2024年10月12日
f1101 西表島
そして、この残された自然を観察すると、動物たちは、月の引力による旧暦での行動。
黒島では、旧暦の決まった日の満潮時、島中のカニが、一斉に海へ向かい産卵をします。
道路や砂浜までが、足の踏み場もないくらい、カニで埋め尽くされ、これ程のカニが生息していたのかと思わせる数。
海は、卵で赤く染められ、殆んど魚の餌食になる中、わずかながら、生き残って行くのです。
甲羅が5センチ以下のカニ、どうやって産卵日を計算しているのだろうか?
年に一度、間違いなく日時を計算し、一斉に産卵する自然の営み、一度は都会の子供達に見せたいものです。
また、日本では、唯一亜熱帯気候に属するこの地区は、2月に入ると、気温が二十二、三度にも上昇し、どっと春風が押し寄せ、百花繚乱の季節。
もし桜があれば、間違いなく正月には咲くでしょう。
3月には日本一早い海開きが行われ、暖かい春風が、沖縄本島へ九州へと北上、日本の春は、八重山の元旦から出発していくのです。
南国の山々は、一年中緑を湛え、春夏秋冬というはっきりした変化もなく、季節は北風の吹く季節とか、うりずんの季節、という呼び方で表現され、春夏秋冬という方言も見あたりません。
ひかるが上京して一番驚いたのは、山一面が紅葉し、落葉する事でした。
初めての冬、木々が落葉し、裸山の姿を見た時、間違いなく枯れた、木々が新しく地面より芽ぶき大木になる迄、これから何年かかるのだろうか。
化学兵器が使われたのか?
天変地異が起きたのか? と考え、この世も終わりではないかと思ったものです。
子供の頃不思議に思った、落ち葉焚きが後に理解出来るようになったのだ。
また考えられない事かもしれませんが、ひかるの家の前には、自然のサボテン林がありました。
トゲがあるため、人間や牛馬、他の動物は一歩も入れず、トカゲやヘビなど、爬虫類の格好の棲家。
サボテンと言うと、誰しもメキシコを連想するかと思いますが、日本にも自然のサボテンが群生する気候があったのです。
そして、誰しも、沖縄の自然は素晴らしい、と絶賛しますが、この八重山地区は離島のため、未だにあまり知られていません。
この地域は珊瑚群が、海底いたるところに見られ、この海域に眠る、世界屈指の珊瑚群は、復帰に伴う、日本最大の財産ではないでしょうか。
台風が作り上げた地形や山並みの変化に富み、西表島は、全体が絶景のいたりで、沖縄本島に次ぐ大きな島にもかかわらず、人口は1700人程度。
いかにこの島が人を寄せ付けなかった島なのか分かるかと思います。
そして地球上の動物が絶滅していく中、20世紀最大と言われる、西表ヤマネコが、古代の生態系を残したまま、この島で発見されたのです。
遥か昔、西表島が中国大陸と陸続きだった時より生き続け、動物学上、貴重な猫だとの説。
外国からは、経済アニマルと呼ばれ、自然破壊が激しい国に見られていると思いますが、世界に類なき動物が生息する日本、おおいに誇るべき発見ではないだろうか。
今日も日本のどこか、息を潜め、獲物を狙う、百万年来生き続けた、古代の目が光っているのかと思うと、大きなロマンを駆り立たせてくれます。
古老の話によると、その昔、この西表島は山国のため、収入が少なく、税金を滞納。
島ごと、税金のカタに取り上げられ、国有化し、開発されなかったと言っていましたが、真意の程は、定かではありません。
f1099 魔法の箱物語
普段は、15、6頭の牛を庭先の牧場で放牧し、牛には家族の名前をつけ、子や孫と話すように、牛と対話しながらの生活。
いち早く血統書に注目、島根県産の血統書付母牛を導入。
初めの内は、訝かられたそうですが、今では血統書が重宝されるようになりました。
牛は、子を産む事に、角に一輪ずつ節目がついて行きますが、父の牛は、血統書の生年月日と、節目の数がぴったり合う、いわゆる、毎年子供を産む安産型、骨太で肉付のいい優良牛だったのです。
その牛を競売に出したところ、今までにない最高値が付き、大きなトロフィーが贈られ、位牌の横に、誇らしげに据えられました。
父は小さな島で一生を終え、息子と一つ屋根の下で生活する事が、叶わなかったにも関わらず、幸せだったと思います。
きっと、ひかるがテレビを運んで来る、と信じ、自慢していた父。
親にとって、息子が信頼出来、自慢出来る事は、最高の幸せではないだろうか。
そして貧しいながらも、住み慣れた土地で、生涯が送れたのです。
家で映画が見られる、魔法の箱物語。父は最初から賛成していましたが、晩年の父の姿に、その訳が分かりました。
映画が好きで、特に洋画の世界は、我をも忘れる大好き人間。
過疎の村で、朝1番に、お茶ではなく、コーヒーを点てて飲み、洋画の世界に浸る父は、本格的なロマンチストだったのでしょう。
少年の夢、父の理解が大きな役目を果たし、5コマ漫画のロマンは、親子2代のロマンでした。
我々日本人は、大自然に浴し過ぎ、恩恵を過小評価しているものではないだろうか。
北海道から、南は台北よりも南に位置する、八重山地区までの海岸線の総延長。
暖流や寒流が交差し、北が氷に閉ざされている時期とて、南の島では水泳が出来、四季折々の花や食べ物など、季節感が楽しめる。
これ程、自然に恵まれた国は無いでしょう。
特に最南端の八重山は、商業放送のテレビが最近開通したばかり。
観光事業や他の事業等も経済的な面で、採算がとれず、孤立した地区として、乱開発されず、豊富な自然が残されて来たかと思います。
1098 テルビ
親に隠れ、おじいちゃんの位牌に線香をあげる、中学1年生の息子を感じた時、一人旅は、無駄ではなかった。
学校では学べない、大事な事を南の小さな島で、学んで来たな、と。
おじいちゃんも、孫と1カ月間、同居出来、天国へのなによりのお土産だった事でしょう。
ひかるの父は、島で生まれ育ち、島から出た事がありません。
勿論、テレビなんて物は見た事もなく、何度言い聞かせても、テレビの発音が出来なく、テルビ、テルビと、言っていました。
役場や農協の窓口の事務員を捕まえ、息子が東京で、テルビをやっている、といつもの自慢話。
遠い田舎の事です。テレビの組立配線工として働いているのだろうとしか、思わなかった事でしょう。
帰郷の際、早速農協や色々な所へ連れて行かれ、東京でテレビの番組を作り、全国へ放送しているんだ、と話したら、驚かれたのも当然。
更に、自慢話にハクが付きました。
子供達との同居をかたくなに拒み続けた父も、孫から要望され、上京を決意。
島を引き上げる前、夏休みに、家族全員で会う事を約束。
4月に他界した時、通帳に孫二人分、10万円ずつの飛行機代が用意されていました。
島のこの家で、家族そろって過ごす日、指折り数え待っていたのです。
夏休み迄には、まだ間があるのに・・
孫達には、お金に変えられない、おじいちゃんの気持ちが伝わったのは言うまでもありません。
父が必死で守り続けたこの家で、家族全員泊まる日、小さな夢、小さな幸せを、叶えさせてやりたかった。
1097 恐怖の体験
ひかるの息子、光一が、小学校6年生の夏休み。自然との触れ合いや冒険を体験させる、良いチャンスと、島のおじいちゃんの所へ、一カ月間、一人旅をさせました。
12歳で飛行機や船を乗り継ぎ、2000キロも離れた島への一人旅、不安だった事だろう。
島へ着いた夜9時頃、息子からの電話。
「おじいちゃんが、寄り合に行き、一人でいるけど、オバケが出るよ! 怖いよー、今すぐ帰りたいよー」と、泣きべそ。
無理もありません。周りは家もなく、静寂そのもの。
時期的に、コウモリの大好物な、防風林の福木の実が熟し、暗闇の上空を奇妙な声で行き交っており、遠くに聞こえる、フクロウの泣き声も、都会で育った子供には、恐怖の体験でしょう。
その家は、お父さんの育った家だし、オバケなんか出ない、男の子が、1カ月間の約束を破るな、と諭しました。
息子は畑仕事や牧場を手伝い、漁へも同行。
腰痛で、50メートルごとに立ち止まるおじいちゃんが、海へ入ると、もの凄いスピードで泳ぎ、素潜りで魚を取って来る姿に、驚いたとの事。
おじいちゃんの腰痛を見かね、初めての料理、目玉焼きを作ると、事のほか喜ばれ、失敗しながら何度か作るうち、うまく作れるようになったとの事でした。
無事、1ヶ月が過ぎ、黒々と日焼けして帰って来ると、早速お風呂へ入ろうとの誘い。
ひかるの足を点検、傷跡を見つけると、あったあったとはしゃぎ、ひかるが怪我した時の様子をおじいちゃんに聞かされ、確認したかったとの事。
おじいちゃん、本当の事を教えてくれたんだね・・と。
この際、ほかの傷跡も、一つ一つ教えてやりました。
この傷は、漂流した飛行機の残骸を解体中につけた傷だ。
この傷は、自転車の発電機で、風力発電をしようと、木の上へ取り付ける時、おっこってつけた傷だ。
この爪は、水中鉄砲を作る時、留め金が外れ、潰したんだ。
など、教えると、興味深げに、目を白黒。
小さな手で、傷跡をさすり、「痛かった?」 と見上げる瞳は、輝いておりました。
そして夕食時、お父さんに意見がある、島のおじいちゃん、一人で生活するのは無理だよ、家に引き取ってくれ、と言われた時は、一人旅をさせてよかった、逞しく育ったなあ、と感心させられました。
翌年、同居の段取りを進めている最中、おじいちゃんは亡くなったのです。
孫の見る目は正しかった。
2024年10月11日
f1096 別れ
昭和63年4月、父危篤の報に、急ぎ帰郷。
しかし、父と会えたのは、息を引き取ってから既に15時間が過ぎていました。
ひかるがきっとテレビを運んで来ると、ひかるの作ったテレビが見られる日を、生涯の楽しみにしていた父は、突然心筋梗塞に襲われ、79歳で帰らぬ人となりました。
ひとつ屋根の下で住みたかったのに・・
許してくれ!
少年の夢を見守ってくれて、
有難う・・
有難う・・
冷たくなった父を抱きしめ、何度も何度も呟きました。
お互い死に水は取れないと、覚悟の上とは言え、何の反応もしなくなった父の姿に、「親不孝な息子だったのか」、最後に一言答えて欲しかった。
15時間も経過しており、ゆっくり対面している間もありません。
喪主としての段取りや、弔問客との応対、時は目まぐるしく過ぎ、仏事での貸切船や船頭への式たり等、長老の皆さんに教わり、石垣島から黒島の墓へ無事納骨。
島の家で、位牌となった父と二人っ切りになった時、親子でありながら、生涯に交わした会話の、余りにも少なかった事を、しみじみ感じさせられました。
振り返ってみると、中学時代は、一家を襲った試練に、両親が必死で立ち向かい、高校は石垣島での下宿生活、卒業と同時に上京。
親子が一緒に生活する期間が、余りにも少なかったのでした。
父は島を離れられず、息子は、夢を追い続けるしかなく、別々の道を歩むしかなかった。
親子の絆のあり方、人生は、これしかなかった、と自分に言い聞かせるしかありませんでした。
もっと、たくさん話し合いたかったのに・・こんな親子関係で終わりたくなかったのに・・今となっては仕方がありません。
父は周りの人達が島を引き上げる中、目の前に広がる海を味方とし、自分には、太平洋という、大きな畑がある。
海がある限り魚は獲れる、決して飢える事は無い、と言っていました。
この海は、息子や娘のいる、東京まで続いているんだ、といつまでも浜に佇み、語りかけていたとの事。
弔問客も途絶えた真夜中の三時、父の愛した海が懐かしく、浜へ出てみました。南国の夜空に、黙黒の大海原。
千古変わらぬ、さざ波の音。遥か彼方より漂う、潮の香りを体一杯吸い込み、別れの杯を交した、父の事を思い浮かべた時、満天の夜空に、白い歯でニッコリ笑う、日焼けした父の顔が、超特大パノラマ画面で映し出されました。
親父! 親父は世界で一番、素晴らしい親父だった。ひかるは、世界で一番幸せな男になったぞ! と言ってやりました。
必ず、両親の眠る墓に、テレビを届けてやる!親子の約束、必ず果たす迄頑張る、と心に誓い、位牌を胸に、島を後にした。
テレビを待つ、島の子供達や、お年寄達がいる。
・・ロマン旅 いつまで続く また歩く・・。
f1094 防風林
太平洋に浮かぶサンゴ礁の島は、リーフに打ち寄せる白いさざ波と、砂浜で、二重に縁どられ、家々は、四角い石垣と、鮮やかな緑の防風林にかこまれ、サンサンと降り注ぐ光と、鮮やかな原色の中、大地を踏み鳴らし、指笛を吹き、拳を握りしめ、力強く、激しい陽気な歌と踊りの世界に、汗あり、人々は、嬉々として、活気づいております。
そして汗ばんだ体を、夕凪が心地よく洗い流していく頃、待ちかねたように現れる一番星。
静寂の夜も深まり、ひときわ心を揺する、潮騒の音。
見上げると、満天に光り輝く星空。
しかし、この夜景は、昼間と様相を一変させてくれます。
星々の光は反射光で、影や色を再現する程強くなく、明るくない。闇でもない。淡い幻想的な、ふわっと浮く明るさのモノクロトーン。
青白い、冷たく透き通る光が、温暖な気候には、見事に溶け合います。
真っ赤なハイビスカスや、エメラルドの海など、原色の世界から色が消え、影のない、おぼろげな星明かり。
潮風は、体を通り抜け、草花は、夜風になびき、砂浜にたむろする恋人達は、影絵そのもの。
白いうなじにそよぐ黒髪は、一段と強調され、目元や鼻筋の陰影、微妙な濃淡の唇からこぼれる、白い歯。
かすかに現れる、モナリザの微笑など、今まで感じた事のない、エキゾチックな墨の世界が発見出来るかと思います。
この星明かりの世界、不思議と身も心も、和ませてくれ、繊細な部分や微妙な変化を見逃す事なく、再現してくれますが、なぜだろうか。
おそらく、視界に眩しく光る物がなく、猫の瞳孔が全開する如く、人間の目や心が、共に見開かれるのためではないだろうか。
壮大な夜空を南北に割り、宝石をちりばめた、橋のない川、天の川。
年に一度、川を渡る、男女の逢瀬があると言う。
川幅は、何光年にも及ぶ事でしょう。
数え切れない星の数、砂粒一つが地球に値すると言うのですから、昔の人は、とてつもない、夢を描いたものだと感心させられます。
そして、昼間の原色の世界から、星座を眺め、エキゾチックな潮騒の淡い幻想に浸る時、心が穏やかに澄んで行くのが感じられますが、この大きな心の振幅の中から、人間としての情操が芽生え、育まれて行くのではないだろうか。
子供の頃、清らかな心の、まん丸い満月のような、欠ける所のない、立派な人間になりなさい、という意味の子守歌を聞き、満月を眺め育ちました。
星空を眺め、星の数は数えようと思えば、読めるけど、親の愛は、数えられない、という意味の歌など、今でもこの地方では、唄い続けられています。
誰もが思い出す、七夕祭りの彦星、織姫物語。
かぐや姫物語、月の砂漠の歌、幼い頃、歌い踊った、モーツァルト作曲のキラキラ星等、月や星を眺め、幻想的で、おぼろげな世界。
その昔、日本全国、電気や車はなく、空は澄み、おぼろげな星あかりの世界は、各地で感じられ、人々の心に、大きな影響を与え、情感豊かな人間味が育まれたのではないだろうか。
あなたは、愛する人の瞳に映える星を、見た事がありますか?
人生、昼間と夜は半分っこ、太陽の下で、星は輝きません。
また、我々の人生、陽のあたる時ばっかりとは限りません。
悩みや悲しみに光を求め、迷う時、星は一条の光を与えてくれる事でしょう。
人間として生まれ、月や星と無関係に生きるのは、大きな不幸ではないでしょうか。
星空に縁遠い都会の子供達、星の巡り合わせ、赤い糸で結ばれた親子の絆のあり方、子守歌代わりに、教えてやる必要があるのではないか。
人は、豊かな自然に触れる時、豊かな心が培われて行くのではないだろうか。
f1093 二十歳の夢
いち早くコンピューターを導入、ステンレスを設計図通り自由に曲げる技術を確立し、列車や飛行機の厨房システム、ホテルの大型厨房システムなどの特別注文品を作れる会社を設立し、二十歳の夢を見事に実現して見せのです。
小さな島から着の身、着のまま上京、金やコネ、頼れる人とてなく、自分の夢を追い続け、寸分の狂いない技術を確立するには、どれだけ知恵を絞り徹夜をしたのだろうか。
「この工場の地には、俺の汗が沁み込んでいるんだ」と言った言葉は、忘れられません。
共に少年時代を南の小島で過ごし、体一つで上京、二十歳の夢を語り貫き通した二人。
「夢は実現出来るものだなあ・・」としみじみ。
「いつまでも、老少年で生きよう、旨い酒を飲もう・・」と年に数回酒を酌み交わし、今だに未来を語り合う、弥次喜多道中の男同士。
いつの日も、友は宝だ、ライバルだ!
現在、人口5万人の八重山地区からは、著名な人達が数多く輩出しています。
中でも、昭和39年から12年間、早稲田大学総長を勤めあげた大浜信泉氏は、この地区の誇るべき師として仰ぐ大先輩の一人。
師が声を大にし「人は生まれた所で、価値が決まるものではない!」と言った言葉は、師ならではの、含蓄のある、奥深さを感じさせてくれます。
おそらく上京当時は、若く、命を賭けた決死の時代だった事でしょう。
そして激苦の人生を歩まれ、この言葉に表現されたのではないだろうか。
早大生はもとより、我々も師の言葉を座右の銘とし、後世まで引き継いで行きたいものです。
また、政財界にも多くの知人を持ち、当時の佐藤栄作総理大臣を動かし、「沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない」と言わしめ、実現。
プロ野球コミッショナーや数々の要職を歴任。
更に沖縄海洋博や、復帰後の復興に情熱を傾け、自ら尽力した事はあまり知られておりません。
他にも、カンムリワシと呼ばれ、全国を沸かせた、元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高君も、この地区の誇るべき出身者。
沖縄は戦前、戦中、戦後と波乱万丈の歴史を歩んで来ました。
また、沖縄出身者も一人として恵まれた人はいなかったはずで、上京して、それぞれの人生模様を体験したかと思います。
やはり人間は、ハングリー精神が大事で、ふるさとへ戻るに戻れない。
前へ行くしかない!
この気持ちが、強い人間に鍛えあげて行くのだろうか。
ふるさとは、辛き人生、慰める。
ふるさとは、いつも優しき母の顔。
f1092 サンゴの花
親サンゴは、動く事出来ず、自分の産んだ卵が、生き延びているのか、生死すら確認する事叶わず、2度と会う事も出来ず、ただひたすら、子の無事を祈るだけ。
私たちに、生き延びる厳しさを教えてくれ、まかり間違っても、殺めないで欲しい、と叫ぶ、親サンゴの願いが届くはず。
そしてサンゴの産卵、潮の流れが風となる、命の舞。
一度見ると、サンゴに対する愛着と理解が、一層深まるのではないだろうか。
また、黒島のサンゴに囲まれた海面下、1メートル前後の岩に、ある日忽然と、直径十数センチくらいの、岩の付け根が薄い茶色、花自体は、濃赤色のシャクナゲに似た花が咲きます。
薄くて、ゼラチン状の、ぬるっとした肌触りで、あまりにも薄く、潮流があると破れてしまい、咲く事は出来ません。
台風が綺麗に洗い流した後、潮流が殆んどない、直射日光が届く場所。
毎年咲く訳でもなく、同じ岩に咲くのでもなく、ある海域の何処か、一輪咲くだけの不可解な岩花。
サンゴの1種かと思いきや、4、5日後には跡形もなく消滅。
サンゴとは違う、微生物の集合体ではないかと思われ、今だに訳の分らない、幻の岩花。
観光客の多い今、幻の岩花は、見られるのだろうか。
二十歳の夢***昭和39年、小さな島から出て来た青年には、成人式とて、誰も祝ってくれる人はなく、同郷の親友と二人、着飾る同年代を横目に、お金のかからない新宿御苑へ出かけ、二十歳の夢を語り合いました。
ひかるは、テレビの世界で生きて行く事を表明したのは、当然。
親友は、人に使われるのは嫌いなので、人を使う人間になる。すなわち、社長になる事を表明。
当時、沖縄出身者だと、パスポートや身元保証人問題等ハンディキャップもあり、条件の良い会社へは、なかなか就職出来ず、使われる身で、よほど悔しい思いをした事でしょう。
30年後、親友は、立派な大社長になっていました。