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2020年05月03日
パイナップルブルゲイツ
出会いはここから?
↓↓↓↓
米国のFEMAと日常的に連絡を取り、FEMAと連携し、
「自衛隊内部に日本国内での軍事クーデター部隊を
作り出している組織」がある。
陸上自衛隊幕僚監部調査部調査第2課
調査別室、通称「調別」である。
日米が連携し、災害あるいは人為的なテロに際して、政府に代わって軍隊が
「政権を奪取」する、クーデター部隊が動き出している。
これがロスチャイルド世界帝国への、「王手」である。
また日本では米国、自衛隊の合同による日本人市民殺害部隊
「パイナップル・ブリゲイズ」が既に創立されている。
1985年の日航機事故の直後は多くの人が
「生きていた可能性がある、自衛隊が作業中に、
多くの生存者の呻き声はなぜ消えたのか?
この2枚の写真を見て改めて気付いたのだが、男の子は動いているのではないだろうか?
左の写真が先に撮られたと思われるが、男の子の頭の位置が自衛隊員の胸に寄っている。
それが、右の写真では胸から離れている。
これは明らかに撮った角度によるものではない。
少なくても死んでいれば頭は支えられずグラグラであろうし、死後硬直しているのであれば動かないだろう。
男の子は自らの意思で頭を動かすか、あるいは支えている。
包帯による治療ということは、男の子の生存を証明しているが、その他に動くあるいは支えるということで、この男の子は生存をさらに証明している。
生存者と怪我の具合
川上慶子さん(12)
右上腕神経マヒ
右親指伸筋腱断裂
右第5肋骨骨折と血胸
手足に切り傷
脱水状態
意識鮮明だがショック状態
落合由美さん(26)
骨盤骨折
左上腕と前腕骨折
全身にスリ傷
血圧120
意識正常
吉崎博子さん(34)
右第9・10・11肋骨骨折
鼻骨骨折
意識明瞭
血圧110
吉崎美紀子さん(8)
左大腿部骨折
右大腿部骨折
左第8肋骨骨折
血圧90〜70と不安定
ショック状態
アゴ挫傷
生存者の一人・落合由美さんの証言
離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。
そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ−ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。
音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。
お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りました。
「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。ひっぱると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。
ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。
ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。
あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。
しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。
やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。
私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ−ッと見えるだけでした。
その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。
匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。
三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。
このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。
あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。
きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。
そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうには、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。
そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、ということはありませんでした。
もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。
このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなかったのかもしれません。でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。
いつ点灯したのか気付きませんでしたが、「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。
こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。
ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。
私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。
そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。
ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。その指示がどこからきたのか、わかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合は、それはありませんでした。ライフ・ベストをつけるように、という指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、スチュワーデスが着用して、このようにつけるんです、と教えながら、座席をまわることになっています。今度も、そうしていました。
前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。
私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。
しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。
私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えて、Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。
私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。
しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。
救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。
こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、「ふくらませないで!」と叫びました。
機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、固まるようになりました。
私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されました。
「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。
スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。
そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。
子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。
全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。それと、「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。
揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。
私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。こういうときは、「・・・してください」とは言いません。
お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。
安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。
そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。
頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。
怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。
まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつつ”けるしかけるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどります、というアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でも、なかった。
衝撃がありました。
衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。
すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。
体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。
目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。
呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。
シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。
冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。
どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。
まだ何人もの息遣いです。
それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。さかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。
吐いたりもしませんでした。
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。
涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。
気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。
あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。
風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。
はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。
そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。
体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。
目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。
家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。
たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。
全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。
天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。
救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。
◆生存者の証言 −川上慶子さんの証言−
川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に
寄るため羽田に戻り、キャンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳。
〜高崎国立病院での証言〜
大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?
あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。
飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?
左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。
慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?
暗かった。
真っ暗だった?
うん。
その時何も見えなかった?
見えなかった。
お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?
うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。
その時に何か思った?
うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。
明るくなった時何か見たものある?
木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。
左手が届いたところにいたわけね?
うん。
ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?
出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。
助けられてから、一番うれしかったことは?
知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。
ほかに何かみんなに言いたいことは?
いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。
上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。
−付き添い関係者への証言1−
・事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配
り始めたころ。
・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が
開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。
・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。
・最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。
・母和子さん(39)は即死状態だった。
上記の証言は、肉親や関係者に対しての証言。8月18日までに解ったものである。
−付き添い関係者への証言2−
気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。
みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。
父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。
咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。
突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。
ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。
顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。
8月23日までに解ったもの。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、付き添い関係者にさらに詳細に証言している。よくネットや書籍上で引用されているので、一番有名な証言ではないだろうか。
−群馬県警・関係者への証言−
最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、との証言。
上記の証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。