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2025年01月01日
1008 別れの杯
空路が開かれた今では想像出来ませんが、当時、上京するには黒島から朝一便の船で石垣島迄行き、夕方石垣を出港し翌日の昼頃那覇港着、夕方那覇港を出、東京の晴海埠頭まで3泊4日、便数も週2便しかなく更にパスポート持参での上京。
もし危篤の知らせがあったとしても、帰郷するには最低一週間は必要。
ニキビだらけのあどけない顔の少年ながら、決して死に水は取れないだろうと、覚悟しました。
両親を前に生き別れの杯を交わさせてくれと頼み、別れの杯を交わしての旅立ちと成りました。
杯を交わす時、父は決して目を合わせまい、としていました。
拗ねているように視線を外し、何かを必死で耐えている様子。
多分、視線が合えば、上京は取りやめなさい、と口から出るのを耐えていたのでしょう。
両親にとって一番辛い時だったのかも知れません。
ひかる少年は、心から寂しがる両親の横顔を見せつけられ、白髪の様子や禿げ具合、シワの数までしっかりと瞼に焼き付け、刻々と迫る別れが辛く、この世で一番長い夜を過ごしました。
当時、石垣島の港は遠浅の為、沖縄本島行きの大型船が港に入れません。
7、8隻の橋渡船が沖の本船まで荷物や人を運び、最後に見送り人を運びます。
本船は一度目の汽笛でゆっくりと走り出し、見送り船は別れを惜しむかのように、周りを追走。
覚悟の上とはいえ、親との生き別れは、これが最後で2度と会う事が出来ないのかと思うと、あまりにも切なく、身を引き裂かれる程辛いものがあります。
妹は棒切れを突いてピコタン,ピコタン追いかけ「兄ちゃん、行かないで・・」と泣きじゃくる。
「兄ちゃん必ず帰るから」と諭し心を鬼にする。
1007小さな寝息
米国の統治下、勿論、保険制度もなく手術や渡航滞在費等、細々と暮らす一家にとって、とてつもない費用。
遊び疲れたのだろうか、妹は膝に抱かれ小さな寝息、ランプの薄灯かりに映し出される、疲れ切った父の横顔は、藁をもつかむ眼差し。
普段ですら無口な父は、更に無口になって行きました。
11歳の多感なひかる少年は、この大きな試練に家族が押しつぶされるのではないか、と不安に成り子供心にも明るく振る舞う。
無邪気な妹の遊び相手をするよう、心掛けたのでした。
そのうち小児マヒが伝染病でない事が分かり、明るさを取り戻して行ったのです。
9年後の昭和38年、ひかるは高校卒業と同時に東京へ出、魔法の箱、テレビを解明しようと決心。
経済的、精神的にもまだ暗いトンネルの中、上京は誰が考えても無理な相談。
心の内を父に相談すると「自分の思った通りやればいい・・」と一言。
しかし周りは大反対、年老いた両親と足の悪い妹を島に残し、なんで東京に出るんだ!
せめて沖縄本島位にしたらどうだ・・
無口な父は、ただ黙っているだけ・・
人間は一度不幸のどん底に落ちると後がなく、怖いものが無くなるのだろうか・・
これから先一家は離散、それぞれの幸せをコツコツと築き上げて行ったのです。