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そういう些細な日常の積み重ねで私の生活は成り立っていて、小さな城の主として隅々まで目を配り、労ることが私の喜びなんだと知った。
このブログでは、いわゆるJ-POP草創期のミュージシャンを取り上げています。作詞家である安井かずみについても、としてアップしました。今日はその夫であった、加藤和彦のお話です。
トノバンこと加藤和彦の名は、ある年齢以上の人なら、だれでも知っているでしょう。しかし彼が三回結婚していたことは、あまり知られていないようです。『帰ってきたヨッパライ』で一世を風靡したあと加藤は、サディスティック・ミカ・バンドを結成していますが、このボーカルが、最初の妻、福井ミカです。彼女は加藤と離婚したのち、自伝的な本を著していて、ふたりの出会いから別れまでを詳細に語っています。ここその要約をまとめてみました。ミカという、個性的な人柄の一端に触れていただけると思います。
そのミカと別れ、安井かずみと再婚し、彼女が亡くなったあと加藤は、中丸三千繪を三人目の妻として迎えています。このオペラ歌手については、一般になじみがないせいか、世間の関心はさらに低いようです。自分も同様でしたが、一方で、その人となりに興味もありました。数少ない資料からですが、彼女の実像を拾いあつめてみました。
また自分は、加藤の屈指の名曲である、『あの素晴らしい愛をもう一度』や『悲しくてやりきれない』が大好きです。イントロだけで胸に迫るものがあるほど、愛着を感じています。これらの傑作を生むまでの、彼の誕生から始まる軌跡も綴ってみました。
そして加藤和彦を語るなら、衝撃的な最後も避けては通れません。亡くなる前後の状況は、一番の親友であった、北山修の自叙伝にくわしく明かされています。その日、加藤のただならぬ動きを察した北山ら関係者の、懸命にその行方を追うシーンには緊迫感が漂います。勝手ながら同書から、引用させていただきました。
大仰に『加藤和彦ヒストリー』と銘打ちながら、その人生すべてを語っているわけではありません。上に挙げた、個人的に関心があるテーマに絞っています。それでも、加藤が亡くなってからはや十年となる今年、その生涯を偲ぶ一助になることを願っています。
参考および引用資料
『ミカのチャンス・ミーティング』福井ミカ著
『ラブ&キッス英国』福井ミカ著
『加藤和彦ラスト・メッセージ』松木直也編
『文藝別冊 追悼加藤和彦』
『安井かずみがいた時代』島崎今日子著
『コブのない駱駝』北山修著
『マリア・カラスコンクール』中丸三千繪著
『人生の黄金律 なかにし礼と華やぐ人々』なかにし礼対談集
『週刊文春』 2009年10月
『週刊新潮}1995年6月 1999年11月 2009年11月
加藤和彦
加藤和彦は、1947年(昭和22年)3月21日、京都の伏見で生まれ、ひとりっ子として育った。父親は、京都の老舗会社福田金属箔粉工業に勤めていた。怒ったことは一度もないほど穏やかな人だったという。会社の事業規模が大きくなる過程で、有能と従順な性格のせいか、あちこちに転勤させられた。加藤のやさしい性格は、父親からの遺伝のようである。
母親も京都人で、モダンな人だった。のちにその息子と結婚した福井ミカは、「義母は尊敬できる、魅力的な女性だった」という。そして「翔んだお母さん」とも形容した。後述するように、ミカ自身が相当先進的な女性だった。そのミカから見ても、ユニークな義母だったらしい。加藤の豊かな才能は、この母からの遺伝のようである。
母方の祖父は京都の仏師で、東山の三十三間堂の仏像など、国宝級の仏像の修復を手掛けていた。加藤は祖父の仕事が好きだった。
加藤は生後すぐ神奈川県に移り、幼稚園までを逗子で過ごした。53年、鎌倉の小学校に入学、5年生のとき京都にもどったが、また1年たつと東京日本橋に移った。59年、中央区立明石中学(現銀座中学校)に入学する。加藤は授業が終わると銀座のプラモデル屋か本屋に寄る。でなければすぐ家に帰った。誰かと遊ぶということはなかった。幼いころからの度重なる転校のせいか、友だちができなかった。
まだ音楽への興味はほとんどなかった。ジャズファンの両親が、ニニ・ロッソの影響からかトランペットを買い与えてくれたが、近所迷惑となり止めさせられた。代わりに求めたクラシック・ギターも、結局一度も弾かなかった。音楽よりもファッションに興味をもち、男性ファッション誌の『メンズクラブ』を読み始める。料理が得意な母の影響で、自分でも台所に立つようになった。
62年、日暮里にある都立竹台高校に入学。海外ミステリーを読みふけるようになる。音楽に魅かれだしたのは、2年のころだった。アメリカのフォークソングやビートルズのレコードをあつめ、音作りの秘密を解き明かそうとした。書棚には外国から取り寄せたフォークソング雑誌を並べ、読み解いていった。高校生で英語の雑誌を読むこと自体、当時としても珍しかった。だが音楽の実践は、それほど熱中しなかった。同じ趣味の仲間もいなかった。
フォーク・クルセダーズ結成
将来は漠然とではあるが、祖父のような仏師になりたかった。そのため実家のある京都に戻り、仏教系の龍谷大学に入る。アメリカン・フォークの十二弦ギターとバンジョーを買い、入学前には弾けるようになった。これでバンドを組もうと思い立ち、『メンズクラブ』読者欄で仲間を募ることにした。ファッション誌なら、センスのいい奴が来るだろうと踏んだ。
65年9月、アメリカン・フォークのメンバー募集投稿が載った。すぐ反応があり、加藤の深草伊達町の家に、北山修が自転車でやってきた。同じ歳の京都府立医科大学生で、高校からカントリー・フォークをやっていた。ふたりはすぐ意気投合、北山の友だちを加え、5人のグループができあがる。フォーク・クルセダーズ(フォークル)と名付けられ、フォークルは京都のアマチュア音楽団体AFLに入り、活動の場を広げていった。コンサートではアメリカン・フォークを中心に、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌をやったり、北山のユニークなMCと相まって、人気を博すようになる。
福井ミカ
AFLには、ミカ&トンコという女性フォーク・デュオがいた。そのひとりが福井光子という。のちのサディスティック・ミカ・バンドのボーカル、ミカである。
ミカは49年4月17日、京都府の園部で生まれた。妹が一人いる。父の生家は山を幾つも持つ、材木を商う裕福な家だった。父も家業を手伝っていたが、ミカが2才のとき独立する。このため一家は京都市東山区に移り住んだ。活発な性格のミカは、男の子とばかり遊んでいた。ビー玉、メンコ、時代劇遊びなど、ワンパク坊主たちを従えてのガキ大将となる。母方の祖母は、清水寺の二年坂(二寧坂)の角に立つ、お茶屋を営んでいた。『阿古屋茶屋』という有名な店である。ミカは母に叱られると家出をし、祖母のもとに逃げ込んだ。ミカは祖母が好きだった。
高校はプロテスタント系の平安女学院に入る。勉強に厳しい学校だが、通学服の自由度が高いなど、個性を尊重する校風をミカは気に入った。沿線には同志社などがあり、他校の裕福な家庭の生徒たちと、派手なファッションを競いあった。6時限目になるとお化粧に忙しくなり、窓の外ではボーイフレンドたちがクラクションを鳴らした。ミカがつきあったのも、同志社大学ラグビー部のキャプテンだった。3年のときには免許を取ってクルマで通学した。友だちに代返してもらい、どこかへ遊びにいくのも常だった。
ミカと加藤の出会い
ミカは中学のころから、ポップスやジャズにのめり込んでいる。高校2年のときには、「くだけた仲間」を誘ってフォーク・ソングの同好会をつくり、会長におさまった。学校のすぐ横の京都御所で、よく練習した。そしてミカ&トンコというデュオをつくり、AFLに加盟する。このころすでにフォークルは、京都では有名な存在だった。遠慮を知らないミカはコンサートの本番前、加藤を楽屋に訪ねる。そして準備に忙しい初対面の加藤に、ギターを教えてほしいと頼みこんだ。
個人レッスンが始まった。しかしミカのギターはあまりにも稚拙だった。「あなたは何年やっても弾けない」と、加藤は引導を渡す。だがこのとき加藤は、ミカに恋をしてしまっていた。頻繁にミカの家を訪れるようになる。レコードや音楽雑誌を届けたり、外国アーティストの来日コンサートチケットを買い、誕生日には手製の大きなシュークリームをプレゼントした。
料理が得意な加藤は、ミカの家でも食事もつくるようになる。しかしミカにはボーイフレンドがいた。不在のときも多かった。それでも加藤は、二日に一度のペースでせっせと通った。半年ほどたったある日、妹がミカに言った。「お姉さんは加藤さんがなぜウチに来るか知ってる?」。ミカは加藤の好意に気がついていなかった。ようやく交際が始まったが、加藤は内気でおとなしい。とてもやさしく、ミカが何を言っても、どんなわがままを言っても、ノーとは絶対言わなかった。
ミカは高校を出ると、京都精華短大に進学した。美術科でデザインを専攻したが、学園紛争の時代である。キャンパスはバリケード封鎖されてしまう。もともと勉強には興味はない。家が裕福なミカは、毎晩祇園で遊んでは飲酒運転で朝帰りなど、女子大生とは思えぬ、放蕩三昧の日々をおくることになる。
フォーク・クルセダーズ プロデビュー
加藤が大学の3年になると、北山は医学部の学業が忙しくなり、フォークルは解散することになる。記念にと、レコードの自費出版することになった。北山が父親から借金し、つくったアルバムが『ハレンチ』。いままでライブでやってきた曲をスタジオで録り直し、オリジナルとして入れたのが『帰ってきたヨッパライ』。300枚を売り切ろうと目論んだが、100枚しかさばけなかった。
そこでラジオ局を回り、『帰ってきたヨッパライ』を流してもらうよう、お願い行脚をした。すると数局が放送してくれ、リクエストが増えだした。そして思いもかけず東芝やビクターなど、レコード会社からオファーが舞い込んできた。
この反響に北山は、もうすこしバンドをやろうと言いだす。加藤は嫌がった。しかし北山の連日の説得を、やむなく受け入れる。以降加藤は、「おまえが音楽の道に引きずり込んだ」が北山への口癖になる。大学を出たら、コックになるつもりだった。他のメンバーは抜けたため、AFLで知り合った端田宜彦を誘い、1年間限定の三人での、第二次フォークルがスタートした。
レコード会社は東芝とし、67年12月に『帰ってきたヨッパライ』がリリースされた。するとあっという間にヒットチャートを駆けのぼり、オリコンチャート史上初のミリオンセラーとなる。しかし二枚目のシングル『イムジン河』は、著作権のクレームが出て、発売当日に中止となってしまう。加藤は代わりの曲を3時間でつくれと、所属の音楽事務所から厳命される。ギターを渡され、会長室に軟禁された。
とはいえすぐにはできない。部屋のウィスキーなどを物色していたが、のこり時間わずかとなる。やむなく譜面に向かった。 『イムジン河』のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみたところ、モチーフが出てきて、10分ほどで作曲した。
そのまま詩人のサトウハチローの家に、タクシーで連れて行かされる。そして初対面のサトウに、詞作のお願いをした。一週間ほどして、『悲しくてやりきれない』というタイトルがついた歌が届いた。曲作りについて何も話さなかったのに、曲と語句がぴたりと合っていた。加藤が自分で歌っても、涙腺がゆるんでしまうような出来だった。サトウは、昭和の大詩人である。ほんのすこし前にプロになったばかりの若者の曲に、その詞が載せられることは、普通ならありえない。それも創作時間10分のメロディである。どたばたの末に生み出された、加藤自身も感激した傑作となった。
ミカと結婚
68年10月、約束通りフォークルは解散する。翌年から加藤はソロ活動のため、東京に居を移した。そしてアメリカへ飛び、サンフランシスコから、ロス、ニューヨーク、ナッシュビルなど3か月の旅をした。ヒッピー文化にも触れたが、音楽的にアメリカは、それほどしっくりこなかった。ロンドンに惹かれるようになり、渡英を何回も繰りかえすようになる。現地ではフラットも借り、コンサートや美術館を観たり、公園に行ったり料理を作ったり、イギリス生活を謳歌した。
加藤は東京に行ってからも、すこしでも時間が空くと京都に帰り、ミカとの交際を続けていた。そしてプロポーズをする。しかしミカは、女の幸福は結婚ではないと考えていた。その一方で親の束縛から逃げだしたかった。それには結婚しかないとも思っていた。でも簡単にOKするのはつまらない。ミカは加藤に、料理も洗濯も何もしない。そして親戚がうるさいから、外国で式を挙げたいと条件を出す。すると北山がすべての手筈を整えてくれた。
音楽仲間である、杉田二郎や谷村新司など総勢二十人ほどが、カナダとの音楽交流のツアーを組み、それに便乗する形で新婚旅行をすることになった。70年7月 、バンクーバーの教会でふたりは結婚した。式での加藤は感激のあまり、誓いの言葉をうまく言えなかった。ミカはケロッとしていた。その後一行はアメリカに入り、メキシコやハワイをまわって帰国した。四十日もの長い旅だったが、ミカにとって最高の新婚旅行となった。
ミカが語る。「トノバンは常に新しい分野に挑戦している人だった。単なる新しいものが好きではなく、何でも物事を突き詰めてゆく姿勢が私は好きだった。私のワガママを何でも聞いてくれたし、結婚の約束通り、家事のすべてをやってくれた。私は皿洗いひとつしなかった」。加藤はミカに誕生日プレゼントとして、ロールス・ロイスを買った。しかし加藤は免許をもっていない。運転はもっぱらミカとなった。
あの素晴らしい愛をもう一度
71年4月、『あの素晴しい愛をもう一度』が、作詞北山修・作曲加藤和彦で発売される。この歌は当初、女性デュオのシモンズに提供するためつくられた。しかし出来上がってみると、あまりにもいい歌だ。惜しくなり、自分たちのものにしてしまう。シモンズには別の歌を渡した。ただすでにフォークルは解散している。そこで加藤とミカが結婚したので、その記念につくったとの理由をでっちあげ、自分たちで歌った。
しかし歌詞は、結婚にふさわしいものではない。かつて恋人と同じ花を見て、あるいは同じ夕焼けを見て美しいと語りあった。なのにふたりの間にあった愛は、もう消えてしまった。あの素晴らしい愛をもう一度と願っても、もう叶わない、という内容である。このどこが結婚を祝う歌になるのか。加藤と北山は、確信犯として言い訳した。
そして結果としてこの歌は、加藤のゆく末を暗示したといえる。加藤はミカと破局に至り、さらに安井かずみを亡くし、中丸三千繪との結婚にも破れてしまう。それぞれの恋愛期には、素晴らしい愛があったというには、あまりにも悲しすぎる。
サディスティック・ミカ・バンド
加藤はフォークをやめ、ロックに転向する。71年11月、ミカをボーカルにしたサディスティック・ミカ・バンドを結成。小野洋子のプラスティック・オノ・パンドをもじった。サディスティックは、料理ができないミカからきている。魚を切るのも面倒で、よく包丁を突き刺していた。のちに彼女が料理の道に入るとは、本人ですら想像できなかった。
73年、アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』で、レコード・デビューした。しかしあまりにも先進過ぎ、理解されなかった。共演コンサートで大音量の演奏を始めると、観客たちは驚いた。髪の毛が原色の、派手な衣装のバンドは観たことがない。ファンはフォークルの加藤を求めていた。コンサートでのバンド名は「加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド」と表記された。自分の名が冠されるのを加藤は嫌がった。しかしそれではチケットが売れないと却下される。キャロルと一緒にツアーをやったが、途中からミカ・バンドが前座になってしまう。ミカの歌はヘタだから外せと騒動になったり、波乱万丈のグループだった。
加藤は二枚目のアルバムを、ブリティッシュ・ロック基調にしたかった。そのためメンバーをロンドンの空気に触れさせようと、イギリスに誘った。コンサートやレコーディング・スタジオで音楽に触れ、スーパーで買い出しをして自炊したり、ロンドンを肌で学ぶ合宿をした。こうした生活を一か月楽しみ、得たものも多かった。ミカはすっかり気に入り、いつかイギリスで暮らす生活を夢見るようになる。
ミカとクリスの出会い
ロンドンのコンサート会場で、トイレを探していたミカは、近くの人に場所を訊く。高名な音楽プロデューサーのクリス・トーマスだった。のちに男女の仲となる、ふたりの最初の出会いだった。またこれがきっかけでクリスは、ミカバンドの二作目をプロデュースすることになる。
クリスは来日すると、麻布でフラットを借りた。ミカはクリスが気になりだしていた。自分の家の掃除もしないのに、クリスの身の回りの世話をするようになる。部屋には女性の化粧品などが転がっていた。入れ代わり立ち代わり、グルーピーの女の子が泊まりに来ていたのだ。「意地でもこの娘たちからクリスを奪ってやる」と、ミカの生来の闘争心に火がついた。自分が結婚していることを忘れてしまった。クリスに妻子がいることも考えなかった。
74年11月、セカンドアルバム『黒船』を発表。評判を呼んだが、セールスは7万枚だった。売れているニュー・ミュージックやフォークに比べると、話にならない数だった。ロキシー・ミュージックの前座としてイギリスでツアー公演したが、このときミカとクリスの仲が深まってしまう。加藤とは当然うまくいかなくなった。
75年には離婚の話がもちあがる。しかし次のアルバム制作がすでに決まっていた。またクリスのプロデュースである。契約は守らないといけない。離婚は先延ばしになった。レコーディングの雰囲気は、理想には程遠い状態となる。スタジオでは、加藤もクリスもジェントルマンを装っていたが、ミカとクリスの関係が徐々にあからさまになっていった。離婚の予定は公言していなかったが、周囲も気がつくようになる。加藤はいらいらして、メンバーにきつくあたることもあった。この時期、加藤の盟友であった吉田拓郎は、憔悴してゆく彼を毎日のように慰めている。
ミカと加藤の離婚
主役の仲が悪化した状態でつくられた『ホット・メニュー』。このジャケット写真は、その関係を示唆している。ミカがそっぽを向き、加藤が顔をしかめている。75年11月、離婚が成立した。ミカの一方的なわがままだったのに、「君が幸せになるのなら」と、加藤は届にサインしてくれた。最後までやさしかった。5年半の結婚生活だった。ミカバンドも解散する。別れてもミカは、ビジネスライクにバンドを続けたかった。しかしさすがの加藤も断った。ミカも自著で、自分は悪妻だった、加藤に甘えてばかりの結婚生活だったと、反省を記している。
翌月の12月加藤は、安井かずみのエッセイ集、『TOKYO人形』出版記念パーティーに出席。かねてから安井は加藤に好意を寄せていた。離婚を知った安井は「しめた」と思い、「明日、電話してください」と囁いた。年が明けた初めにはふたりは住まいを共にし、加藤は安井と再婚した。
ミカとクリス イギリスの日々
ミカは加藤と別れたあと、文字通り身一つで渡英する。クリスも離婚したばかりで、慰謝料や養育費などで一文無し状態だった。前妻がすべての家財道具を持ち去っていた。クリスの家にはなにもなかった。日本では優雅にロールスロイスを乗り回していたミカだったが、加藤に頼り切っていた炊事洗濯掃除を、自分でやることになった。おまけにミカは英語ができない。話せるようになったのは、二年ほど後だった。
それでもミカは楽しかった。加藤に甘えて暮らしていた生活から、なにもかも自分でやる日々が新鮮だった。おカネにルーズなクリスに代わって、ミカが収入を管理した。田舎に6000坪の広大な農地を買い、野菜作りを始めた。クリスの母にイギリスの風習や流儀を教わり、田園生活を満喫するようになる。日本の祖母にも似た義母は、厳しくもやさしい人で、いつしかミカを実の娘のようにかわいがるようになった。
ミカは、クリスの音楽仲間、エルトン・ジョンやポール・マッカートニーらとも、家族ぐるみで親しく交流するようになる。80年、ポールのウィングス日本公演では、ガイドを頼まれた。ところがポールは成田で、大麻不法所持のため逮捕されてしまう。「日本はドラッグ禁止よ」と事前に注意していたのだが、妻のリンダがスーツケースの一番上に、大麻をいつものように無造作に置いていた。
日本には、ポールの子供たちも同行していた。ポールの勾留期間中、退屈しないよう京都を案内するなど、ミカは様々な配慮をした。拘置所から洗濯物を持って帰ると、ポールのTシャツには「〇〇組の」など、収容者たちの寄せ書きが書かれていた。「イエスタデイ」をリクエストされ、一緒に合唱したという。
ミカとクリスの別れ
81年ころから、ミカとクリスの仲に亀裂が入るようになる。クリスの浮気や、暴力、気難しい性格についていけなくなった。ミカは修復を試みようともしたがうまくゆかず、83年に別居となり、翌年、8年半に及んだふたりの関係にピリオドを打った。法的な結婚はしていなかった。
ミカは人生を劇的に変える癖があると、そう自己分析する。今度は何をやりたいと考え、料理が残った。昔から食べものに興味があった。日本にいたときは何もできなかったが、イギリスでの義母の教えにより、ミカは料理好きに変わっていた。シェフになりたいと思った。イギリスに残って料理学校に通うことにした。
85年、イギリスで一番難しいとされる、フランス料理の学校に入学する。三カ月のコースだが、ここを卒業すれば、ミッシェランの三ツ星レストランに勤めることことができる。授業のあまりの厳しさに、三日目でやめようと思ったが、耐え抜き卒業した。そして校長の推薦状を手に、一流のフランスレストランなど数軒を、シェフ修行として一年間渡り歩いた。そして、料理研究家としての歩みを始めた。福井ミカ、38歳のときである。
ミカの帰国
ミカは87年、日本に帰った。そして加藤と思いもかけぬ形で再会している。彼女の二冊目の自著『ラブ&キッス英国」から、そのシーンを引用させていただく。
「飯倉のキャンティへ」とドライバーに告げると、私はシートに深く身をゆだねた。窓を行き過ぎる風景は12年前とは、ずいぶん変わってしまった。それでもこれから古巣のレストランで、なつかしい友人に会うのだと思うと、心が浮き立つ。イギリスから帰国した私は、その日、ムッシュこと、かまやつひろしさんと食事の約束をしていた。この店にくるのも久しぶりだわ、と思いながらドアをあけ、かまやつさんの姿を探す。私のほうが先に着いたようだ。
ウェイターに案内されテーブルにつく。すると、すぐとなりの席にいらしたのは、なんと加藤和彦さんと安井かずみさんご夫妻だった。加藤さんとは、私のわがままで一方的に離婚をし、そのまま私はイギリスに行ってしまったから、いつかお会いする機会があったら、あのときのことをお詫びしなければ、と思っていた。ところが、12年ぶりの再会は、唐突に、しかも安井さんといっしよ、という意外なかたちでやってきた。
いささかうろたえた私だったが、さすがは大人の安井さん。「ミカ、久しぶりね。よかったらこちらにどうぞ」と誘われ、なんだかわからないうちに同じテーブルについたのだった。加藤さんは、このなりゆきに少しばかり緊張しているようだったが、それでも「ミカは新しい仕事を始めたんだってね。シェフだなんて信じられないな」などと話しかけてくれた。私は加藤さんを昔のまま、トノバンと呼び、安井さんは和彦さんと呼び合う中で共通の趣味であるテニスのことなどを話題にした。また、京都の両親の死を伝えたのであった。
遅れてきたかまやつさんは私たち3人が同じテーブルについているのを見ると、心臓が爆発するかと思うほど驚き、「なんてこった」とそのままUターンして帰ろうとしたそうだ。ところが、別の友だちに「やあ、ムッシュ!」と声をかけられ、逃げる(?)きっかけを失ってしまった。このシチュエーションを作った原因は、ミカをこの店に誘った自分にあるんじやないかと、ひどく混乱してしまった、とはあとから聞いた話である。
中丸三千繪
ミカと加藤・安井夫妻の偶然の出会いから、4年後の91年のこと。加藤と安井は、イタリアで取材旅行をしていた。その移動の空港には、オペラ歌手の中丸三千繪もいた。中丸と旧知のスタッフが、夫婦を引き合わせる。加藤と中丸のはじめての出会いだった。しかし中丸は、加藤が何をしている人なのか知らなかった。
それからまた3年後の、94年の3月、安井が亡くなる。同年6月、加藤は中丸がゲスト出演したコンサートにでかけた。彼女をとくに意識していたわけではなく、演出内容に興味があったという。その帰り、加藤がキャンティに立ち寄ると、中丸らスタッフも偶然来ていた。加藤は中丸のテーブルに食後酒を手配して帰る。中丸はお礼にと、7月の自身のリサイタルの招待状を送った。
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中丸はミラノに在住している。リサイタルのあとイタリアに帰国した中丸のもとに、加藤から礼状が送られてきた。ステージに深い感銘を受けたと、それもフランス語で書かれていた。さらに日を置いてフランス語の歌詞による楽譜が届けられた。愛の歌であった。さすがに中丸も意識するようになり、交際が始まった。一気に仲は深くなり、8月のハワイにおける安井の散骨のあと、加藤は海外で仕事が主体の中丸のもとに去った。10月、公演でスコットランドにいる中丸に、加藤はプロポーズした。安井を喪った心の空白を、一刻も早く埋めたかったのであろうか。
加藤は中丸と、安井の一周忌前である翌年95年2月に入籍した。しかし2000年には離婚となってしまった。実質的な結婚生活は、2年で破綻していたという。
中丸三千繪という人
話が後先になるが、ここで中丸三千繪という人に触れておきたい。
中丸三千繪は、茨城県下館市(現在の筑西市)で、1960年に生まれた。桐朋学園大学声楽科を卒業し、同大学研究科を修了する。86年、小澤征爾指揮の『エレクトラ』でデビューし、小澤の勧めでミラノに修行に旅立った。そしてイタリアでの努力の甲斐あり、90年、ベネチアでのマリア・カラス・コンクールで優勝し、ミラノのスカラ座にも出演することになった。この経緯については、彼女の自伝的自著『スカラ座への道 マリア・カラス・コンクール』に詳述されている。
オペラを知らない者にはよくわからないが、本のタイトルにするほど、この優勝と出演は大変な実績となるようだ。ただ97年12月の週刊新潮によると、マリア・カラス・コンクールとは、アテネでおこなわれる催しという。中丸が優勝したのはイタリアで開催されたもので、同じ名が冠された別物であった。中丸は世界でもっとも権威ある声楽コンクールとするが、ベネチアのは国際音楽コンクール世界連盟に入っていない。おまけに計4回開催されただけで、中丸が優勝した回を最後に開かれていないという。
また、ミラノ・スカラ座でのデビューも単なる端役であり、出番も少なかった。決してプリマドンナといえるようなものではなかったらしい。中丸の師だった声楽家・東敦子は、かつての弟子に苦言を呈している。「クラシックの世界では、自分から宣伝しなくても、評価は自然に出てくるものですから、自分からあまり、ここでやった、あそこでやったと言わないで、純粋に芸術的な言葉の世界に専念していただきたいと思います」
99年11月の週刊新潮によると、中丸には無名のころから、とある出版社の男性がマネジメント的な役割を担ってきた。中丸を戦略的にマスコミに売り出し、成功したのも彼のおかげという。しかし音楽業界のしきたりを知らず、トラブルになることも多かった。
いずれにしろ加藤は、自立した強い女性が好きだった。以上見てきたように、彼女たちの強烈な個性は、ある意味共通しているように思える。だが結果として、福井ミカと中丸三千繪には去られてしまった。安井かずみとの生活も、晩期は無理をしていたとされる。『あの素晴らしい愛をもう一度』や、『悲しくてやりきれない』が現実になってしまったとは、皮肉としか言い様がない。
最後の女
中丸と別れた2000年、加藤の六本木の家は、東京都港区に差し押さえられた。区税を滞納していたためである。ハワイのコンドミニアムなども売却し、債務を返却することになる。加藤の楽曲の著作権収入には安井の遺産も含まれ、相当あったはずだ。だが中丸との結婚生活の破綻で自暴自棄になり、若いころからの浪費癖がさらに高じ、より散財を繰り返すようになっていたのだろうか。これ以降も改まることはなかったのか、亡くなる二年前にも、二千万円もの真っ赤なフェラーリを買っていたとの証言もある。自裁の数日前には、渡邊美佐に経済的援助を求めている。
話を戻す。六本木の家を出た加藤は、わずか三百メートルしか離れていない、高級賃貸マンションに移り住む。彼の葬儀の際、遺影を抱いていた女性がここで見かけられるようになったのは、03年のころ。06年には同居するようになった。
加藤と親交のあった、藤間紫の長男で俳優の藤間文彦によると、彼女はニューヨークのアパレルブランドに籍があり、東京・丸の内にあるショップ店長として働いていた。こまやかな気遣いのできる女性で、うつ病に苦しむ加藤を支えた。加藤の母も、彼女を妻として認めていたという。加藤享年62歳のとき、この人は34歳だった。
09年10月2日、加藤は、東京国際フォーラムでの松任谷由実ライブにゲストとして登場。これが公の場での最後の姿となった。亡くなる二週間前のことであった。
きたやまおさむ 著『コブのない駱駝』より
最後に、きたやまおさむ(北山修)の著書より、加藤の亡くなったときの状況を、引用させていただきます。
フォークークルセダーズをともに結成し、音楽を通したプレイをともにしてきた加藤和彦。いろいろな点で、私と価値観を共有してきたと思っていた加藤でしたが、2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルで遺体となって発見されました。死因は自死。六二歳でした。友人でもあり精神科医でもある私には、無念としか言いようがありません。
加藤は「ロックンローラーが60歳を超えても生きているのは、格好悪い」と口にしていました。その言葉通り、彼は消えていきました。それはあまりにも美しすぎるのではないか。世間で言われている醜いこと、格好悪いことを、むしろ格好いいものに変えていこうという価値観の変革は、彼の思いの中にもあったはずです。コタツでミカンでも食べながら、昔のことを思い出し、ともに老後をタラタラと過ごせたら、と思っていたのですが、もうその願いはかないません。あのとき、同じ花を見て美しいと言った二人の心と心がいまはもう通わない。結局それが私と加藤和彦の物語だったのでしょう。
加藤和彦にはその不調をずいぶん前に相談されていました。私は彼を知人の精神科医に紹介し、その方に主治医をお願いしていました。加藤の訴えは、創作ができない、ということでしたが、うつ状態でした。また、亡くなる少し前から、特に限られた人間が加藤の精神的な異変に気がついていました。そのことは、友人などの耳にも入っており、また心配もしていました。
そんなこともあり、私は2009年10月15目の夜、加藤と会って話をする約束をしていました。加藤は、その前々日には京都に行って、アマチュア時代のフォーク・クルセダーズのメンバーだった平沼義男に会い、食事をしながら歓談したといいます。
ところが、約束の日、加藤から私のところにメールが届きました。彼は会う場所を六本木のイタリア料理店に指定してきたのです。私は、加藤のことが心配だったので、まずは真面目に話をしようと考えていました。したがって、イタリア料理店でワインを飲みながら、というのはふさわしくない気がしました。そのことを加藤に伝えると、すぐに彼は私と食事をすること自体をキャンセルしてきました。「母の具合が悪いから京都に行く」というのがキャンセルの理由でした。後になってから考えると、彼としては、私と楽しく食事をして、それを格好よく、別れの挨拶にしたかったのかもしれません。
翌16日、突然加藤が消息を絶ちます。その日、都心に住む友人のもとに、加藤から郵便が届きました。それは「遺書」のような内容でした。友人は驚き、とっさに加藤の携帯電話に電話をかけてみました。すると、加藤が電話に出たといいます。「あれ、もう届いちゃったの?」と彼は話し、やがて電話は切れました。
加藤からは、その後、私を含めた親しい知人十数人に宛てて同様に「遺書」が届きました。おそらく、彼は自らが亡くなった後に、その手紙が届くよう計算して投函したのだと思います。でも、それが投函場所の近くに住むこの友人のところには、思いのほか早く届いてしまったようなのです。
その友人は大慌てで私や加藤のマネージャーなどに連絡をし、16日夜、私たちは加藤の住んでいた六本木のマンションに集まりました。彼がどこに行ってしまったのか、見当がつかない。そういえば、私に前日、「京都に行く」と伝えていたことを思い出しました。もしかしたら、京都のどこかのホテルに泊まっているのではないか。そう考えて、皆で手分けして、京都中のホテルに連絡を取りました。ところが、個人情報の問題もあり、まったく消息はつかめませんでした。
そうこうしているうちに、携帯電話などの発信者情報などで、彼の位置がつかめるのではないか、と誰かが考えました。同時に、彼の居場所がわかる手がかりになるものはないか、とマンションの一室のドアを開けてみました。そこは、彼が録音スタジオとして改造して使っていた部屋です。ところが、開けてみると、そこはまったくの、もぬけの殼でした。本来なら、CDやレコード、録音機材などが所狭しと置かれているはずでした。
加藤は、誰にもわからずにそれらの物を整理し、完全に片づけていたのでした。私は、すっきり片づいた部屋を見たとたん、あの何度も垣間見てきた真空の空虚が、再びそこにあるように感じました。ここに吸い込まれたら、もう彼は戻ってこない、という思いが頭に広かっていきました。他方で、見つかった場合の手配を考えながら。
あまりにも用意周到で、よくいわれる「侍の死」にも通じる、潔い死に様を見せつけられたようで、衝撃を覚えました。侍たちは潔く「無雑な空白」を遺そうとしますが、加藤の心もすでに無心で一途で「真っ白」になってしまったのではないか。
しかし、そんな空白のスタジオの壁に、一つだけ残されたものがありました。それは額装された1枚の写真でした。1967年10月1日、京都府立勤労会館で開催されたアマチュア時代のフォークークルセダーズの解散コンサートで、私と加藤、平沼義男の三人が演奏している姿をとらえた写真でした。前だけを見つめて何もかも捨ててきたはずの加藤がこれだけを残すことで、最後に、私たちに残しかメッセージは、まさに「これだけ」だったのでしょう。そこは消すに消せない、二度と戻れない、終わりであり、出発したところでもあった、まさに青春の分かれ道。
実は、私の部屋にも、同じ日の同じ舞台を写した写真が飾られていました。加藤の写真は本ステージの際のもの、私の写真はアンコールで登場して演奏している際のもの。本ステージが終わり、帰ろうとして衣装を着替えたところにアンコールがかかり、舞台に出ていったために、着ている衣装が違うのです。当然ながら、加藤の写真では加藤がメインで大きく、私の写真は私がメインで大きく写っていました。
私にとってもそうですが、加藤にとっても、このときの瞬間が幸せな思い出として残っていたのでしょう。それは、私たちが売れるとか、売れないとかを気にせずに、とにかく自分たちの楽しい遊びに興じていた瞬間だったからだと思います。そこには無意味な、かけがえのない充実だけがあった。しかしその遊びが終わってしまった、
翌一七日の土曜日の朝、軽井沢のホテルで加藤が亡くなっているところが発見されました。同時に私たちのところにも、加藤からの「遺書」が送られてきました。それらには「もう音楽の時代ではなくなってしまった」とありました。何を言っているんだ、音楽のために人生があったのではなく、人生のための音楽を俺たちはやってきたのではないか。むきになってそう反論したい気持ちでいっぱいでした。
加藤和彦の遺書
数種あり、北山修宛とは異なるとされる
了
ブログ後記
以上が『加藤和彦ヒストリー』となります。お読みいただきありがとうございました。
ただもう少しだけ話を続けさせてもらいます。きわめてささいな、人様からすればどうでもいいことなのですが、拙稿を書くにあたり、資料を調べていたなかで浮かんできた、ぼんやりとした思いです。あらかじめお断りしておきます。
加藤が自裁したときのことです。かつて彼と親交のあった、作詞家・作家であるなかにし礼は、テレビのワイドショーでコメンテーターをしていました。事を報じるその番組で、なかにしは次のように語っています。
(安井)かずみさんが加藤さんを、加藤和彦のことを、人生を変えましたね。安井かずみさんが亡くなって(葬儀の)教会で加藤は、これからはZUZUの霊とイエス様と(自分の)三人で生きていくと誓った。われわれもそこで涙した。それなのに、われわれの涙も彼の舌の根も乾かぬうちに、中丸三千繪とポンと結婚するんです。これで加藤和彦の周りにいる親友たちが、吉田拓郎もそうだし、僕もそうだし、そうとうイメージダウンで離れていった。安井かずみはわれわれにとって女神だった。その女神を結婚という形で独占して、亡くなったあと、それだけの大宣言して、そのあといとも簡単に(再婚した)というところが(われわれが)退いた(理由だった)。それで彼が味わった孤独は、彼が自分で引き寄せたとみられないこともない。
あたりさわりのないコメントが当然のテレビにあって、きわめて辛辣な言葉です。なかにしのこの発言は話題を呼び、いまだ「加藤和彦 なかにし礼」で検索すると最上位に表示され、映像を見ることができます。
自分は、この言葉のなかの、敬称の付け方(さん付け)が気になったのです。なかにしの内なる感情が、敬称の有無にあらわれていると思うのです。ささいなことなのですが、ここから彼の心理が読み解けるのではないかと考えました。
まず安井かずみに対してです。なかにしは彼女の名を一回目は「(安井)かずみさん」と言っています、そして二回目も「安井かずみさん」です。三回目は呼び捨てですが、これは「女神」の文脈のなかですから、親愛の情ゆえであることはあきらかです。
次は加藤和彦に対してです。なかにしは最初「加藤さん」と言って、すぐ「加藤和彦」と言いなおしています。わざわざ敬称をなくしたのです。加藤を非難するコメントには、呼び捨てが適切だと、とっさに思い直したのでしょう。このことからなかにしが、敬称について敏感な人であることがわかります。言葉を扱うのが作家や作詞家なのですから、当然のこととは言えますが。
ここで問題にしたいのは、中丸三千繪への敬称です。なかにしは彼女を呼び捨てにしています。前妻の一周忌も終わらぬ男と結婚した中丸ですから、いくら加藤のほうが積極的だったとはいえ、プロポーズを受ける方も問題だという思いが、自然とこう言わせたのでしょう。つまりなかにしは、中丸にも反感をもっていることがここから読みとれます。
自分にはこの点が腑に落ちないのです。なかにしは、この6年前にさかのぼる03年に、対談本を出しているのですが、そのゲストに中丸三千繪を招いているのです。加藤と中丸の結婚は95年で、離婚は00年ですから、すでにふたりは別れています。憎むべき加藤とは関係がなくなったのだから、ゲストに呼ぼう。そう思ったのでしょう。しかしいったんは嫌ったであろう中丸を相手に選ぶということが、どうも釈然としないのです。
なかにしの本の初出は雑誌の連載だったのですが、この対談がおこなわれたのは00年12月でした。そして加藤と中丸が離婚したのも、同じ年の10か月前の2月でした。つまり中丸が加藤と別れたのならば、彼への面当ての意味で、彼女を対談相手に選ぶ価値はある。そういう計算があったのかもしれません。
本文中にも記しましたが、中丸の経歴には誇張があるとの批判があったようです。なかにしのいる歌謡界とは異なるとはいえ、オペラ界も広い意味での音楽界です。業界内のなかにしなら、いろいろな噂も聞いていたでしょう。そのような人をゲストに選んだ理由も、よくわからないところです。やはり、加藤への意趣返しが、対談の目的だったのでしょうか。
なかにしの本は、『人生の黄金律 なかにし礼と華やぐ人々』と題されています。招かれているゲストは、森光子や瀬戸内寂聴など、各界の著名な12人です。このひとりに中丸三千繪を加えるということは、なかにしは一度は嫌った彼女を「再評価」したということになります。
対談相手はほかにも、岸恵子や渡辺貞夫など、そうそうたる面々ばかりです。この同列に中丸を選んでいるのです。ならばその再評価した敬意は、年月が経っても持続されてしかるべきです。それがかつて対談の場に招いた相手への礼儀であり、責任だと思います。加藤の自裁に対するコメントでは、「中丸三千繪さん」と呼ぶべきでした。繰り返しますが、なかにしは言葉を操る職業なのです。この敬称の省略は過ちだったと思います。あるいは思わず本音が吐露されたと言うべきかもしれません。
加藤和彦の、安井が亡くなってからのふるまいには、自分も唖然とします。島崎今日子著『安井かずみがいた時代』にある加藤の所業は、理解に苦しみます。なかにしとその点は同感です。それでも加藤和彦にシンパシーを感じる者として、「なかにしさん、あなたの中丸さんへの非礼はまちがっていやしませんか」と言いたい。加藤和彦の晩期に問題があったと同様、「なかにしさん、あなたにも打算やあやまちがあったのでは」と問いたい。加藤和彦が生みだした歌を愛する者として、彼の肩もすこしは持ってあげたいのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
このブログでは、いわゆるJ-POP草創期のミュージシャンを取り上げています。作詞家である安井かずみについても、としてアップしました。今日はその夫であった、加藤和彦のお話です。
トノバンこと加藤和彦の名は、ある年齢以上の人なら、だれでも知っているでしょう。しかし彼が三回結婚していたことは、あまり知られていないようです。『帰ってきたヨッパライ』で一世を風靡したあと加藤は、サディスティック・ミカ・バンドを結成していますが、このボーカルが、最初の妻、福井ミカです。彼女は加藤と離婚したのち、自伝的な本を著していて、ふたりの出会いから別れまでを詳細に語っています。ここその要約をまとめてみました。ミカという、個性的な人柄の一端に触れていただけると思います。
そのミカと別れ、安井かずみと再婚し、彼女が亡くなったあと加藤は、中丸三千繪を三人目の妻として迎えています。このオペラ歌手については、一般になじみがないせいか、世間の関心はさらに低いようです。自分も同様でしたが、一方で、その人となりに興味もありました。数少ない資料からですが、彼女の実像を拾いあつめてみました。
また自分は、加藤の屈指の名曲である、『あの素晴らしい愛をもう一度』や『悲しくてやりきれない』が大好きです。イントロだけで胸に迫るものがあるほど、愛着を感じています。これらの傑作を生むまでの、彼の誕生から始まる軌跡も綴ってみました。
そして加藤和彦を語るなら、衝撃的な最後も避けては通れません。亡くなる前後の状況は、一番の親友であった、北山修の自叙伝にくわしく明かされています。その日、加藤のただならぬ動きを察した北山ら関係者の、懸命にその行方を追うシーンには緊迫感が漂います。勝手ながら同書から、引用させていただきました。
大仰に『加藤和彦ヒストリー』と銘打ちながら、その人生すべてを語っているわけではありません。上に挙げた、個人的に関心があるテーマに絞っています。それでも、加藤が亡くなってからはや十年となる今年、その生涯を偲ぶ一助になることを願っています。
参考および引用資料
『ミカのチャンス・ミーティング』福井ミカ著
『ラブ&キッス英国』福井ミカ著
『加藤和彦ラスト・メッセージ』松木直也編
『文藝別冊 追悼加藤和彦』
『安井かずみがいた時代』島崎今日子著
『コブのない駱駝』北山修著
『マリア・カラスコンクール』中丸三千繪著
『人生の黄金律 なかにし礼と華やぐ人々』なかにし礼対談集
『週刊文春』 2009年10月
『週刊新潮}1995年6月 1999年11月 2009年11月
加藤和彦
加藤和彦は、1947年(昭和22年)3月21日、京都の伏見で生まれ、ひとりっ子として育った。父親は、京都の老舗会社福田金属箔粉工業に勤めていた。怒ったことは一度もないほど穏やかな人だったという。会社の事業規模が大きくなる過程で、有能と従順な性格のせいか、あちこちに転勤させられた。加藤のやさしい性格は、父親からの遺伝のようである。
母親も京都人で、モダンな人だった。のちにその息子と結婚した福井ミカは、「義母は尊敬できる、魅力的な女性だった」という。そして「翔んだお母さん」とも形容した。後述するように、ミカ自身が相当先進的な女性だった。そのミカから見ても、ユニークな義母だったらしい。加藤の豊かな才能は、この母からの遺伝のようである。
母方の祖父は京都の仏師で、東山の三十三間堂の仏像など、国宝級の仏像の修復を手掛けていた。加藤は祖父の仕事が好きだった。
加藤は生後すぐ神奈川県に移り、幼稚園までを逗子で過ごした。53年、鎌倉の小学校に入学、5年生のとき京都にもどったが、また1年たつと東京日本橋に移った。59年、中央区立明石中学(現銀座中学校)に入学する。加藤は授業が終わると銀座のプラモデル屋か本屋に寄る。でなければすぐ家に帰った。誰かと遊ぶということはなかった。幼いころからの度重なる転校のせいか、友だちができなかった。
まだ音楽への興味はほとんどなかった。ジャズファンの両親が、ニニ・ロッソの影響からかトランペットを買い与えてくれたが、近所迷惑となり止めさせられた。代わりに求めたクラシック・ギターも、結局一度も弾かなかった。音楽よりもファッションに興味をもち、男性ファッション誌の『メンズクラブ』を読み始める。料理が得意な母の影響で、自分でも台所に立つようになった。
62年、日暮里にある都立竹台高校に入学。海外ミステリーを読みふけるようになる。音楽に魅かれだしたのは、2年のころだった。アメリカのフォークソングやビートルズのレコードをあつめ、音作りの秘密を解き明かそうとした。書棚には外国から取り寄せたフォークソング雑誌を並べ、読み解いていった。高校生で英語の雑誌を読むこと自体、当時としても珍しかった。だが音楽の実践は、それほど熱中しなかった。同じ趣味の仲間もいなかった。
フォーク・クルセダーズ結成
将来は漠然とではあるが、祖父のような仏師になりたかった。そのため実家のある京都に戻り、仏教系の龍谷大学に入る。アメリカン・フォークの十二弦ギターとバンジョーを買い、入学前には弾けるようになった。これでバンドを組もうと思い立ち、『メンズクラブ』読者欄で仲間を募ることにした。ファッション誌なら、センスのいい奴が来るだろうと踏んだ。
65年9月、アメリカン・フォークのメンバー募集投稿が載った。すぐ反応があり、加藤の深草伊達町の家に、北山修が自転車でやってきた。同じ歳の京都府立医科大学生で、高校からカントリー・フォークをやっていた。ふたりはすぐ意気投合、北山の友だちを加え、5人のグループができあがる。フォーク・クルセダーズ(フォークル)と名付けられ、フォークルは京都のアマチュア音楽団体AFLに入り、活動の場を広げていった。コンサートではアメリカン・フォークを中心に、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌をやったり、北山のユニークなMCと相まって、人気を博すようになる。
福井ミカ
AFLには、ミカ&トンコという女性フォーク・デュオがいた。そのひとりが福井光子という。のちのサディスティック・ミカ・バンドのボーカル、ミカである。
ミカは49年4月17日、京都府の園部で生まれた。妹が一人いる。父の生家は山を幾つも持つ、材木を商う裕福な家だった。父も家業を手伝っていたが、ミカが2才のとき独立する。このため一家は京都市東山区に移り住んだ。活発な性格のミカは、男の子とばかり遊んでいた。ビー玉、メンコ、時代劇遊びなど、ワンパク坊主たちを従えてのガキ大将となる。母方の祖母は、清水寺の二年坂(二寧坂)の角に立つ、お茶屋を営んでいた。『阿古屋茶屋』という有名な店である。ミカは母に叱られると家出をし、祖母のもとに逃げ込んだ。ミカは祖母が好きだった。
高校はプロテスタント系の平安女学院に入る。勉強に厳しい学校だが、通学服の自由度が高いなど、個性を尊重する校風をミカは気に入った。沿線には同志社などがあり、他校の裕福な家庭の生徒たちと、派手なファッションを競いあった。6時限目になるとお化粧に忙しくなり、窓の外ではボーイフレンドたちがクラクションを鳴らした。ミカがつきあったのも、同志社大学ラグビー部のキャプテンだった。3年のときには免許を取ってクルマで通学した。友だちに代返してもらい、どこかへ遊びにいくのも常だった。
ミカと加藤の出会い
ミカは中学のころから、ポップスやジャズにのめり込んでいる。高校2年のときには、「くだけた仲間」を誘ってフォーク・ソングの同好会をつくり、会長におさまった。学校のすぐ横の京都御所で、よく練習した。そしてミカ&トンコというデュオをつくり、AFLに加盟する。このころすでにフォークルは、京都では有名な存在だった。遠慮を知らないミカはコンサートの本番前、加藤を楽屋に訪ねる。そして準備に忙しい初対面の加藤に、ギターを教えてほしいと頼みこんだ。
個人レッスンが始まった。しかしミカのギターはあまりにも稚拙だった。「あなたは何年やっても弾けない」と、加藤は引導を渡す。だがこのとき加藤は、ミカに恋をしてしまっていた。頻繁にミカの家を訪れるようになる。レコードや音楽雑誌を届けたり、外国アーティストの来日コンサートチケットを買い、誕生日には手製の大きなシュークリームをプレゼントした。
料理が得意な加藤は、ミカの家でも食事もつくるようになる。しかしミカにはボーイフレンドがいた。不在のときも多かった。それでも加藤は、二日に一度のペースでせっせと通った。半年ほどたったある日、妹がミカに言った。「お姉さんは加藤さんがなぜウチに来るか知ってる?」。ミカは加藤の好意に気がついていなかった。ようやく交際が始まったが、加藤は内気でおとなしい。とてもやさしく、ミカが何を言っても、どんなわがままを言っても、ノーとは絶対言わなかった。
ミカは高校を出ると、京都精華短大に進学した。美術科でデザインを専攻したが、学園紛争の時代である。キャンパスはバリケード封鎖されてしまう。もともと勉強には興味はない。家が裕福なミカは、毎晩祇園で遊んでは飲酒運転で朝帰りなど、女子大生とは思えぬ、放蕩三昧の日々をおくることになる。
フォーク・クルセダーズ プロデビュー
加藤が大学の3年になると、北山は医学部の学業が忙しくなり、フォークルは解散することになる。記念にと、レコードの自費出版することになった。北山が父親から借金し、つくったアルバムが『ハレンチ』。いままでライブでやってきた曲をスタジオで録り直し、オリジナルとして入れたのが『帰ってきたヨッパライ』。300枚を売り切ろうと目論んだが、100枚しかさばけなかった。
そこでラジオ局を回り、『帰ってきたヨッパライ』を流してもらうよう、お願い行脚をした。すると数局が放送してくれ、リクエストが増えだした。そして思いもかけず東芝やビクターなど、レコード会社からオファーが舞い込んできた。
この反響に北山は、もうすこしバンドをやろうと言いだす。加藤は嫌がった。しかし北山の連日の説得を、やむなく受け入れる。以降加藤は、「おまえが音楽の道に引きずり込んだ」が北山への口癖になる。大学を出たら、コックになるつもりだった。他のメンバーは抜けたため、AFLで知り合った端田宜彦を誘い、1年間限定の三人での、第二次フォークルがスタートした。
レコード会社は東芝とし、67年12月に『帰ってきたヨッパライ』がリリースされた。するとあっという間にヒットチャートを駆けのぼり、オリコンチャート史上初のミリオンセラーとなる。しかし二枚目のシングル『イムジン河』は、著作権のクレームが出て、発売当日に中止となってしまう。加藤は代わりの曲を3時間でつくれと、所属の音楽事務所から厳命される。ギターを渡され、会長室に軟禁された。
とはいえすぐにはできない。部屋のウィスキーなどを物色していたが、のこり時間わずかとなる。やむなく譜面に向かった。 『イムジン河』のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみたところ、モチーフが出てきて、10分ほどで作曲した。
そのまま詩人のサトウハチローの家に、タクシーで連れて行かされる。そして初対面のサトウに、詞作のお願いをした。一週間ほどして、『悲しくてやりきれない』というタイトルがついた歌が届いた。曲作りについて何も話さなかったのに、曲と語句がぴたりと合っていた。加藤が自分で歌っても、涙腺がゆるんでしまうような出来だった。サトウは、昭和の大詩人である。ほんのすこし前にプロになったばかりの若者の曲に、その詞が載せられることは、普通ならありえない。それも創作時間10分のメロディである。どたばたの末に生み出された、加藤自身も感激した傑作となった。
ミカと結婚
68年10月、約束通りフォークルは解散する。翌年から加藤はソロ活動のため、東京に居を移した。そしてアメリカへ飛び、サンフランシスコから、ロス、ニューヨーク、ナッシュビルなど3か月の旅をした。ヒッピー文化にも触れたが、音楽的にアメリカは、それほどしっくりこなかった。ロンドンに惹かれるようになり、渡英を何回も繰りかえすようになる。現地ではフラットも借り、コンサートや美術館を観たり、公園に行ったり料理を作ったり、イギリス生活を謳歌した。
加藤は東京に行ってからも、すこしでも時間が空くと京都に帰り、ミカとの交際を続けていた。そしてプロポーズをする。しかしミカは、女の幸福は結婚ではないと考えていた。その一方で親の束縛から逃げだしたかった。それには結婚しかないとも思っていた。でも簡単にOKするのはつまらない。ミカは加藤に、料理も洗濯も何もしない。そして親戚がうるさいから、外国で式を挙げたいと条件を出す。すると北山がすべての手筈を整えてくれた。
音楽仲間である、杉田二郎や谷村新司など総勢二十人ほどが、カナダとの音楽交流のツアーを組み、それに便乗する形で新婚旅行をすることになった。70年7月 、バンクーバーの教会でふたりは結婚した。式での加藤は感激のあまり、誓いの言葉をうまく言えなかった。ミカはケロッとしていた。その後一行はアメリカに入り、メキシコやハワイをまわって帰国した。四十日もの長い旅だったが、ミカにとって最高の新婚旅行となった。
ミカが語る。「トノバンは常に新しい分野に挑戦している人だった。単なる新しいものが好きではなく、何でも物事を突き詰めてゆく姿勢が私は好きだった。私のワガママを何でも聞いてくれたし、結婚の約束通り、家事のすべてをやってくれた。私は皿洗いひとつしなかった」。加藤はミカに誕生日プレゼントとして、ロールス・ロイスを買った。しかし加藤は免許をもっていない。運転はもっぱらミカとなった。
あの素晴らしい愛をもう一度
71年4月、『あの素晴しい愛をもう一度』が、作詞北山修・作曲加藤和彦で発売される。この歌は当初、女性デュオのシモンズに提供するためつくられた。しかし出来上がってみると、あまりにもいい歌だ。惜しくなり、自分たちのものにしてしまう。シモンズには別の歌を渡した。ただすでにフォークルは解散している。そこで加藤とミカが結婚したので、その記念につくったとの理由をでっちあげ、自分たちで歌った。
しかし歌詞は、結婚にふさわしいものではない。かつて恋人と同じ花を見て、あるいは同じ夕焼けを見て美しいと語りあった。なのにふたりの間にあった愛は、もう消えてしまった。あの素晴らしい愛をもう一度と願っても、もう叶わない、という内容である。このどこが結婚を祝う歌になるのか。加藤と北山は、確信犯として言い訳した。
そして結果としてこの歌は、加藤のゆく末を暗示したといえる。加藤はミカと破局に至り、さらに安井かずみを亡くし、中丸三千繪との結婚にも破れてしまう。それぞれの恋愛期には、素晴らしい愛があったというには、あまりにも悲しすぎる。
サディスティック・ミカ・バンド
加藤はフォークをやめ、ロックに転向する。71年11月、ミカをボーカルにしたサディスティック・ミカ・バンドを結成。小野洋子のプラスティック・オノ・パンドをもじった。サディスティックは、料理ができないミカからきている。魚を切るのも面倒で、よく包丁を突き刺していた。のちに彼女が料理の道に入るとは、本人ですら想像できなかった。
73年、アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』で、レコード・デビューした。しかしあまりにも先進過ぎ、理解されなかった。共演コンサートで大音量の演奏を始めると、観客たちは驚いた。髪の毛が原色の、派手な衣装のバンドは観たことがない。ファンはフォークルの加藤を求めていた。コンサートでのバンド名は「加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド」と表記された。自分の名が冠されるのを加藤は嫌がった。しかしそれではチケットが売れないと却下される。キャロルと一緒にツアーをやったが、途中からミカ・バンドが前座になってしまう。ミカの歌はヘタだから外せと騒動になったり、波乱万丈のグループだった。
加藤は二枚目のアルバムを、ブリティッシュ・ロック基調にしたかった。そのためメンバーをロンドンの空気に触れさせようと、イギリスに誘った。コンサートやレコーディング・スタジオで音楽に触れ、スーパーで買い出しをして自炊したり、ロンドンを肌で学ぶ合宿をした。こうした生活を一か月楽しみ、得たものも多かった。ミカはすっかり気に入り、いつかイギリスで暮らす生活を夢見るようになる。
ミカとクリスの出会い
ロンドンのコンサート会場で、トイレを探していたミカは、近くの人に場所を訊く。高名な音楽プロデューサーのクリス・トーマスだった。のちに男女の仲となる、ふたりの最初の出会いだった。またこれがきっかけでクリスは、ミカバンドの二作目をプロデュースすることになる。
クリスは来日すると、麻布でフラットを借りた。ミカはクリスが気になりだしていた。自分の家の掃除もしないのに、クリスの身の回りの世話をするようになる。部屋には女性の化粧品などが転がっていた。入れ代わり立ち代わり、グルーピーの女の子が泊まりに来ていたのだ。「意地でもこの娘たちからクリスを奪ってやる」と、ミカの生来の闘争心に火がついた。自分が結婚していることを忘れてしまった。クリスに妻子がいることも考えなかった。
74年11月、セカンドアルバム『黒船』を発表。評判を呼んだが、セールスは7万枚だった。売れているニュー・ミュージックやフォークに比べると、話にならない数だった。ロキシー・ミュージックの前座としてイギリスでツアー公演したが、このときミカとクリスの仲が深まってしまう。加藤とは当然うまくいかなくなった。
75年には離婚の話がもちあがる。しかし次のアルバム制作がすでに決まっていた。またクリスのプロデュースである。契約は守らないといけない。離婚は先延ばしになった。レコーディングの雰囲気は、理想には程遠い状態となる。スタジオでは、加藤もクリスもジェントルマンを装っていたが、ミカとクリスの関係が徐々にあからさまになっていった。離婚の予定は公言していなかったが、周囲も気がつくようになる。加藤はいらいらして、メンバーにきつくあたることもあった。この時期、加藤の盟友であった吉田拓郎は、憔悴してゆく彼を毎日のように慰めている。
ミカと加藤の離婚
主役の仲が悪化した状態でつくられた『ホット・メニュー』。このジャケット写真は、その関係を示唆している。ミカがそっぽを向き、加藤が顔をしかめている。75年11月、離婚が成立した。ミカの一方的なわがままだったのに、「君が幸せになるのなら」と、加藤は届にサインしてくれた。最後までやさしかった。5年半の結婚生活だった。ミカバンドも解散する。別れてもミカは、ビジネスライクにバンドを続けたかった。しかしさすがの加藤も断った。ミカも自著で、自分は悪妻だった、加藤に甘えてばかりの結婚生活だったと、反省を記している。
翌月の12月加藤は、安井かずみのエッセイ集、『TOKYO人形』出版記念パーティーに出席。かねてから安井は加藤に好意を寄せていた。離婚を知った安井は「しめた」と思い、「明日、電話してください」と囁いた。年が明けた初めにはふたりは住まいを共にし、加藤は安井と再婚した。
ミカとクリス イギリスの日々
ミカは加藤と別れたあと、文字通り身一つで渡英する。クリスも離婚したばかりで、慰謝料や養育費などで一文無し状態だった。前妻がすべての家財道具を持ち去っていた。クリスの家にはなにもなかった。日本では優雅にロールスロイスを乗り回していたミカだったが、加藤に頼り切っていた炊事洗濯掃除を、自分でやることになった。おまけにミカは英語ができない。話せるようになったのは、二年ほど後だった。
それでもミカは楽しかった。加藤に甘えて暮らしていた生活から、なにもかも自分でやる日々が新鮮だった。おカネにルーズなクリスに代わって、ミカが収入を管理した。田舎に6000坪の広大な農地を買い、野菜作りを始めた。クリスの母にイギリスの風習や流儀を教わり、田園生活を満喫するようになる。日本の祖母にも似た義母は、厳しくもやさしい人で、いつしかミカを実の娘のようにかわいがるようになった。
ミカは、クリスの音楽仲間、エルトン・ジョンやポール・マッカートニーらとも、家族ぐるみで親しく交流するようになる。80年、ポールのウィングス日本公演では、ガイドを頼まれた。ところがポールは成田で、大麻不法所持のため逮捕されてしまう。「日本はドラッグ禁止よ」と事前に注意していたのだが、妻のリンダがスーツケースの一番上に、大麻をいつものように無造作に置いていた。
日本には、ポールの子供たちも同行していた。ポールの勾留期間中、退屈しないよう京都を案内するなど、ミカは様々な配慮をした。拘置所から洗濯物を持って帰ると、ポールのTシャツには「〇〇組の」など、収容者たちの寄せ書きが書かれていた。「イエスタデイ」をリクエストされ、一緒に合唱したという。
ミカとクリスの別れ
81年ころから、ミカとクリスの仲に亀裂が入るようになる。クリスの浮気や、暴力、気難しい性格についていけなくなった。ミカは修復を試みようともしたがうまくゆかず、83年に別居となり、翌年、8年半に及んだふたりの関係にピリオドを打った。法的な結婚はしていなかった。
ミカは人生を劇的に変える癖があると、そう自己分析する。今度は何をやりたいと考え、料理が残った。昔から食べものに興味があった。日本にいたときは何もできなかったが、イギリスでの義母の教えにより、ミカは料理好きに変わっていた。シェフになりたいと思った。イギリスに残って料理学校に通うことにした。
85年、イギリスで一番難しいとされる、フランス料理の学校に入学する。三カ月のコースだが、ここを卒業すれば、ミッシェランの三ツ星レストランに勤めることことができる。授業のあまりの厳しさに、三日目でやめようと思ったが、耐え抜き卒業した。そして校長の推薦状を手に、一流のフランスレストランなど数軒を、シェフ修行として一年間渡り歩いた。そして、料理研究家としての歩みを始めた。福井ミカ、38歳のときである。
ミカの帰国
ミカは87年、日本に帰った。そして加藤と思いもかけぬ形で再会している。彼女の二冊目の自著『ラブ&キッス英国」から、そのシーンを引用させていただく。
「飯倉のキャンティへ」とドライバーに告げると、私はシートに深く身をゆだねた。窓を行き過ぎる風景は12年前とは、ずいぶん変わってしまった。それでもこれから古巣のレストランで、なつかしい友人に会うのだと思うと、心が浮き立つ。イギリスから帰国した私は、その日、ムッシュこと、かまやつひろしさんと食事の約束をしていた。この店にくるのも久しぶりだわ、と思いながらドアをあけ、かまやつさんの姿を探す。私のほうが先に着いたようだ。
ウェイターに案内されテーブルにつく。すると、すぐとなりの席にいらしたのは、なんと加藤和彦さんと安井かずみさんご夫妻だった。加藤さんとは、私のわがままで一方的に離婚をし、そのまま私はイギリスに行ってしまったから、いつかお会いする機会があったら、あのときのことをお詫びしなければ、と思っていた。ところが、12年ぶりの再会は、唐突に、しかも安井さんといっしよ、という意外なかたちでやってきた。
いささかうろたえた私だったが、さすがは大人の安井さん。「ミカ、久しぶりね。よかったらこちらにどうぞ」と誘われ、なんだかわからないうちに同じテーブルについたのだった。加藤さんは、このなりゆきに少しばかり緊張しているようだったが、それでも「ミカは新しい仕事を始めたんだってね。シェフだなんて信じられないな」などと話しかけてくれた。私は加藤さんを昔のまま、トノバンと呼び、安井さんは和彦さんと呼び合う中で共通の趣味であるテニスのことなどを話題にした。また、京都の両親の死を伝えたのであった。
遅れてきたかまやつさんは私たち3人が同じテーブルについているのを見ると、心臓が爆発するかと思うほど驚き、「なんてこった」とそのままUターンして帰ろうとしたそうだ。ところが、別の友だちに「やあ、ムッシュ!」と声をかけられ、逃げる(?)きっかけを失ってしまった。このシチュエーションを作った原因は、ミカをこの店に誘った自分にあるんじやないかと、ひどく混乱してしまった、とはあとから聞いた話である。
中丸三千繪
ミカと加藤・安井夫妻の偶然の出会いから、4年後の91年のこと。加藤と安井は、イタリアで取材旅行をしていた。その移動の空港には、オペラ歌手の中丸三千繪もいた。中丸と旧知のスタッフが、夫婦を引き合わせる。加藤と中丸のはじめての出会いだった。しかし中丸は、加藤が何をしている人なのか知らなかった。
それからまた3年後の、94年の3月、安井が亡くなる。同年6月、加藤は中丸がゲスト出演したコンサートにでかけた。彼女をとくに意識していたわけではなく、演出内容に興味があったという。その帰り、加藤がキャンティに立ち寄ると、中丸らスタッフも偶然来ていた。加藤は中丸のテーブルに食後酒を手配して帰る。中丸はお礼にと、7月の自身のリサイタルの招待状を送った。
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中丸はミラノに在住している。リサイタルのあとイタリアに帰国した中丸のもとに、加藤から礼状が送られてきた。ステージに深い感銘を受けたと、それもフランス語で書かれていた。さらに日を置いてフランス語の歌詞による楽譜が届けられた。愛の歌であった。さすがに中丸も意識するようになり、交際が始まった。一気に仲は深くなり、8月のハワイにおける安井の散骨のあと、加藤は海外で仕事が主体の中丸のもとに去った。10月、公演でスコットランドにいる中丸に、加藤はプロポーズした。安井を喪った心の空白を、一刻も早く埋めたかったのであろうか。
加藤は中丸と、安井の一周忌前である翌年95年2月に入籍した。しかし2000年には離婚となってしまった。実質的な結婚生活は、2年で破綻していたという。
中丸三千繪という人
話が後先になるが、ここで中丸三千繪という人に触れておきたい。
中丸三千繪は、茨城県下館市(現在の筑西市)で、1960年に生まれた。桐朋学園大学声楽科を卒業し、同大学研究科を修了する。86年、小澤征爾指揮の『エレクトラ』でデビューし、小澤の勧めでミラノに修行に旅立った。そしてイタリアでの努力の甲斐あり、90年、ベネチアでのマリア・カラス・コンクールで優勝し、ミラノのスカラ座にも出演することになった。この経緯については、彼女の自伝的自著『スカラ座への道 マリア・カラス・コンクール』に詳述されている。
オペラを知らない者にはよくわからないが、本のタイトルにするほど、この優勝と出演は大変な実績となるようだ。ただ97年12月の週刊新潮によると、マリア・カラス・コンクールとは、アテネでおこなわれる催しという。中丸が優勝したのはイタリアで開催されたもので、同じ名が冠された別物であった。中丸は世界でもっとも権威ある声楽コンクールとするが、ベネチアのは国際音楽コンクール世界連盟に入っていない。おまけに計4回開催されただけで、中丸が優勝した回を最後に開かれていないという。
また、ミラノ・スカラ座でのデビューも単なる端役であり、出番も少なかった。決してプリマドンナといえるようなものではなかったらしい。中丸の師だった声楽家・東敦子は、かつての弟子に苦言を呈している。「クラシックの世界では、自分から宣伝しなくても、評価は自然に出てくるものですから、自分からあまり、ここでやった、あそこでやったと言わないで、純粋に芸術的な言葉の世界に専念していただきたいと思います」
99年11月の週刊新潮によると、中丸には無名のころから、とある出版社の男性がマネジメント的な役割を担ってきた。中丸を戦略的にマスコミに売り出し、成功したのも彼のおかげという。しかし音楽業界のしきたりを知らず、トラブルになることも多かった。
いずれにしろ加藤は、自立した強い女性が好きだった。以上見てきたように、彼女たちの強烈な個性は、ある意味共通しているように思える。だが結果として、福井ミカと中丸三千繪には去られてしまった。安井かずみとの生活も、晩期は無理をしていたとされる。『あの素晴らしい愛をもう一度』や、『悲しくてやりきれない』が現実になってしまったとは、皮肉としか言い様がない。
最後の女
中丸と別れた2000年、加藤の六本木の家は、東京都港区に差し押さえられた。区税を滞納していたためである。ハワイのコンドミニアムなども売却し、債務を返却することになる。加藤の楽曲の著作権収入には安井の遺産も含まれ、相当あったはずだ。だが中丸との結婚生活の破綻で自暴自棄になり、若いころからの浪費癖がさらに高じ、より散財を繰り返すようになっていたのだろうか。これ以降も改まることはなかったのか、亡くなる二年前にも、二千万円もの真っ赤なフェラーリを買っていたとの証言もある。自裁の数日前には、渡邊美佐に経済的援助を求めている。
話を戻す。六本木の家を出た加藤は、わずか三百メートルしか離れていない、高級賃貸マンションに移り住む。彼の葬儀の際、遺影を抱いていた女性がここで見かけられるようになったのは、03年のころ。06年には同居するようになった。
加藤と親交のあった、藤間紫の長男で俳優の藤間文彦によると、彼女はニューヨークのアパレルブランドに籍があり、東京・丸の内にあるショップ店長として働いていた。こまやかな気遣いのできる女性で、うつ病に苦しむ加藤を支えた。加藤の母も、彼女を妻として認めていたという。加藤享年62歳のとき、この人は34歳だった。
09年10月2日、加藤は、東京国際フォーラムでの松任谷由実ライブにゲストとして登場。これが公の場での最後の姿となった。亡くなる二週間前のことであった。
きたやまおさむ 著『コブのない駱駝』より
最後に、きたやまおさむ(北山修)の著書より、加藤の亡くなったときの状況を、引用させていただきます。
フォークークルセダーズをともに結成し、音楽を通したプレイをともにしてきた加藤和彦。いろいろな点で、私と価値観を共有してきたと思っていた加藤でしたが、2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルで遺体となって発見されました。死因は自死。六二歳でした。友人でもあり精神科医でもある私には、無念としか言いようがありません。
加藤は「ロックンローラーが60歳を超えても生きているのは、格好悪い」と口にしていました。その言葉通り、彼は消えていきました。それはあまりにも美しすぎるのではないか。世間で言われている醜いこと、格好悪いことを、むしろ格好いいものに変えていこうという価値観の変革は、彼の思いの中にもあったはずです。コタツでミカンでも食べながら、昔のことを思い出し、ともに老後をタラタラと過ごせたら、と思っていたのですが、もうその願いはかないません。あのとき、同じ花を見て美しいと言った二人の心と心がいまはもう通わない。結局それが私と加藤和彦の物語だったのでしょう。
加藤和彦にはその不調をずいぶん前に相談されていました。私は彼を知人の精神科医に紹介し、その方に主治医をお願いしていました。加藤の訴えは、創作ができない、ということでしたが、うつ状態でした。また、亡くなる少し前から、特に限られた人間が加藤の精神的な異変に気がついていました。そのことは、友人などの耳にも入っており、また心配もしていました。
そんなこともあり、私は2009年10月15目の夜、加藤と会って話をする約束をしていました。加藤は、その前々日には京都に行って、アマチュア時代のフォーク・クルセダーズのメンバーだった平沼義男に会い、食事をしながら歓談したといいます。
ところが、約束の日、加藤から私のところにメールが届きました。彼は会う場所を六本木のイタリア料理店に指定してきたのです。私は、加藤のことが心配だったので、まずは真面目に話をしようと考えていました。したがって、イタリア料理店でワインを飲みながら、というのはふさわしくない気がしました。そのことを加藤に伝えると、すぐに彼は私と食事をすること自体をキャンセルしてきました。「母の具合が悪いから京都に行く」というのがキャンセルの理由でした。後になってから考えると、彼としては、私と楽しく食事をして、それを格好よく、別れの挨拶にしたかったのかもしれません。
翌16日、突然加藤が消息を絶ちます。その日、都心に住む友人のもとに、加藤から郵便が届きました。それは「遺書」のような内容でした。友人は驚き、とっさに加藤の携帯電話に電話をかけてみました。すると、加藤が電話に出たといいます。「あれ、もう届いちゃったの?」と彼は話し、やがて電話は切れました。
加藤からは、その後、私を含めた親しい知人十数人に宛てて同様に「遺書」が届きました。おそらく、彼は自らが亡くなった後に、その手紙が届くよう計算して投函したのだと思います。でも、それが投函場所の近くに住むこの友人のところには、思いのほか早く届いてしまったようなのです。
その友人は大慌てで私や加藤のマネージャーなどに連絡をし、16日夜、私たちは加藤の住んでいた六本木のマンションに集まりました。彼がどこに行ってしまったのか、見当がつかない。そういえば、私に前日、「京都に行く」と伝えていたことを思い出しました。もしかしたら、京都のどこかのホテルに泊まっているのではないか。そう考えて、皆で手分けして、京都中のホテルに連絡を取りました。ところが、個人情報の問題もあり、まったく消息はつかめませんでした。
そうこうしているうちに、携帯電話などの発信者情報などで、彼の位置がつかめるのではないか、と誰かが考えました。同時に、彼の居場所がわかる手がかりになるものはないか、とマンションの一室のドアを開けてみました。そこは、彼が録音スタジオとして改造して使っていた部屋です。ところが、開けてみると、そこはまったくの、もぬけの殼でした。本来なら、CDやレコード、録音機材などが所狭しと置かれているはずでした。
加藤は、誰にもわからずにそれらの物を整理し、完全に片づけていたのでした。私は、すっきり片づいた部屋を見たとたん、あの何度も垣間見てきた真空の空虚が、再びそこにあるように感じました。ここに吸い込まれたら、もう彼は戻ってこない、という思いが頭に広かっていきました。他方で、見つかった場合の手配を考えながら。
あまりにも用意周到で、よくいわれる「侍の死」にも通じる、潔い死に様を見せつけられたようで、衝撃を覚えました。侍たちは潔く「無雑な空白」を遺そうとしますが、加藤の心もすでに無心で一途で「真っ白」になってしまったのではないか。
しかし、そんな空白のスタジオの壁に、一つだけ残されたものがありました。それは額装された1枚の写真でした。1967年10月1日、京都府立勤労会館で開催されたアマチュア時代のフォークークルセダーズの解散コンサートで、私と加藤、平沼義男の三人が演奏している姿をとらえた写真でした。前だけを見つめて何もかも捨ててきたはずの加藤がこれだけを残すことで、最後に、私たちに残しかメッセージは、まさに「これだけ」だったのでしょう。そこは消すに消せない、二度と戻れない、終わりであり、出発したところでもあった、まさに青春の分かれ道。
実は、私の部屋にも、同じ日の同じ舞台を写した写真が飾られていました。加藤の写真は本ステージの際のもの、私の写真はアンコールで登場して演奏している際のもの。本ステージが終わり、帰ろうとして衣装を着替えたところにアンコールがかかり、舞台に出ていったために、着ている衣装が違うのです。当然ながら、加藤の写真では加藤がメインで大きく、私の写真は私がメインで大きく写っていました。
私にとってもそうですが、加藤にとっても、このときの瞬間が幸せな思い出として残っていたのでしょう。それは、私たちが売れるとか、売れないとかを気にせずに、とにかく自分たちの楽しい遊びに興じていた瞬間だったからだと思います。そこには無意味な、かけがえのない充実だけがあった。しかしその遊びが終わってしまった、
翌一七日の土曜日の朝、軽井沢のホテルで加藤が亡くなっているところが発見されました。同時に私たちのところにも、加藤からの「遺書」が送られてきました。それらには「もう音楽の時代ではなくなってしまった」とありました。何を言っているんだ、音楽のために人生があったのではなく、人生のための音楽を俺たちはやってきたのではないか。むきになってそう反論したい気持ちでいっぱいでした。
加藤和彦の遺書
数種あり、北山修宛とは異なるとされる
了
ブログ後記
以上が『加藤和彦ヒストリー』となります。お読みいただきありがとうございました。
ただもう少しだけ話を続けさせてもらいます。きわめてささいな、人様からすればどうでもいいことなのですが、拙稿を書くにあたり、資料を調べていたなかで浮かんできた、ぼんやりとした思いです。あらかじめお断りしておきます。
加藤が自裁したときのことです。かつて彼と親交のあった、作詞家・作家であるなかにし礼は、テレビのワイドショーでコメンテーターをしていました。事を報じるその番組で、なかにしは次のように語っています。
(安井)かずみさんが加藤さんを、加藤和彦のことを、人生を変えましたね。安井かずみさんが亡くなって(葬儀の)教会で加藤は、これからはZUZUの霊とイエス様と(自分の)三人で生きていくと誓った。われわれもそこで涙した。それなのに、われわれの涙も彼の舌の根も乾かぬうちに、中丸三千繪とポンと結婚するんです。これで加藤和彦の周りにいる親友たちが、吉田拓郎もそうだし、僕もそうだし、そうとうイメージダウンで離れていった。安井かずみはわれわれにとって女神だった。その女神を結婚という形で独占して、亡くなったあと、それだけの大宣言して、そのあといとも簡単に(再婚した)というところが(われわれが)退いた(理由だった)。それで彼が味わった孤独は、彼が自分で引き寄せたとみられないこともない。
あたりさわりのないコメントが当然のテレビにあって、きわめて辛辣な言葉です。なかにしのこの発言は話題を呼び、いまだ「加藤和彦 なかにし礼」で検索すると最上位に表示され、映像を見ることができます。
自分は、この言葉のなかの、敬称の付け方(さん付け)が気になったのです。なかにしの内なる感情が、敬称の有無にあらわれていると思うのです。ささいなことなのですが、ここから彼の心理が読み解けるのではないかと考えました。
まず安井かずみに対してです。なかにしは彼女の名を一回目は「(安井)かずみさん」と言っています、そして二回目も「安井かずみさん」です。三回目は呼び捨てですが、これは「女神」の文脈のなかですから、親愛の情ゆえであることはあきらかです。
次は加藤和彦に対してです。なかにしは最初「加藤さん」と言って、すぐ「加藤和彦」と言いなおしています。わざわざ敬称をなくしたのです。加藤を非難するコメントには、呼び捨てが適切だと、とっさに思い直したのでしょう。このことからなかにしが、敬称について敏感な人であることがわかります。言葉を扱うのが作家や作詞家なのですから、当然のこととは言えますが。
ここで問題にしたいのは、中丸三千繪への敬称です。なかにしは彼女を呼び捨てにしています。前妻の一周忌も終わらぬ男と結婚した中丸ですから、いくら加藤のほうが積極的だったとはいえ、プロポーズを受ける方も問題だという思いが、自然とこう言わせたのでしょう。つまりなかにしは、中丸にも反感をもっていることがここから読みとれます。
自分にはこの点が腑に落ちないのです。なかにしは、この6年前にさかのぼる03年に、対談本を出しているのですが、そのゲストに中丸三千繪を招いているのです。加藤と中丸の結婚は95年で、離婚は00年ですから、すでにふたりは別れています。憎むべき加藤とは関係がなくなったのだから、ゲストに呼ぼう。そう思ったのでしょう。しかしいったんは嫌ったであろう中丸を相手に選ぶということが、どうも釈然としないのです。
なかにしの本の初出は雑誌の連載だったのですが、この対談がおこなわれたのは00年12月でした。そして加藤と中丸が離婚したのも、同じ年の10か月前の2月でした。つまり中丸が加藤と別れたのならば、彼への面当ての意味で、彼女を対談相手に選ぶ価値はある。そういう計算があったのかもしれません。
本文中にも記しましたが、中丸の経歴には誇張があるとの批判があったようです。なかにしのいる歌謡界とは異なるとはいえ、オペラ界も広い意味での音楽界です。業界内のなかにしなら、いろいろな噂も聞いていたでしょう。そのような人をゲストに選んだ理由も、よくわからないところです。やはり、加藤への意趣返しが、対談の目的だったのでしょうか。
なかにしの本は、『人生の黄金律 なかにし礼と華やぐ人々』と題されています。招かれているゲストは、森光子や瀬戸内寂聴など、各界の著名な12人です。このひとりに中丸三千繪を加えるということは、なかにしは一度は嫌った彼女を「再評価」したということになります。
対談相手はほかにも、岸恵子や渡辺貞夫など、そうそうたる面々ばかりです。この同列に中丸を選んでいるのです。ならばその再評価した敬意は、年月が経っても持続されてしかるべきです。それがかつて対談の場に招いた相手への礼儀であり、責任だと思います。加藤の自裁に対するコメントでは、「中丸三千繪さん」と呼ぶべきでした。繰り返しますが、なかにしは言葉を操る職業なのです。この敬称の省略は過ちだったと思います。あるいは思わず本音が吐露されたと言うべきかもしれません。
加藤和彦の、安井が亡くなってからのふるまいには、自分も唖然とします。島崎今日子著『安井かずみがいた時代』にある加藤の所業は、理解に苦しみます。なかにしとその点は同感です。それでも加藤和彦にシンパシーを感じる者として、「なかにしさん、あなたの中丸さんへの非礼はまちがっていやしませんか」と言いたい。加藤和彦の晩期に問題があったと同様、「なかにしさん、あなたにも打算やあやまちがあったのでは」と問いたい。加藤和彦が生みだした歌を愛する者として、彼の肩もすこしは持ってあげたいのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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