元禄以前というと、穀物は全粒で食べていた時代です。 元録になると精米や製粉の技術が進んで栄養のあるぬかの部分を捨てては白米にし、そばも更科にして芯の部分だけを食べるようになりました。その結果、偏った栄養によって脚気が国民病となり、多くの人が命を落としました。
早世した殿様が多い徳川家の将軍のうち13代家定、14代家茂は脚気からくる心臓病で若くして亡くなっています。 また、日清・日露の量戦争においても、敵の弾に当たって命を落とした兵隊よりも、脚気で亡くなった兵隊のほうが多いといわれるほど、脚気は怖い病気でした。
この脚気がビタミン不足からきていることがわかるのは、それからずっと後になってからのことです。
明治時代、ドイツに渡りコッホの下で最近医学を学んできた陸軍の軍医総督・森鴎外は、脚気は伝染病だという説を唱えていました。一方、海軍の軍医総監で、慈恵医大の学祖、鹿児島出身の高木兼寛は、イギリスの経験医学を学んできており、欧米の水兵に脚気はいないことに着目。欧米の水兵と同じものを食べれば、航海中、脚気で命を落とすようなことがなくなるのではないかと考えました。
そして、豚肉や黒パンといった洋食を海軍の食事に導入したところ、ひとりも脚気にならずに帰還したというエピソードが残っています。余談ですが海軍の食事はそれ以降、伝統的に洋食が中心となっています。
脚気の原因が解明されたのは、この後のことで、鈴木梅太郎博士が「オリザニン」という酵素を発見。その1年後にビタミンB1は発見され、これがビタミン発見の第一号となりました。
ここでようやく、ビタミンB1の不足が脚気の原因となっていたことが明らかになったのです。
江戸時代の庶民は、ビタミンの存在は知らなかったのですが、暮らしの中で脚気の予防法をちゃんと取り入れていたのです。 白米を食べる時には、必ず沢庵やぬか漬を食べていたのもその一例です。
「古漬けを水で洗って、トントントンと刻んで絞って、かくやのこうこって、乙なもんだ」という江戸落語の一節があります。 夏の暑い盛りに、暑気払いの一杯に欠かせない酒の当と言えば、必ずこの「かく
やのこうこ(覚弥の香々)」でした。
これは、ぬか床に奥に残っているキュウリやナスの捨て漬けのこと。そのあめ色になった酸っぱい漬物を冷たい井戸水で洗い、みょうがを刻んで、かつお節をまぶして食べると、夏バテでぐったりしたからだが、なぜかシャキッとしたそうです。
これは別に不思議でも何でもない話。長い間、米ぬかの中に漬かっていたビタミンたっぷりの「かくやのこうこ」が夏場に喜ばれたのは、非常に理にかなっています。貧しいながらも、こうした庶民の暮らしのなかには、健康に着ていくための食生活の知恵が色々見られます。
一方、当時の上流階級はというと、前述のように徳川の将軍たちは病気で早世しているケースが多かったのですが、そんな中、最期の将軍・慶喜は享年77歳、徳永歴代将軍の中で最も長命でした。
彼の人生をたどると、殿様というものの、一時は民間人に身を落とさざるを得なかった、ぜいたくばかりも言ってはいられなかった生活がうかがわれます。おそらく庶民が食べるようなものもなんでも食べたでしょうし、ウナギやドジョウも好物だったという逸話も残っていますから、ビタミンなどもちゃんと補うことができていたのだろうと想像されます。
こうした例を見るまでもなく、丸ごと食べることが人間の健康や寿命に、どれほど重要な部分を占めているか、お分かりいただけるのではないでしょうか。
実は、いまの日本人の食生活は、早死にした江戸時代の殿様と似通ったところがあるのではないかとみています。一見、量も回数も十分で満たされてはいるようですが、質的にはとても片寄っています。
野菜は「葉ごと皮ごと根っこごと」、「魚は「皮ごと骨ごと頭ごと」、穀物は全粒で、丸ごと食べる。
いまこそ、こうした食の原点に立ち返る時期に来ているのです
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