2014年09月19日
東北を熱くした闘将星野監督 辞任の意志固く
楽天の星野仙一監督が18日のロッテ戦前に記者会見を開き、今季限りの辞任を発表した。記者会見で口にした言葉からは、勝負の世界を生き抜いてきた“闘将”の自負が垣間見えた。
日本一に輝いた昨季から一転、今季は苦戦を強いられた。昨季24勝無敗だったエースの田中将大が米大リーグへ行き、5番を担ったマギーも帰国。投打の柱を欠き、6月中旬以降は最下位が指定席となっていた。それでも球団の評価は高く、三木谷浩史オーナーも「昨日(17日)までは絶対にやってもらおうと思っていた」と明かしたように強く慰留されたが、翻意には至らなかった。
星野監督はこの日の会見でも「勝負事は一年一年が勝負。選手もそうだ」と強調。胸椎(きょうつい)黄色靱帯(じんたい)骨化症を患って手術しシーズン中に約2カ月間休養したことにも触れ、「休んだことも含めて数字(成績)というものが私自身、許せない」と、決断に至った理由を語った。
シーズン中に辞任を発表したことには、「来年をスムーズにいかせるには、この時期でないと遅いのではないかと思った」と、後任選びなどへの配慮ものぞかせた。選手に対してはこの日午後のミーティングで発表。その様子を「いつまでもうるさいじいさんでいるぞ。ユニホーム脱いでもうるさい男でいるから覚悟しておけと話しました」と笑顔で語った。
◇
中日を2度、阪神も1度と、伝統チームをセ・リーグ優勝に導いた星野監督が、球界再編騒動を経て2005年に誕生した楽天の監督に就任したのは10年10月。日本代表監督を務めた08年の北京五輪から2年が過ぎ、「そろそろ野球やりてえなあ」と思った頃だったという。
当時の楽天はブラウン監督が率い、10年シーズンは最下位。それでも「三木谷オーナーから『やらないか』という声をもらった時は本当にうれしかった。周りには『何でお前、そんなチームに行くんだ』と言われたが、それが監督としてのロマン」。闘将の血が騒ぎ、就任記者会見では「東北を熱くする。それが私の仕事だろうと思う」とぶち上げた。
だが、初めてのシーズン開幕を控えた11年3月、東日本大震災が東北を襲った。「1年目から勝っていかなければいけないのかな、という焦りがあった」と当時を振り返る。それでも現役時代から変わらぬ闘志で選手を引っ張り、若手を育て上げて、3年目の昨年に悲願の日本一に輝いて被災地に歓喜をもたらした。その瞬間を回想し、「遅すぎた感もあるが、(震災から)3年目にファンと一緒に胴上げさせていただいたことが一番の思い出」と目尻を下げた。
就任から4季を過ごし、感じていることがある。「ミスした選手にも昔は大きな拍手があったが、それでは強くならない。東北の人たちのスポーツを見る目、野球を見る目が少しずつ厳しく、ぜいたくになってきたということは、我々をもっと向上させるのかな」と星野監督。球団が誕生して10年。仙台にプロ野球の文化が根付きつつあることが、たまらなくうれしいようだ。
◇楽天・三木谷浩史オーナーの話
本当に素晴らしい監督で、この後も引き続きやっていただきたいと全力で慰留をさせていただいたが、大変残念なことに本人の意志が固かった。何度も慰留をしてきたので、次の体制はあまり考えてこなかった。監督にも相談させていただきながら、早期に検討を開始しなければいけない。
◇楽天・立花陽三球団社長の話
星野監督は昨年、契約する前から(今年も)やるかどうかという(迷う)思いはあったと思う。5月に体調を崩した時も「戻らない方がいいんじゃないか」とおっしゃっていた。調子が悪い中お願いして、申し訳ない気持ちもある。
◇米大リーグ、ヤンキース・田中将大の話
辞任されると聞いたときはびっくりすると同時に寂しい気持ちになりました。星野監督には3年間ご指導いただき、たくさんの貴重なアドバイスをもらいました。とても感謝しています。また、メジャーでプレーしたいと希望した際も、僕の気持ちを最大限理解し、快く送り出していただきました。これからも、監督に良いニュースが届けられるよう、頑張っていきたいと思います。星野監督、本当にお疲れ様でした。
日本一に輝いた昨季から一転、今季は苦戦を強いられた。昨季24勝無敗だったエースの田中将大が米大リーグへ行き、5番を担ったマギーも帰国。投打の柱を欠き、6月中旬以降は最下位が指定席となっていた。それでも球団の評価は高く、三木谷浩史オーナーも「昨日(17日)までは絶対にやってもらおうと思っていた」と明かしたように強く慰留されたが、翻意には至らなかった。
星野監督はこの日の会見でも「勝負事は一年一年が勝負。選手もそうだ」と強調。胸椎(きょうつい)黄色靱帯(じんたい)骨化症を患って手術しシーズン中に約2カ月間休養したことにも触れ、「休んだことも含めて数字(成績)というものが私自身、許せない」と、決断に至った理由を語った。
シーズン中に辞任を発表したことには、「来年をスムーズにいかせるには、この時期でないと遅いのではないかと思った」と、後任選びなどへの配慮ものぞかせた。選手に対してはこの日午後のミーティングで発表。その様子を「いつまでもうるさいじいさんでいるぞ。ユニホーム脱いでもうるさい男でいるから覚悟しておけと話しました」と笑顔で語った。
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中日を2度、阪神も1度と、伝統チームをセ・リーグ優勝に導いた星野監督が、球界再編騒動を経て2005年に誕生した楽天の監督に就任したのは10年10月。日本代表監督を務めた08年の北京五輪から2年が過ぎ、「そろそろ野球やりてえなあ」と思った頃だったという。
当時の楽天はブラウン監督が率い、10年シーズンは最下位。それでも「三木谷オーナーから『やらないか』という声をもらった時は本当にうれしかった。周りには『何でお前、そんなチームに行くんだ』と言われたが、それが監督としてのロマン」。闘将の血が騒ぎ、就任記者会見では「東北を熱くする。それが私の仕事だろうと思う」とぶち上げた。
だが、初めてのシーズン開幕を控えた11年3月、東日本大震災が東北を襲った。「1年目から勝っていかなければいけないのかな、という焦りがあった」と当時を振り返る。それでも現役時代から変わらぬ闘志で選手を引っ張り、若手を育て上げて、3年目の昨年に悲願の日本一に輝いて被災地に歓喜をもたらした。その瞬間を回想し、「遅すぎた感もあるが、(震災から)3年目にファンと一緒に胴上げさせていただいたことが一番の思い出」と目尻を下げた。
就任から4季を過ごし、感じていることがある。「ミスした選手にも昔は大きな拍手があったが、それでは強くならない。東北の人たちのスポーツを見る目、野球を見る目が少しずつ厳しく、ぜいたくになってきたということは、我々をもっと向上させるのかな」と星野監督。球団が誕生して10年。仙台にプロ野球の文化が根付きつつあることが、たまらなくうれしいようだ。
◇楽天・三木谷浩史オーナーの話
本当に素晴らしい監督で、この後も引き続きやっていただきたいと全力で慰留をさせていただいたが、大変残念なことに本人の意志が固かった。何度も慰留をしてきたので、次の体制はあまり考えてこなかった。監督にも相談させていただきながら、早期に検討を開始しなければいけない。
◇楽天・立花陽三球団社長の話
星野監督は昨年、契約する前から(今年も)やるかどうかという(迷う)思いはあったと思う。5月に体調を崩した時も「戻らない方がいいんじゃないか」とおっしゃっていた。調子が悪い中お願いして、申し訳ない気持ちもある。
◇米大リーグ、ヤンキース・田中将大の話
辞任されると聞いたときはびっくりすると同時に寂しい気持ちになりました。星野監督には3年間ご指導いただき、たくさんの貴重なアドバイスをもらいました。とても感謝しています。また、メジャーでプレーしたいと希望した際も、僕の気持ちを最大限理解し、快く送り出していただきました。これからも、監督に良いニュースが届けられるよう、頑張っていきたいと思います。星野監督、本当にお疲れ様でした。
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