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2017年08月14日

ホンダジェットの開発に"導かれた"男

http://toyokeizai.net/articles/-/69310

東洋経済 ONLINE

ホンダジェットの開発に"導かれた"男


木皮 透庸 :東洋経済 記者
2015年05月17日

4月下旬、羽田空港の格納庫で小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」が日本で初公開された。パイロットを含めて7人乗りで、1機450万ドル(約5.4億円)。欧米の企業経営者や富裕層を中心にすでに100機以上を受注している。FAA(米連邦航空局)からの最終の型式認証を取得次第、顧客向けにいよいよ納入が始まる。

国内メーカーで最後発ながら、ホンダが自動車製造に乗り出したのは1963年。それからほぼ半世紀ぶりにジェット機で新規事業への参入を果たす。日本での発表会は、事業化を前にした「ワールドツアー」の最初の”訪問地”という位置づけだ。今回のツアー開催を誰よりも待ち望んでいたのが、米国子会社・ホンダ エアクラフト カンパニー社長の藤野道格だろう。

藤野は今年で55歳になる。東京大学工学部航空学科を卒業し、ホンダに入社したのは1984年。航空学科出身だが、創業者・本田宗一郎が抱いた「空」の夢に共感してこの会社を選んだわけではない。

予期せぬ「辞令」にためらう

「自分でコンセプトを考えて、自分で造って、できれば自分で売りたい性格」と自身を分析する藤野。学生当時、「自分で製品全体を考えて、それを世界の市場で実現していくほうが向いていると思った。残念ながら、当時の日本の航空機メーカーではそうした仕事をするのは難しく、できるとしたら自動車会社ではないかと考えた」という。

複数のメーカーへ見学に行き、もっとも活気があり、若い人にも仕事をさせてもらえる雰囲気を感じたホンダを選んだ。だが入社3年目、藤野の会社人生を決定づける辞令が出る。ジェット機開発チームのメンバーに選ばれたのだ。

「最初、異動を口答で言われた時は、少しためらった。本当にどこまでやるのかという全体のイメージがわかなかった」。プロジェクトが基礎研究の域を出ず、飛行機として最終製品までもっていく意図がなければ、あまり魅力がないとも思ったからだ。1週間ほど考えた結果、いずれにしても、今後こうした開発のチャンスはないかもしれないと思い直し、「異動させてください」と上司に直接訴えに行った。


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真剣な面持ちの藤野に対し、目の前の上司は笑っていた。「すでに(異動は)決まっているから。そんなことは言いに来なくてもいいよ」――。

それから30年近く。航空機事業の立ち上げに向かって、ひたすら前を見続けてきた。2006年からはホンダ エアクラフト カンパニーの社長を務めている。「本当にいろいろなことがあった。喜びや達成感を感じるのはごく一瞬。そのほかの大半の時間は、精神的にきつい思い出ばかり」と藤野は言う。

1992年に初号機が完成したが、実験機の範囲を超えるものではなく、社内でも航空機事業のプライオリティに疑問符がつき始めた。「もうダメか」と思う時が何度もあり、「もう1回だけやってみたい」と当時の川本信彦社長に見せたコンセプトが、今のホンダジェットの土台になっている。

常識破りの”ベストポジション”

数少ない「喜び」の1つがボーイングでの試験だろう。ホンダジェットの最大の特徴は、エンジンを主翼の上に置くという従来にない構造だ。これで一般的な胴体後部のエンジン配置に欠かせない”横串”の構造が不要になった。結果、後部まで客室として利用できるようになり、騒音や振動の軽減も図れている。

主翼の上に何かを置くと揚力が落ち、空気抵抗が増すので難しいというのが、当時の航空業界の常識だった。だが、開発メンバーは研究と実験を重ね、逆に空気抵抗が下がる”ベストポジション”を突き止める。シュミレーションは問題なし。ただ、机上の計算は100%ではない。ボーイング社で行う試験結果が出るまで、不安でたまらなかった。

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試験にかかわったボーイング社のスタッフは、「何もわかっていないから、あんなことをして」といった雰囲気だった。ところが、結果が出たら「ベリー・スマート」。態度は一変した。

航空機開発に関わった時間について、藤野はこう表現する。

「頭の中でいろいろあったことを思い出すと、(開発チームに加わってから)29年間という重みと長さを感じる。だが、あまりにもたくさんの出来事があったので、あっという間に過ぎたという”肉体的な時間感覚”を持っている。不思議だが、今思うのは、人はその間に起きる事象の数や重みで、頭の中で感じる時間と、体で感じる時間とはまったく逆のものになるということ」

航空機事業への新規参入という道なき道を行く。開発は数え切れない試行錯誤の繰り返し。辞めたいと思い、会社を何回も休んだ。だが、出社せずに買い物をしていても、スポーツをしていても、いつの間にか頭の中では仕事のことを考えている自分に気付く。いつしか、「自分はこの”飛行機を作る”という仕事からは逃れられない」と思うようになった。

次の電信柱まで全力で走る

「飛行機産業に新しい価値を」という大きなゴールを設定し、目の前のマイルストーンを達成していく。「とにかく次の電信柱までは全力で走るということを繰り返し、やっとここまで来たという感じ」(藤野)。

すでに100機以上を受注しているものの、実績のないホンダが継続的に受注を獲得し、事業を軌道に乗せるのは容易でない。かつて米国では、航空機ベンチャーのエクリプス・アビエーションが当初1機100万ドルを切る格安の航空機を売り出し、数千機の受注を集めた。が、資金繰りに行き詰まり2008年に経営破綻した。

ホンダとしてはやみくもに受注を追わず、ライバルにはない商品性を売りに、着実に販売を伸ばす考え。発売1年目は50機で、3年目以降は80〜90機の生産を計画、常時、年間販売の2倍程度のバックオーダーを持ち続け、2020年の黒字化を目指す。

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フロリダ州でビジネスジェット機の仲介を手掛けるプライベートジェットカンパニーのダニエル・ジェニングスCEOは、「ホンダ製品には二輪や自動車で培った信頼性がある。車と同様のサービス体制を築ければ、市場で優位に立てるだろう」と話す。

ホンダもその点は認識しており、13年にはサービスセンターをノースカロライナ州の本社内に立ち上げ、FAAの認証も取得。北米全域で7カ所のディーラー拠点を設け、故障の際に1時間半以内に駆けつけられる体制を整えている。藤野は「今のお客さんをケアすることが、将来もっと重要なビジネスにつながる」と、長期的な視点での事業展開にこだわる。

画一的な市場に勝機あり

ビジネスジェット機の市場規模は220億ドルで、この10年で2倍以上に成長しており、米欧が市場の7割を占める。ホンダが照準を合わせる小型ジェットの市場を握るのは、米セスナとブラジルのエンブラエルの2強だ。高い安全性が求められるだけに、航空機産業は参入障壁が高く、保守的とも言われる。

米国で平均的なビジネスジェットの利用は2〜3人の乗客で1回の飛行距離は1000キロメートル程度。この画一的ともいえる市場性にこそ、ホンダは勝機があると見ている。「適材適所で使い道を絞ったジェットを市場に投入すれば、航空機産業のカルチャーを変えるきっかけになる。新しいコンセプトがあれば、市場のパイも広がる」との思いが藤野にはある。

創業者・本田宗一郎の夢の実現は間近。30年近くかけてやっと事業化のスタートラインに立った。ここから「空」でのホンダブランド育成には、時間のかかる地道な作業になるはず。藤野がホンダジェットに関わり続ける以上、これまでと同様に途方もない努力を強いられるのだろう。すべては、飛行機産業に新しい価値を創造するという”ゴール”のために。

(一部敬称略)

(撮影:尾形文繁)



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