2019年08月01日
家族の木 THE THIRD STORY純一と絵梨 <27 文箱>
文箱
僕は叔父から浅田家の旧宅の処分を頼まれていた。あまり大きくはないが東京の一等地だ。浅井健三が建てたものだが、彼には子供がなく、彼の甥、美奈子叔母さんのお父さんの山下健三氏が別宅として使っていた。
山下代議士が亡くなってから、住む人もなく屋敷の処分が遅ればせになっていたのだ。廃屋だが風格のあるいい屋敷だった。今は美奈子叔母さんの名義になっていた。美奈子叔母さんは相続税の心配をして整理にかかっていた。
敷地内には古い蔵があって、この蔵だけは建て直すこともなかったらしく100年近くそのままになっていた。
金目のものは、すべて浅井家が引き上げていたが少しだけ個人的な書き物などが残っていた。父と僕と、T・コーポレーションの社員二人で蔵の中の確認を始めた。
まるで古文書をあさる骨董屋のような気分だった。古い茶道具などもあったが余りにも古びていて実用はできないようだった。その中に鎌倉彫の文箱があった。僕は骨董の知識はないが、立派なものだという印象はあった。とにかく重い。
その中に保管されていたものは、田原から浅田隆一に宛てた手紙だった。田原莉恵子からのものが2,3通と田原梨花、僕の祖母からのものがいくらかあった。写真もあった。丁寧に和紙で包んであった。
写真は祖母と母と浅田隆一が3人で写っているものと、母の真梨によく似た女の人の写真だった。モノクロ写真だったと思われるがセピア色に褪せていた。裏には莉恵子と書かれていた。莉恵子は曾祖母の名前だ。三人で撮った写真の裏には、写真を撮ったらしい日付と祖母と母の名前が書いてあった。母の成人式の写真でこの写真は我が家のアルバムにもある。
まさか、美奈子叔母さんの実家の蔵から僕たちの親の古い写真が見つかるとは思っていなかった。僕達が違和感を感じたのは、その名前が「莉恵子、梨花、真梨」と呼び捨てだったことだ。
確かに浅田隆一は親族の中では出世頭でリーダーだったかもしれない。それでも、田原の家は別のはずだ。なぜ呼び捨てにしたのだろう?父も不思議がって、大阪へも聞いてみたがわからなかった。
そして、もっと驚いたのは、文箱の底には祖父田原真一の身上調査書があったことだ。しかも2通、浅田隆一宛ての封筒には大手の調査会社の名前が入っていた。祖父が生まれてから女性関係に至るまでの細かい調査が1通、もう1通は会社の財務内容と祖父の身上書だった。これには父も驚いていた。
浅田隆一はなぜ祖父のことをこんなに細かく調べなければならなかったのだろう?身上調査書の封筒には、田原莉恵子の手紙も入っていた。
「拝啓、先般の選挙でのご活躍拝見しておりました。本当におめでとうございます。実は、このたび我が家にもおめでたいことができました。梨花が結婚いたします。相手は、東京の田原の血縁のものでございます。長らく音信不通となっておりましたが、最近になって付き合いができました。
若い時に天涯孤独となりました苦労人です。名前は島本真一と言います。先ごろは、作家として人に知られるようになっております。いずれは、当方の事業の片腕となってくれる様な気もしております。
お恥ずかしい話ですが、すでに梨花は授かっております。もとより、反対する理由もないので結婚を認めました。住まいは東京になります。そちらさまのお近くになりますので、時々はお心配りいただけましたらうれしいです。 草々」という内容。
もう一通は「前略、先般はご丁寧に身上書を送っていただきありがとうございます。私は不調法で、そのようなことは思いもつきませんでした。若いころは多少の失敗もあるようですが、幸い借金などの問題もないようなので安心いたしました。私が調査したようにして梨花にも見せました。この様子なら、田原姓を継ぐ話をしてもいいと思っております。東京住まいになりましたら、私の目の届かないことも出てまいります。どうか、お気配りお願い申し上げます。 草々」どちらも、祖父夫婦の結婚に関することだ。
祖父の生い立ちにも驚いた。祖父は田原真介の愛人の子供だった。その愛人は、田原真介が亡くなったのちに、結婚してその夫と自死している。おおよそのことは聞いていたが、改めて詳しいことを知ってみると感慨深いものがあった。
続く
僕は叔父から浅田家の旧宅の処分を頼まれていた。あまり大きくはないが東京の一等地だ。浅井健三が建てたものだが、彼には子供がなく、彼の甥、美奈子叔母さんのお父さんの山下健三氏が別宅として使っていた。
山下代議士が亡くなってから、住む人もなく屋敷の処分が遅ればせになっていたのだ。廃屋だが風格のあるいい屋敷だった。今は美奈子叔母さんの名義になっていた。美奈子叔母さんは相続税の心配をして整理にかかっていた。
敷地内には古い蔵があって、この蔵だけは建て直すこともなかったらしく100年近くそのままになっていた。
金目のものは、すべて浅井家が引き上げていたが少しだけ個人的な書き物などが残っていた。父と僕と、T・コーポレーションの社員二人で蔵の中の確認を始めた。
まるで古文書をあさる骨董屋のような気分だった。古い茶道具などもあったが余りにも古びていて実用はできないようだった。その中に鎌倉彫の文箱があった。僕は骨董の知識はないが、立派なものだという印象はあった。とにかく重い。
その中に保管されていたものは、田原から浅田隆一に宛てた手紙だった。田原莉恵子からのものが2,3通と田原梨花、僕の祖母からのものがいくらかあった。写真もあった。丁寧に和紙で包んであった。
写真は祖母と母と浅田隆一が3人で写っているものと、母の真梨によく似た女の人の写真だった。モノクロ写真だったと思われるがセピア色に褪せていた。裏には莉恵子と書かれていた。莉恵子は曾祖母の名前だ。三人で撮った写真の裏には、写真を撮ったらしい日付と祖母と母の名前が書いてあった。母の成人式の写真でこの写真は我が家のアルバムにもある。
まさか、美奈子叔母さんの実家の蔵から僕たちの親の古い写真が見つかるとは思っていなかった。僕達が違和感を感じたのは、その名前が「莉恵子、梨花、真梨」と呼び捨てだったことだ。
確かに浅田隆一は親族の中では出世頭でリーダーだったかもしれない。それでも、田原の家は別のはずだ。なぜ呼び捨てにしたのだろう?父も不思議がって、大阪へも聞いてみたがわからなかった。
そして、もっと驚いたのは、文箱の底には祖父田原真一の身上調査書があったことだ。しかも2通、浅田隆一宛ての封筒には大手の調査会社の名前が入っていた。祖父が生まれてから女性関係に至るまでの細かい調査が1通、もう1通は会社の財務内容と祖父の身上書だった。これには父も驚いていた。
浅田隆一はなぜ祖父のことをこんなに細かく調べなければならなかったのだろう?身上調査書の封筒には、田原莉恵子の手紙も入っていた。
「拝啓、先般の選挙でのご活躍拝見しておりました。本当におめでとうございます。実は、このたび我が家にもおめでたいことができました。梨花が結婚いたします。相手は、東京の田原の血縁のものでございます。長らく音信不通となっておりましたが、最近になって付き合いができました。
若い時に天涯孤独となりました苦労人です。名前は島本真一と言います。先ごろは、作家として人に知られるようになっております。いずれは、当方の事業の片腕となってくれる様な気もしております。
お恥ずかしい話ですが、すでに梨花は授かっております。もとより、反対する理由もないので結婚を認めました。住まいは東京になります。そちらさまのお近くになりますので、時々はお心配りいただけましたらうれしいです。 草々」という内容。
もう一通は「前略、先般はご丁寧に身上書を送っていただきありがとうございます。私は不調法で、そのようなことは思いもつきませんでした。若いころは多少の失敗もあるようですが、幸い借金などの問題もないようなので安心いたしました。私が調査したようにして梨花にも見せました。この様子なら、田原姓を継ぐ話をしてもいいと思っております。東京住まいになりましたら、私の目の届かないことも出てまいります。どうか、お気配りお願い申し上げます。 草々」どちらも、祖父夫婦の結婚に関することだ。
祖父の生い立ちにも驚いた。祖父は田原真介の愛人の子供だった。その愛人は、田原真介が亡くなったのちに、結婚してその夫と自死している。おおよそのことは聞いていたが、改めて詳しいことを知ってみると感慨深いものがあった。
続く
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