劇場外では、2006年11月に日本青年館で初のコンサートを開催、2007年3月 - 4月には東京・名古屋・福岡・大阪を巡る全国ツアーを開催、2008年9月には中華人民共和国・北京で行われた文化交流行事のなかで、チームBが日本国外初のライブを行っている。
2009年6月 - 7月には、シングル選抜メンバーを決める『第1回選抜総選挙』を実施、以降毎年開催している。2012年からは、地上波でのテレビ中継が行われている。翌2010年9月には、同じくシングル選抜メンバーを決める『第1回選抜じゃんけん大会』を実施、これも以降毎年開催している。さらに2011年1月には、AKB48初のドキュンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』が公開となった。一方、同年3月の東日本大震災後に、チャリティー活動として「誰かのために」プロジェクトを開始している。
2008年夏のSKE48を皮切りにSDN48、NMB48、HKT48、JKT48、SNH48、NGT48と姉妹グループが順に結成され、AKB48グループが形成されている。
2011年6月にはチーム4が、チームB[注 2]以来4年半ぶりの新チームとして発足した。2014年4月にはチーム8が発足する。他のチームと異なりトヨタ自動車のサポートを受け、メンバーは各都道府県別のオーディションにより、それぞれの代表という形式をとっている。
大規模コンサートについては、2011年7月に西武ドームでAKB48グループで開催して以降、2012年3月にはさいたまスーパーアリーナ、同年8月には東京ドーム、2013年6月には横浜日産スタジアム、2013年7月 - 8月には全国5大ドームツアーコンサートを開催している。また2014年3月には国立霞ヶ丘陸上競技場でAKB48単独コンサートを開催、同年6月には味の素スタジアムでAKB48グループコンサートを開催、同年8月には東京ドームで初のAKB48単独コンサートも行っている。
メンバー構成は、不定期で行われるオーディションで研究生として加入し、適時正規チームへの昇格人事が行われる一方で、不定期に卒業者も出るなど大人数グループであるため流動的である。チームの体制は、2010年に初めて「組閣」と呼ばれるAKB48内で大規模なチーム再編が行われて以降、2012年の2回目はAKB48と姉妹グループとの間で数名の兼任と海外移籍を含む再編、2014年の3回目は姉妹グループ全体での兼任・移籍と乃木坂46からの兼任を含む再編(#編組略史参照)、2015年の4回目は姉妹グループの兼任解除を含む変更およびNGT48新設に伴う移籍・兼任が行われている。
AKB48は、「テレビやコンサート会場でしか会うことができない」という従来のアイドルの固定観念を根底から覆し、結成以来「会いにいけるアイドル」のコンセプトのもと、専用劇場での高頻度の公演・徹底したファンサービス(握手会・写メ会や公演終了後のハイタッチサービス等)でアイドルとファンとの距離を縮め、アイドルをより身近な存在にする取り組みを継続して行っている。なお、メンバー間およびメンバー以外とは恋愛禁止とされている(厳密には片想いはOKだが、両想いは厳禁とされる)。
専用劇場(後述)で行われるコンサートは全て「公演」と銘打っており(「ライブ」「コンサート」と呼称されることはない)、2014年現在でもグループ活動の肝となっている。公演は全てオリジナル曲で行われ、オリジナル曲の数は2013年11月22日時点で、AKB48単独で401曲、AKB48グループ全体では914曲となる。一部の楽曲を除き、総合プロデューサーの秋元康が作詞を行っている。秋元康は1回の公演につき1000曲以上のデモテープを集め、何日もかけてそれを聴きながら使用する曲を選んでいる。
グループ名のAKBは、ホームグラウンドが位置する秋葉原(あきはばら、AKIHABARA)または、秋葉原の俗称の秋葉(あきば、AKIBA)に由来するものである。当初募集告知をした際には、「秋葉原48プロジェクト」と銘打っており、NTTドコモとのメンバー募集タイアップCMなどを始め、インディーズデビュー当時の各種メディアでは「Akihabara48」とされていたこともあるが、「AKB48」とだけ表記された簡素なロゴマークに自らがアイデンティティを拘束される形となり、後にグループ名も「AKB(エーケービー)48(フォーティエイト)」に統一された。なお、AKB48は株式会社AKSの登録商標である。
48の由来は、秋元康曰く「『おニャン子』とか、何か単語が入ると、古くなるので、商品開発番号みたいな無機質なものにしたい」。その名の通り正規メンバーが48人程度(メンバーの加入・脱退などの都合により多少の変動はある)で活動していた時期が長くあった。初期の構想では1軍24人+2軍24人の計48人というものだった。戸賀崎智信は、結成当初の所属事務所であるoffice48の社長(芝幸太郎)の好きな数字が48(シバ、本人の名字である「芝」に由来する)であったため、50人程度のグループをつくるなら48人にしてくださいと言われたと述べている。
「AKB48」という名称は、姉妹ユニットなどを含める場合と含めない場合がある。AKB48にはこれまでに多くの姉妹ユニットや派生ユニットが生まれている。プロジェクトの拡大により、「AKB48」は主に以下の3つの意味で用いられることが多い。
1.秋葉原を拠点に活動するAKB48のみを指す。姉妹ユニットと併記されて用いられる場合が多い。
2.1に加えて、国内の姉妹ユニットであるSKE48(、SDN48)、NMB48、HKT48や派生ユニットを含める。
3.2に加えて、日本国外の姉妹ユニットであるJKT48・SNH48などを含める。
2および3の括りは、「AKB48グループ」、「AKBグループ」または、「48グループ」と呼ばれることもある。
大人数グループのため、CDを発売する際には選抜メンバーが招集される。この他にも企画に合わせたユニットやAKB48の活動とは独立したユニットを結成して活動することがある。
日本国内に4つ、日本国外に2つのユニットを擁するAKB48グループならではの制度として、兼任・移籍制度がある。兼任とは、所属元ユニットに在籍して活動しながら、兼任先ユニットのメンバーとしても活動することである。したがって、会社の人事異動でいう出向とは異なる形態といえる。一方で移籍とは、所属元ユニットの籍を離れ、移籍先ユニットに所属して活動することであり、会社の人事異動でいう関連会社への転籍に近い形態である。AKB48グループ内での異動となる。特殊な形態ではあるが、2014年には、AKB48グループと乃木坂46相互間の兼任も行われ、2015年に兼任が解除されている。松井玲奈と生駒里奈のふたりである。また組閣等により、兼任の解除や兼任先の変更の他、兼任先ユニットにそのまま移籍となったメンバーもいる。
メンバーには、特に初期に加入した者を中心に「AKB48は一つの通過点」という認識を持つ者が多い。そのすべてが歌手を目指しているわけではなく、女優・ファッションモデルなど志望する職業は様々である。一方で歌手や女優などへのステップではなく、元メンバーの佐藤亜美菜(4期)以降には「AKB48での活動」自体を明確に目標としている者も現れる。AKB48としては、公式ブログの前タイトルが示していたように、東京ドームでのコンサート実現を目標に置いていたが、この目標は、2012年8月24日から8月26日に開催された『AKB48 in TOKYO DOME 〜1830mの夢〜』で達成された。発足当初は、メジャーデビューを目標にしていた。目標達成により公式ブログも『 〜1830mから〜』にタイトルが変更された。
東京・秋葉原(東京都千代田区外神田)に専用劇場「AKB48劇場」(エーケービーフォーティエイトシアター)を持ち、「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしてチームごとに日替わりで、ほぼ毎日公演を行うことを特徴としている。マスメディアを通しての遠い存在であったアイドルではなく、身近に感じられる存在であり、その成長していく過程をファンに見てもらい、ともに成長していくアイドルということである。
その一方で、2009年頃からテレビ番組出演の増加などにより、「マスメディアで見かけるアイドル」にもなって知名度も上がり、さらに発表するCDの売り上げが次々と1位を記録したことにより、マスメディアから「国民的アイドル」と呼ばれる存在になっている。
特徴として非常に大勢のメンバーが在籍している。「AKB48」というグループ名から、メンバー数は48人であると誤解されることがあるが、実際は正規メンバーと研究生を合わせて100人超える大所帯で、ギネス世界記録に認定されている。
2015年現在、姉妹グループとして日本国内にSKE48・NMB48・HKT48、日本国外にJKT48・SNH48があり、姉妹グループの総称として「AKB48グループ」・「AKBグループ」・「48グループ」とも称されている。詳しくは#姉妹プロジェクトを参照のこと。
2005年12月8日、AKB48劇場で初公演を行い(初公演の一般入場者は7名)、2006年2月1日にシングル「桜の花びらたち」でインディーズデビュー。同年10月25日にシングル「会いたかった」でデフスターレコーズからメジャーデビュー。2007年にはいわゆる「アキバ枠」で「第58回NHK紅白歌合戦」に出場するものの、当時は「秋葉原のオタク向けアイドル」というイメージが強かったこともあり、世間の関心は薄かった。
2008年1月に地上波テレビ初の冠番組『AKB1じ59ふん!』の放送が開始される。レーベルを移籍して、同年10月にキングレコード(You, Be Cool!)から発売した10thシングル「大声ダイヤモンド」から徐々にCD売り上げが増え始める。2009年には、14thシングル「RIVER」で初のオリコンウィークリーチャート1位を獲得すると、その後発表する曲で次々と1位を獲得し、マスメディアから「AKB現象」「国民的アイドル」と呼ばれるようになる。2010年8月の17thシングル「ヘビーローテーション」は、シングルの連続初動売上50万枚突破やオリコン登場週数120週、オリコン週間カラオケチャート48週連続1位などの記録を残している。2011年には22ndシングル「フライングゲット」で、2012年には26thシングル「真夏のSounds good !」で日本レコード大賞を受賞している。また日本ゴールドディスク大賞でも、2011年から3年連続で「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」(邦楽部門)を受賞している。CD総売り上げは、2011年10月に23rdシングル「風は吹いている」で1000万枚突破、2013年3月に28thシングル「UZA」で2000万枚突破(発売は2012年10月)、2014年3月に35thシングル「前しか向かねえ」で3000万枚突破を記録(女性グループで初、ソロを含めた女性アーティストで5組目)、21世紀にCDデビューした日本のアーティストでは最高売上を記録している。
2005年のチームAのデビュー公演では、入場者72人のうち一般の観客は7人だった(65人が関係者)が、約2か月後の2月4日には初の満員(定員250名)を記録している。同年4月にはチームKの初公演が行われ満員となるが、3日目には半減するなど、紆余曲折を経ることとなる。2009年1月には、劇場公演のオンデマンド配信を開始している。劇場公演で最も高い応募倍率は、2012年8月27日に行われた前田敦子卒業公演の916倍となっている。劇場外では、2006年11月に日本青年館で初のコンサートを開催、2007年3月 - 4月には東京・名古屋・福岡・大阪を巡る全国ツアーを開催、2008年9月には中華人民共和国・北京で行われた文化交流行事のなかで、チームBが日本国外初のライブを行っている。
2009年6月 - 7月には、シングル選抜メンバーを決める『第1回選抜総選挙』を実施、以降毎年開催している。2012年からは、地上波でのテレビ中継が行われている。翌2010年9月には、同じくシングル選抜メンバーを決める『第1回選抜じゃんけん大会』を実施、これも以降毎年開催している。さらに2011年1月には、AKB48初のドキュンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』が公開となった。一方、同年3月の東日本大震災後に、チャリティー活動として「誰かのために」プロジェクトを開始している。
2008年夏のSKE48を皮切りにSDN48、NMB48、HKT48、JKT48、SNH48、NGT48と姉妹グループが順に結成され、AKB48グループが形成されている。
2011年6月にはチーム4が、チームB[注 2]以来4年半ぶりの新チームとして発足した。2014年4月にはチーム8が発足する。他のチームと異なりトヨタ自動車のサポートを受け、メンバーは各都道府県別のオーディションにより、それぞれの代表という形式をとっている。
大規模コンサートについては、2011年7月に西武ドームでAKB48グループで開催して以降、2012年3月にはさいたまスーパーアリーナ、同年8月には東京ドーム、2013年6月には横浜日産スタジアム、2013年7月 - 8月には全国5大ドームツアーコンサートを開催している。また2014年3月には国立霞ヶ丘陸上競技場でAKB48単独コンサートを開催、同年6月には味の素スタジアムでAKB48グループコンサートを開催、同年8月には東京ドームで初のAKB48単独コンサートも行っている。
メンバー構成は、不定期で行われるオーディションで研究生として加入し、適時正規チームへの昇格人事が行われる一方で、不定期に卒業者も出るなど大人数グループであるため流動的である。チームの体制は、2010年に初めて「組閣」と呼ばれるAKB48内で大規模なチーム再編が行われて以降、2012年の2回目はAKB48と姉妹グループとの間で数名の兼任と海外移籍を含む再編、2014年の3回目は姉妹グループ全体での兼任・移籍と乃木坂46からの兼任を含む再編(#編組略史参照)、2015年の4回目は姉妹グループの兼任解除を含む変更およびNGT48新設に伴う移籍・兼任が行われている。
AKB48は、「テレビやコンサート会場でしか会うことができない」という従来のアイドルの固定観念を根底から覆し、結成以来「会いにいけるアイドル」のコンセプトのもと、専用劇場での高頻度の公演・徹底したファンサービス(握手会・写メ会や公演終了後のハイタッチサービス等)でアイドルとファンとの距離を縮め、アイドルをより身近な存在にする取り組みを継続して行っている。なお、メンバー間およびメンバー以外とは恋愛禁止とされている(厳密には片想いはOKだが、両想いは厳禁とされる)。
専用劇場(後述)で行われるコンサートは全て「公演」と銘打っており(「ライブ」「コンサート」と呼称されることはない)、2014年現在でもグループ活動の肝となっている。公演は全てオリジナル曲で行われ、オリジナル曲の数は2013年11月22日時点で、AKB48単独で401曲、AKB48グループ全体では914曲となる。一部の楽曲を除き、総合プロデューサーの秋元康が作詞を行っている。秋元康は1回の公演につき1000曲以上のデモテープを集め、何日もかけてそれを聴きながら使用する曲を選んでいる。
グループ名のAKBは、ホームグラウンドが位置する秋葉原(あきはばら、AKIHABARA)または、秋葉原の俗称の秋葉(あきば、AKIBA)に由来するものである。当初募集告知をした際には、「秋葉原48プロジェクト」と銘打っており、NTTドコモとのメンバー募集タイアップCMなどを始め、インディーズデビュー当時の各種メディアでは「Akihabara48」とされていたこともあるが、「AKB48」とだけ表記された簡素なロゴマークに自らがアイデンティティを拘束される形となり、後にグループ名も「AKB(エーケービー)48(フォーティエイト)」に統一された。なお、AKB48は株式会社AKSの登録商標である。
48の由来は、秋元康曰く「『おニャン子』とか、何か単語が入ると、古くなるので、商品開発番号みたいな無機質なものにしたい」。その名の通り正規メンバーが48人程度(メンバーの加入・脱退などの都合により多少の変動はある)で活動していた時期が長くあった。初期の構想では1軍24人+2軍24人の計48人というものだった。戸賀崎智信は、結成当初の所属事務所であるoffice48の社長(芝幸太郎)の好きな数字が48(シバ、本人の名字である「芝」に由来する)であったため、50人程度のグループをつくるなら48人にしてくださいと言われたと述べている。
「AKB48」という名称は、姉妹ユニットなどを含める場合と含めない場合がある。AKB48にはこれまでに多くの姉妹ユニットや派生ユニットが生まれている。プロジェクトの拡大により、「AKB48」は主に以下の3つの意味で用いられることが多い。
1.秋葉原を拠点に活動するAKB48のみを指す。姉妹ユニットと併記されて用いられる場合が多い。
2.1に加えて、国内の姉妹ユニットであるSKE48(、SDN48)、NMB48、HKT48や派生ユニットを含める。
3.2に加えて、日本国外の姉妹ユニットであるJKT48・SNH48などを含める。
2および3の括りは、「AKB48グループ」、「AKBグループ」または、「48グループ」と呼ばれることもある。
大人数グループのため、CDを発売する際には選抜メンバーが招集される。この他にも企画に合わせたユニットやAKB48の活動とは独立したユニットを結成して活動することがある。
日本国内に4つ、日本国外に2つのユニットを擁するAKB48グループならではの制度として、兼任・移籍制度がある。兼任とは、所属元ユニットに在籍して活動しながら、兼任先ユニットのメンバーとしても活動することである。したがって、会社の人事異動でいう出向とは異なる形態といえる。一方で移籍とは、所属元ユニットの籍を離れ、移籍先ユニットに所属して活動することであり、会社の人事異動でいう関連会社への転籍に近い形態である。AKB48グループ内での異動となる。特殊な形態ではあるが、2014年には、AKB48グループと乃木坂46相互間の兼任も行われ、2015年に兼任が解除されている。松井玲奈と生駒里奈のふたりである。また組閣等により、兼任の解除や兼任先の変更の他、兼任先ユニットにそのまま移籍となったメンバーもいる。
メンバーには、特に初期に加入した者を中心に「AKB48は一つの通過点」という認識を持つ者が多い。そのすべてが歌手を目指しているわけではなく、女優・ファッションモデルなど志望する職業は様々である。一方で歌手や女優などへのステップではなく、元メンバーの佐藤亜美菜(4期)以降には「AKB48での活動」自体を明確に目標としている者も現れる。AKB48としては、公式ブログの前タイトルが示していたように、東京ドームでのコンサート実現を目標に置いていたが、この目標は、2012年8月24日から8月26日に開催された『AKB48 in TOKYO DOME 〜1830mの夢〜』で達成された。発足当初は、メジャーデビューを目標にしていた。目標達成により公式ブログも『 〜1830mから〜』にタイトルが変更された。