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2019年03月12日

永源遙を思い出した(^-^;

eigenntuba.jpg









永源遙


永源氏はラッシャー木村に誘われ、66年に20歳で大相撲立浪部屋から東京プロレスに入門。同年10月に木村戦でデビューした。その後、日本、新日本、ジャパン、全日本、ノアと主要6団体を渡り歩いた。全日本では89年から井上、渕、大熊らと「悪役商会」を結成。90年代に全日本でジャイアント馬場らの「ファミリー軍団」と抗争を展開し、人気者になった。


 水平チョップを受けた拍子につばが飛んだことをきっかけに生まれた「つば攻撃」が代名詞。客席へのつば飛ばしもあり、リングサイドの観客が新聞紙を広げてガードする光景が定番だった。コミカルなファイトでファンの支持を得た。06年に60歳で現役引退するまでシングル王座獲得は1度もなく、トップ戦線に絡まない前座レスラーだったが、昭和を代表する名脇役の1人だった。


 ノアに00年の旗揚げから参加。引退後は取締役などの要職を歴任。現役時代から政界にまで培った幅広い人脈を生かし、団体の運営にも貢献してきた。近年は試合会場の入り口付近に立ち、ファンと気さくに接する姿があった。ノアは今日29日に会見を行う。


 ◆永源遥(えいげん・はるか)1946年(昭21)1月11日、石川県生まれ。大相撲立浪部屋に入門もラッシャー木村に誘われ、66年に東京プロレス入門。新日本、全日本、ノアなど主要6団体で戦った。百田光雄とは永遠のライバルで100戦以上もシングルで激突。06年3月にノアで現役引退。178センチ、110キロ。



引用

↓↓↓↓

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

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永源 遙
プロフィール
リングネーム永源 遙

永源 勝

グレート・トーゴー
本名永源 遙
身長178cm
体重110kg
誕生日1946年1月11日
死亡日2016年11月28日(70歳没)
出身地石川県鹿島郡鹿西町
所属プロレスリング・ノア
スポーツ歴大相撲
トレーナー豊登

坂口征二
デビュー1966年10月12日
引退2006年3月26日
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永源 遙(えいげん はるか、1946年1月11日 - 2016年11月28日)は、日本の元プロレスラー大相撲力士立浪部屋所属)。石川県鹿島郡鹿西町(現在の中能登町)出身。プロレスラー時代は多くの団体を渡り歩き、その後はプロレスリング・ノア所属。


百田光雄とのシングルマッチは「宿命の対決」とも言われ、100回を超える回数を戦っている。現役後年はツバ飛ばしで名を馳せ、対戦相手も永源を観客に向け、喉元を殴打させることで発せられる永源のツバを浴びる観客(それを除ける傘、新聞紙を持参する観客)が多くなった。



来歴[編集]


大相撲の立浪部屋に入門し、永源四股名で1961年7月場所に15歳で初土俵を踏んだ。1963年9月場所には序二段で優勝したが、その後伸び悩み1965年5月場所限りで廃業した。最高位は幕下71枚目。大相撲廃業後、木村政雄(後のラッシャー木村)に誘われ、1966年5月に東京プロレスに入団してプロレスラーに転身し、1966年10月に永源 勝のリングネームで木村政雄戦でデビュー[1]。翌年の1967年に東京プロレスが崩壊した後は日本プロレスに移籍した。


日本プロレス崩壊直前の1973年アメリカで武者修業を行ったが、修行先で崩壊を迎える。同年帰国後に新日本プロレスに移籍した。前座・中堅の要として活躍、1980年には、ストロング小林とのコンビで、国際プロレスからIWA世界タッグ選手権を奪取。また、大会場で組まれていたドン荒川とのシングルマッチは後の百田とのシングルマッチのプロローグで、このシングルマッチはファンだけでなく社長だったアントニオ猪木自身も楽しみな試合だったと語っている。


1984年ジャパンプロレス結成の際に同団体へ移籍。ジャパンプロレス消滅後の1987年には全日本プロレスへ移籍した(ジャイアント馬場は、永源のプロモーター・関係者への顔の広さや営業能力を高く買い、自ら手元に置く決断をしたという)。全日本プロレスでは、渕正信大熊元司らと「悪役商会」というチームを組み、馬場、木村らの「ファミリー軍団」と前座試合(通称「ファミ悪決戦」)を行っていた。なおこの前座試合は、数多くのお約束ムーブが織り込まれており、全日本における名物試合の一つとなっていた。永源はロープサイドの攻防の最中にリングからツバを観客席に向かって吐くことがお約束のムーブとなっており、観客もそれを見越して新聞などをあらかじめ持参してガードしていた。


1990年天龍源一郎らを引き抜いて旗揚げしたSWSのメインスポンサーだったメガネスーパーから、タニマチとの関係や営業能力を買われて億単位の支度金を用意されて参加を要請されたがこれを断っている。永源は現役に拘っており、SWSに移籍したらさっさと引退させられてフロント専任になるであろうことが容易に想像できたからである。


1996年7月には地元・石川県の石川県産業展示館大会にてデビュー30周年記念試合が行われ、永源&馬場&スタン・ハンセンという一夜限りの異色タッグを結成した。


2000年、全日本大量離脱→プロレスリング・ノア旗揚げと共に同団体へと移籍した。この際に、当時の全日本所属選手や取締役、さらには支援者のほとんどがノアに追随した背景には永源の力が大きかったといわれる(当時、猪木もインタビューで永源がノア側に就いたことを知り、ノアの成功を予想するようなコメントを出していた)。ノアでは取締役営業部長の役職で、主にマッチメイクを担当する重要なポストを担いつつリングにも上がり、百田との第一試合シングルマッチはNOAHの名物となっていた。実況アナが「後世に残したい日本の伝統芸能」と発するのもお決まりとなっているほどで、二人のシングルマッチは100戦を超えたが、大幅に永源が負け越している。全日本時代からお馴染みだった客席へのツバはこの時もお約束だった。


2005年1月、神戸ワールド記念ホール大会第一試合にて丸藤正道の持つグローバル・ハードコア・クラウンに挑戦したが惜しくも敗れた。これが永源にとっての最後のタイトルマッチとなった。


2006年1月、還暦記念試合が行われ、その後のセレモニーで赤い帽子とちゃんちゃんこに身を包んだ永源は自らの口から3月末に現役を引退することを発表した。2006年3月26日、永源の出身地である旧鹿西町のスポーツセンターろくせい大会で現役引退試合を実施、試合は永源が井上雅央からの首固めで負けを喫した。同年4月28日、引退記念パーティが帝国ホテルにて行われ各界の著名人ら800人が出席して催された。プロレス関係者以外にも梅宮辰夫渡哲也西城秀樹せんだみつお栃東魁皇千代大海をはじめとした各界の有名人が参加し、西城はミニライブまで披露した。


現役引退後も永源はプロレスリング・ノアの常務取締役として営業面を統括する要職にあったが、2009年6月に三沢光晴が試合中の事故で亡くなったことに伴い、同年7月に開かれたノアの臨時株主総会で常務取締役を辞任して相談役に退いた。2010年からはGHC管理委員に就任するなどしていたが過去に暴力団関係者との交際が発覚したため、仲田龍ゼネラルマネージャーとともに2012年3月9日の取締役会をもって辞職し、一般社員への降格となったことが3月23日に発表された[2]


2016年11月28日、自宅で倒れ死去した。70歳没[3][4]。戒名は「永勝院遙久慈闘居士」[5][6]。この訃報を受け、永源のプロレス界の先輩に当たるグレート小鹿が自身の公式ブログで永源への哀悼の意を述べた[7]。また猪木も「また1人、先に旅立っていくことに、寂しさを禁じ得ません。お疲れさまでした。安らかにお眠り下さい」とマスコミに対してFAXで追悼のコメントを寄せた[8]


エピソード[編集]


さまざまな団体を渡り歩いて培った人脈と情報網はプロレス界一で、地方のプロモーターとの付き合いもプロレス界随一とも言われるほど深く巡業中、各会場に必ず永源に会いに来る人がいる。猪木も「あいつは世渡りがうまい」と舌を巻くほどである。永源の結婚式仲人を務めたのは同郷の政治家の森喜朗であり、猪木の政界入りの際には、森や福田赳夫などを猪木に紹介している。


そのほかにも、人脈の広さを物語るエピソードには事欠かない。正月にはお世話になった方々に挨拶をするため、年賀状だけではなく電話で挨拶をし、中元・歳暮は300件ほど送っているが「身近な人を大切にするのは当たり前」とインタビューで述べている。また、仲田ゼネラルマネージャーによるとノア旗揚げに際して会社の備品やパソコン、合宿所で必要な日用品など、買ったものは一つも無いという。全て顔が広い永源が知り合いの会社やスポンサーからタダで貰ってきたものであり、それも全て新品であったという。


選手としてはコミカルなスタイルを貫いた永源だったが、永源は新日本などで実績を積んだ経験があり、「猪木的」なシュート技術もきちんと習得しているといわれる(アントニオ猪木の異種格闘技戦のセコンドにはいつもいた)。


1986年に全日本プロレスとジャパンプロレスが『週刊プロレス』に対して行った取材拒否では『週プロ』に対して馬場と同様に強硬な態度で臨んだ。


得意技[編集]



その他、リック・フレアーよろしくコーナーに昇りダイビング攻撃をしようとするが必ずデッドリードライブで投げられるというお約束がある。


獲得タイトル[編集]



入場曲[編集]



以上は悪役商会の入場曲でもあった。


大相撲での成績[編集]



  • 通算成績:96勝94敗13休(30場所)

  • 各段優勝:序二段1回(1963年9月場所)

















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