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2018年11月15日

今に伝わる北條政子の化粧箱

貴族社会から武家社会へ
12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。


貴族社会から武家社会へ
12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。


一般庶民にも伝えられた化粧
このころ、一般庶民の女性たちにも徐々に化粧が伝わっていったとされていますが、どのような化粧をしていたかは、はっきりとした記述が残っていません。
しかし、室町時代の働く一般庶民を描いたとされる絵巻物、職人歌合にその一端を垣間見ることができます。紅を売る女性の姿もあり、時代を経るごとに一般庶民の間にも確実に化粧が伝えられていったことがわかります。


鎌倉時代から南北朝、室町、安土桃山時代と武士による権力争いが続き、社会も人々の生活も不安定でした。
しかしそんな時代にあっても白粉や紅、眉化粧といった化粧は途絶えることなく行われていました。そしてそれは、一般庶民の間で化粧文化が爆発的に花開く江戸時代まで、脈々と受け継がれていたのです。


参考文献
『絵画に見る 日本の美女』/中村渓男著 保育社
『日本の美術12 No.67小袖』/神谷栄子編 至文堂
『日本女性の歴史5 鎌倉時代の女傑』/暁教育図書
posted by クルミ at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 化粧品

2018年11月14日

化粧は年齢や身分をあらわす“約束事” おしゃれの楽しみは「香り」で

平安時代、9世紀末に遣唐使が廃止されたことから、それまで唐の影響を強く受けていた日本文化に、変化のきざしが現れます。紀貫之が『古今和歌集』を編纂し、また、『土佐日記』を記したりするなど、特権階級である貴族の宮廷生活において、日本独自の文化が育まれていくのです。ファッションや髪型、メークといったよそおいも例外ではなく、華やかな唐風のものから、優美な日本独自のものへと変化していきます。


宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼間も薄暗く、夜は月明かりとロウソクといった現代と比べるとほとんど真っ暗といってもいいほどの環境で生活をしていました。さらに、外出するときには常に顔を覆い隠すなど、他人に顔を見せないことが好ましいとされていたのです。このような環境と美意識が宮廷での特徴的なよそおいの文化を形作っていきました。


何枚もの美しい衣を重ねた十二単に長く伸ばした黒髪、これが宮廷女性にとってこの上ない「美」の象徴でした。こうしたボリュームのあるよそおいに映えるのが顔を白く塗って強調するメークです。顔には白粉、眉は生来の眉を抜いて額の上部に描き、唇はより小さく見えるように描きます。平安時代を代表する文学作品『源氏物語』を絵巻にした『源氏物語絵巻』には、このような優美な女性像が描かれています。


しかし、平安時代の宮廷のよそおいは、特定の環境や美意識だけから作られたのではありません。例えば『源氏物語』の主人公、光源氏の娘となる若紫は、10歳で成人の証として眉化粧やお歯黒をしています。当時は年齢や身分、階級による約束事として、よそおいや化粧法が決められており、現代のように自分らしさや個性を表現するおしゃれのあり方とは全く意識が異なるものだったのです。


現代とは異なり、ファッションや髪型、メークで個性を表現することができなかった当時の女性たちにとって、唯一自由に楽しめたおしゃれが「香り」です。自分のお気に入りの香を焚き染めた衣や、香りのついた和歌(手紙)のやり取りを通してアピールすることが、もしかしたら彼女たちの大切な自己表現だったのかもしれません。

参考文献
『眉の文化史 -眉化粧研究報告書-』/津田紀代・村田孝子編著 ポーラ文化研究所
『装束の日本史』平凡社新書/近藤好和著 平凡社
『平安朝のファッション文化』/鳥居本幸代著 春秋社



posted by クルミ at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 化粧品

2018年11月13日

化粧の起源 〜悪いものから身を守る、呪術としての化粧〜

日本人の化粧のはじまりはいつだったのでしょう。
現在確認されているのは、3世紀後半頃の古墳時代。
身分の高い豪族のお墓の副葬品である「埴輪(はにわ)」に、赤い顔料で顔や身体に化粧を施したものが残されているのです。

赤い色は悪いものから身を守るという呪術的な意味があると推測され、それは血の色や太陽に通じているからだと考えられています。現代の私たちの“おしゃれ感覚”のメークとは、全く異なるものでした。


それでは現代のような“おしゃれ”を意識したメークは、いつごろから始まったのでしょうか。
最も古く確認できるのは飛鳥時代、6世紀後半のこと。仏教が伝来し、聖徳太子が誕生した頃になります。大陸では隋が中国を統一し、日本からは遣隋使(けんずいし)が派遣されていました。
そんな中、大陸から紅や白粉(おしろい)、香といった化粧品が輸入され、日本におけるメークが始まったとみられています。


当時の白粉は鉛を酢で蒸して作られていたといいます。
この時期、日本でも初めて鉛を使った白粉(鉛白粉)が作られ、女帝である持統天皇が献上された鉛白粉を大変喜んだと『日本書紀』に記されています。


宮廷女性のメークは、唐の国がお手本
その当時、宮廷の女官は顔に白粉を塗り、紅を使ったポイントメークをしていたと見られます。正倉院に伝わる奈良時代中期、日本で描かれた「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」の女性像を見ると、宮廷女性のメークの片鱗を感じることができます。この屏風には、唐風の女性が樹の下に立っている姿が描かれています。

女性は顔に白粉を塗り、太く眉を描き、紅を使ってふっくらとした唇を描いています。額中央には“花鈿”(かでん)、口元には“よう鈿”(ようでん)と呼ばれる、カラフルな色で花や星を描く化粧が施されているのが特徴的です。同じ絵柄が中国の敦煌(とんこう)の壁画にもあることからも唐のメーク法が日本にも伝わっていたことがわかります。

当時の宮廷の生活様式は、唐の様式を取り入れており、女性が追い求めた「美」も海外の文化を手本にしたものであったといえます。大陸の影響からスタートした日本の化粧文化。日本独自の化粧が花開いたのは、平安時代に入ってからのことでした。


参考文献
『日本の化粧』/ポーラ文化研究所編
『化粧物語』/高橋雅夫著 雄山閣
『化粧史文献資料年表』/ポーラ文化研究所編
posted by クルミ at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 化粧品
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