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2018年01月16日
2018年01月10日
紀州街道 岸和田 ”吉田松陰逗留地”も情緒があっていい。
岸和田の紀州街道 少し南に歩くと
その上は大きな道路をへだてて 岸和田城ではあるが、吉田松陰とどういう関係が・・・?
■吉田松陰逗留地
■このような 風情があっていい。昔のホテル街って感じ?
どうも、吉田松陰は
相馬九方をたずね、塩屋平衛門宅(紀州街道、本町の久住家)に10日間滞在。
火鉢にあたり番茶をすすり、煎餅をかじりつつ、
日本の将来について夜を徹して語り明かしたそうだ。
長州を脱藩した松陰は、全国の藩校を渡り歩き、
今後の日本のあり方等について議論を交わしたそうだ。
結局、松陰は2回つかまって 2回目の老中暗殺計画である
間部要撃策を自ら進んで告白して
この安政の大獄は、松陰の弟子たちによるものだとは思うが、
松陰の起こした松下村塾の塾生たちは、
その後この
いまだに総理は山口県ですし・・・。
■各町に 岸和田祭りの
だんじりをしまうところなんでしょうか。
■この界隈のマップ これ便利です。
■持ち主の名前がある、結構女性が多い。
おかみさんなんでしょうか?
このころの話で興味深いのは、まっ 本当か嘘かはわからないが
伊藤博文が新政府の総理大臣になるが、この伊藤が明治天皇の
を仕組んだ話があるが、王政復古を機に新政府を作り
今後の日本を 新しい日本を作るためには、天皇までを動かす
必要があったそうで このころの各藩の勤皇の志士たちの
これは、松陰のおしえなのかな〜って考えてしまう。
要は大事をなすためには ルールを超えて動く必要があるみたいな。
結果を出すためには手段を選ばず的な発想で 一種、
発想があるみたいだ。いろいろ勉強しすぎると枠を超すことは
大したことではないと思うが、結構
とりあえず、松陰は岸和田藩校講習館の館長だったので
この岸和田界隈にも よく滞在したそうだ。
全国、飛び回って 自分の好きなことしてって
相当の放蕩ぶりですが どうでしょう・・・。
岸和田 紀州街道にある”旧岸和田貯蓄銀行””旧和泉銀行” 多いね銀行の建物
しかし、銀行が多いですね。岸和田は相当栄えていたんでしょう。
この紀州街道は どうやら大阪中央区の高麗橋から、
和歌山に抜けるメイン通りだったんでしょう。
東海道と同じような主要道路で、この界隈には”
旅館的なものの跡がたくさん立ち並んでいる。
なんだか、すごく整備されてて 通り沿いの建物もすごく
メンテナンスされてるので 相当お金が出てます。
やっぱ、一時期の
どんな街にもあって 通り沿いの家や店舗にお金が落ちて
道路もきれいにして 家々もきれいに改築・メンテナンスされている。
見ればわかる感じです。
でも、この通りはやっぱ、さわれないので 一時の道路がたくさん
整備された時期に やっぱ阪和道とかといった道路整備で
ちょっと上にメインの車道を作ったて感じです。海岸線には高速もあって
この街への
観光客が増えればといった狙いがあるんじゃないですか?
まっ それに越したことはないえすが、どうでしょう・・・。
■旧岸和田貯蓄銀行 今は中央会館 レトロ感がいい。
■旧和泉銀行 これ渡辺節さんです。
節さん儲けすぎ・・・。
■旧岸和田貯蓄銀行
大正10年に
推測される鉄筋コンクリート造1階、外壁はタイル張り、ヨーロピアン調の
3つの上心半円アーチが特徴的。
現在はかじやまち
活用されています。
■旧和泉銀行
最後に 平成16年業務を終えた。
今はC,T,L, BANKと称し 関連三社の事務所として使われている。
館内は当時のままになってるそうです。