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2017年09月26日

☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)

☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)

https://youtu.be/LbYnOrklxfE


☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)


https://youtu.be/LbYnOrklxfE




Published on Jun 16, 2017

大上段から振り降ろすようなことを書くつもりはない。それは他の人に任せたいと思う。
ここでは、人間模様を少しだけ書いてみたいと思う。

★ 真崎甚三郎
(最終階級は帝国陸軍大将。皇道派の重鎮と言うより、皇道派を創った男。)
 彼は太平洋戦争終戦後の1945年11月19日に、A級戦犯として逮捕命令を受け、巣鴨プリズンに入所させられた。
ワシントンのアメリカ公文書館に保管されている尋問調書によれば、尋問が始まると「私はアメリカに対し、尊敬と親愛の情を抱いています。(中略)私は今、日本がみずから、天皇の力をもってさえ実現できなかったことが、アメリカの力によって達成された事を実感しています。このため現在の私の感情は、喜びと後悔とが混じりあっています。」と検事に対して従順的な態度を見せ、グロテスクなおもねりを重ねた結果、被告除外という果実をもたらした。そして、軍人では一番先に保釈された。
 命が掛かっているのである。媚態とも思える協力ぶりも、ここまで徹底すれば立派である。

★ 木戸幸一
(内大臣・侯爵、天皇の側近として東条英機を首相に推薦した)
彼は自分の無罪を勝ち取るためには、天皇の無罪を主張すればよいという考えに至り、すなわち、全ての責任を軍部に被せる事を決意し、検察当局に日記を提出した。これが「木戸日記」といわれるものである。
 だが、この目論見はサケット検事の執拗な追及で破綻してしまった。天皇の平和的意思を強調する木戸に対して、サケットはアメリカ人らしい合理的思考で迫り、重要なのは「天皇の意思」ではなく、戦争回避のためにどのような行動を取ったのかだと、問い詰めた。そして、満州事変や仏印進駐について「事態が絶望的な状態になったとき、天皇は戦争を終わらせるためにきわめて積極的な態度をとったことを知っている。天皇がそう望めば、同じ権限によって、この当時も積極的に指導することが出来たのではないか?。」と天皇の行動を質した後、対米英戦の決定に関して「天皇は、もし日米の交渉が失敗したら、日本は対面を失わずに撤兵することは出来ないので、残された唯一の選択として、アメリカと戦わざるを得ないとの意見を、木戸、あなたに述べたのではないのか?。」と迫った。その結果、木戸は最後の御前会議で「天皇が政府や統帥部の意見を受けて、事態の唯一の解決法として対米開戦にみずから同意した。」ことを認めてしまった。このように検察局は天皇訴追に動いていたのだが、最終的にマッカーサーの強い意志が働いてキーナン検察局長は天皇不訴追を指示したのであった。
 彼の努力は効を発しなかったが、11人中5人が死刑賛成といったわずか1票差で死刑を免れ、終身禁固刑の判決を受けた。

★ 田中隆吉
(最終階級は帝国陸軍少将。元陸軍省兵務局長)
 彼は驚異的な記憶力の持ち主で、その記憶力を十分に発揮し、検事側の証人として、かっての上司であった東条英機などの被告に不利な証言をしたことから「日本のユダ」「裏切り者」という罵声を浴びせる者もいる。
 この男の証言と「木戸日記」が検察当局の戦犯容疑者の選定と有罪立証の最大の武器になった。

★ 広田弘貌
(元内閣総理大臣)
 彼は検事の尋問に、あたうかぎり誠実に答え、責任転嫁をしなかったが、自殺した近衛文麿元内閣総理大臣の戦争責任を押し付けられたかたちで、被告の列に加えられ、文官でただ一人絞首刑の判決を受けた。
 ここから引き出される結論。
 欧米人が相手の場合、どんなに理屈が合っていなかろうが、自己を正当化し弁明に努めた者が勝ち(生き残り)、抗弁しない者は負ける(殺される)ということである。
真崎甚三郎の不起訴、広田弘貌の極刑の分かれ道は、この事実を象徴的に示している。

★ 東條英機
(階級位階勲等功級は帝国陸軍大将従二位勲一等功二級。元内閣総理大臣・参謀総長・陸軍大臣の三職を兼務、その他、軍需大臣・商工大臣・文部大臣・外務大臣・内務大臣を兼務した)
 彼は一言で言えば、KY(風が読めない)男であった。
法廷での検察の尋問に「日本臣民が陛下のご意思に反する行為を行うことは一切無い。」と断言した。この発言には判事、検事、弁護団も椅子から転げ落ちるほどビックリした。
天皇の不訴追は決まっていた。
慌てて休廷にし、この男に発言の撤回を求めたが、説得に丸一日かかった。
再開廷後の検察の際尋問の「戦争は天皇の意思であったか?。」に「ご意思に反したかも知れないが、わが内閣および軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。」と前言を撤回した。
 これにて一件落着、チョ〜ン。本当に、茶番劇であった。

★ 大川周明
(右翼の思想的主柱、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された)
法廷開廷後の休廷中に、前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩き、退廷させられた。その後、精神異常と判断され、1947年4月9日に正式に裁判から除外された。その後の精神鑑定で異常無しと診断されたが、裁判には戻されなかった。
 東京帝国大学卒業である。頭の良い人のこの発想は、凡人には出て来ない。

★ 岸信介
(元内閣総理大臣、安部晋三の母方の祖父)
 A級戦犯被疑者として巣鴨プリズンに拘置された。
1946年3月7日に第一回尋問を行ったG・サカナリ中尉らは「彼は被告席を飾るにふさわしい男だ。」と報告していたが、何か有ったのだろう、1948年12月23日に巣鴨プリズンで満州時代からの盟友・東條英機の絞首刑による死刑が執行された翌日の24日、岸信介は保釈された。
 2007年にアメリカ国務省は、岸信介内閣に秘密資金を提供し秘密工作を行い、日本政界に対し内政干渉をしていた事を公式に認めた。「週刊文春」2007年10月4日号によれば、岸信介に渡されたCIA資金は一回に7500万円から1億800万円で、今のお金にすれば一回に10億円ぐらいだったと指摘している。
なお、この現金の受け取りは、実弟の佐藤栄作(元内閣総理大臣)が行っていた。

★ 正力松太郎
(現在最大講読者数を誇る読売新聞の元社長)
1945年12月、A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収容されたが、1947年9月に不起訴が決定され釈放されている。
 アメリカ公文書館の公開された外交機密文書には、暗号名「PODAM」というアメリカ情報局(CIA)のAGENT(スパイ)だと記されている。

★ 続く

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