2018年09月18日
ノンフィクションの人生
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生きてる生きている
その現だけがここにある
生きる言葉はサンサーラ
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死の世界なんて知らなくていい。
死んだらなんて言わなくていい。
何よりも今を生きていることがどれだけ大事か考えてほしい。
死ぬ気でなんか頑張らなくていい。
死んでも一緒なんて言わなくていい。
今を生きて今できることを精一杯すればいい。
守りたいものがあるなら守り通せばいい。
事あるごとに死を使わないでほしい。
死の何を知っているんだ。
知っているなら聞かせてほしい。
私は死後の世界は知らないから何を言われても納得も出来なければ否定することも出来ません。
でも、生きているのに死後の世界を考える余裕があるなら、今しなければいけないことがもっとあると思う。
今、考えて。今、行動して。今しか出来ない事って沢山あると思う。
死んだらって……どんなに無責任な事かもっと知ってほしい。
確かに辛いことも多く生きていることが楽しいと、幸せだと思えない時もあると思う。
それは皆、経験して今を生きているんだとも思う。
だから逃げないでほしい。
生きることを逃げないでほしい。
生きて幸せを掴むために生きてほしい。
あなたの行動に責任を取ってくれる人は居ない。
だからあなたは自由に行動できる。
やりたい事も何だってできる。
挑戦権はいつだってあなたのポケットに入っているのだから。
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けれども、Rが書くように、「死」の本質は幻想であるに違いない。それは手の届きそうな場所にありながらも、私の向こう側に、私のあずかり知らない領域にある。ややもすると、ひとは「死」を自分に固有の出来事と考えてしまうのだが、そもそも死んでしまえば私はそこにいないのだから、「死」は私の持ち物ではない。それは実質を持たない、空虚で宗教的な記号のようなものである。現代社会は神という記号を地に引きずり下ろしたが、何のことはない、相変わらず人々の死に対する信仰心は篤く、そこに神性を認めることは容易い。
だから「死」ではなく、ただ「生」のみが現実として私に帰属する。たしかに、生きるということに絶対の保証はない。そもそも人間が生まれること自体が偶然の産物である。けれども、その不確かさのなかにこそ「生」の本質がある。
木漏れ日のように降り注ぐ偶然を、ただ享受すること。