2度目の上洛から2年後の1197年悲運の大姫は若くして亡くなりました。
更にその2年後の年初、今度は「鎌倉殿」頼朝が帰らぬ人となりました。
【吾妻鏡】のよると死因は落馬。ほんとなのでしょうか?
この前後の記録が抜け落ちで真相が明らかにされていません。これまで暗殺説、溺死説、糖尿病説
性病死説など様々な説が上がって戦われましたがいずれもエビデンスが乏しく憶測の域を出ないのです。
ただいまでも暗殺説がまことしやかにささやかれるのは先述した頼朝の姿勢です。
〈俺たちと動く武士の棟梁が朝廷に媚をうっている。東国を捨てるのか?〉
〈リーダーが娘を天皇に嫁がせるようにしている。これじゃ清盛と同じじゃないか?〉
頼朝を支え続け鎌倉幕府という武家政権を打ち立てた東国ボスたちの間で「鎌倉殿」への不満があがってい
たことという見方です。
詳しくは下記をチェックしてご覧になってください。
https://news.yahoo.co.jp/articles/45aff661cdb24483b1a4bc06dddf22f28367b5f2
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