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2014年08月12日

激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で生き残った

おはようございます。
ecarです。

今日は

【太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で生き残った・・・・、8月に市民団体主催の講演会で69年前の過酷な体験を初めて披露する】

をお届けします
 


太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で生き残った、
数少ない元日本兵のうちの一人の体験談を基にした書籍が30日、
刊行される。
千葉県南房総市の児童文学作家、
かわな静さん(77)が、
同市在住の山口周一さん(95)から聞いた話を小説化した。

「硫黄島の戦闘について一兵士の証言はほとんどなく、
山口さんの話は貴重」(かわなさん)。

これまで口を閉ざしてきた山口さんも、
8月に市民団体主催の講演会で69年前の過酷な体験を初めて披露する。
 


山口さんは1944年6月、
2度目の応召で硫黄島に送られた。

本土防衛の要として、
島には陸海軍計約2万人が投入された。


約8カ月間、
来る日も来る日も地下壕の掘削作業を続けた。

重労働に加え、
水も食料も不足していた。
 


45年2月19日に米軍が上陸作戦を開始。
既に疲労と飢えで山口さんらに戦う余力は残っておらず、
壕の中で砲撃に耐えるしかなかった。

兵には自決用の手投げ弾が配られた。
敵に撃たれるか、

自決するか、
餓死するか。
選択肢は限られていた。

 


同3月13日。
山口さんは仲間8人分の水筒を抱え、
水を求めて夜の海に出たところ米兵に見つかり、
捕らえられた。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍の「おきて」は知っていたが、
動けないほど飢え、
渇いていた。


その4日後、
日本軍はほぼ最後となる総攻撃を始め、
ほとんどが戦死した。
 


捕虜になった山口さんは米国本土で終戦を迎え、
47年に送還された。

故郷の千葉県旧千倉町(現南房総市)にたどり着いたが、
誰も迎えに来なかった。

45年3月17日付の戦死公報が両親に届けられており、
墓も建てられていた。
両親と再会し、
涙を流した。
 


かわなさんが地元の老人介護施設に勤める友人を介して、
山口さんと知り合ったのは昨年春。

施設で硫黄島の戦闘を題材にした映画が話題になったところ、
「そんな(きれい事で語れるような)ものじゃなかった」
と口にした高齢者がいたと友人に聞かされ、
引き付けられた。

かわなさんは山口さんの元に何度も通って話を聞き、
約1年かけて山口さんが
「ひ孫」
に体験を語るという形で小説
「ひいじいちゃんは硫黄島の兵隊だった」
(精文社刊、税抜き700円)にまとめた。
30日から南房総市や館山市の書店で約600部が並ぶ予定だ。



かわなさんの「発掘」で、
それまで家族にも話したことはなかったという山口さんは初めて、
語り部になることを決めた。

8月23日午後1時半、
千葉県鋸南町の中央公民館で講演会に臨む。
山口さんは、
集団的自衛権をはじめとする最近の政治にも不安を感じるといい、
「戦争がどんなものか知らない政治家たちがいろいろ決めようとしているが、

戦争はやったらダメ。
「命令を出す方はいいが、
兵隊は大変だって」
と言い切った。




硫黄島
 
東京区部の南約1250キロに位置する小笠原諸島南端にある面積約22平方キロの火山島。
米軍は日本本土爆撃の中継基地と考え、
1945年2月19日に上陸。日本軍は島中に掘った総延長18キロの地下壕を駆使し、
3月26日まで徹底抗戦を続けた。
日本兵約2万2000人が戦死したといわれ、
島には今でも多くの遺骨が眠るとされる。



本日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar
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