2023年08月21日
カズの偉業、オシムの革命、フリューゲルスの消滅……Jリーグ30年史に刻まれた「重大ニュース・ベスト15」
Jリーグの誕生から30年。その歴史の中では、リーグの発展に深くかかわる様々な事件や、エポックメーキングな出来事が起こってきた。ここでは長年Jリーグを見守り続けてきたスポーツライターの加部究氏に、なかでも衝撃的で印象深い15のニュースをピックアップしていただく。決してポジティブなトピックばかりがランキング入りしたわけではないが、Jリーグのさらなる発展を願う、筆者の厳しい提言にも耳を傾けたい。
15位:2ステージ制を復活も短命に終わる
2015年、一般的な関心が薄れ、運営も厳しくなったJ1リーグは、多くのサポーターの反対を押し切る形で、11年ぶりとなる2ステージ制の復活を決断する。
だが、特に16年シーズンは年間勝ち点でトップの浦和レッズに「15ポイント」も及ばない鹿島アントラーズが、短期決戦の仕組みを活かして年間優勝を果たすという皮肉な結末となった。結局、復活させた2ステージ制は、わずか2年という短命に終わっている。
14位:神戸がイニエスタらの大型補強を敢行
20世紀末にEU内の移籍の自由を保証するボスマン判決が下ってから、欧州とJリーグの予算規模は格差が広がる一方で、トップレベルの外国籍選手にはしばらく手が出ない状況が続いていた。
だが、2004年から楽天がヴィッセル神戸の運営に乗り出し、17年に元ドイツ代表のルーカス・ポドルスキを獲得したのに続き、18年にはバルセロナとスペイン代表の黄金期に中核を成したアンドレス・イニエスタも手に入れる。その後もJリーグ内では傑出した投資を続け、ダビド・ビジャ(スペイン)、トーマス・フェルマーレン(ベルギー)、さらには大迫勇也など、国内外のトッププレイヤーを次々と獲得した。
34歳で来日したイニエスタは、ピッチ上でも群を抜くファンタジー溢れるプレーで観客を魅了。19年にはクラブ史上初タイトルとなる天皇杯制覇に貢献すると、翌20年のACLでは故障を押してプレーし、チームをベスト4に導いた。
13位:ヴェンゲル効果で名古屋が大変貌
Jリーグ開幕当初から不振が続いた名古屋グランパスは、1994年の第2ステージも最下位に終わり、目玉助っ人のピクシーことドラガン・ストイコビッチも出番が限定的で腐っていたという。
しかし、翌95年にフランス屈指の名将と謳われるアーセン・ヴェンゲルが監督に就任すると、チームもピクシーも一変した。コンパクトで組織的な戦術の中で、なによりピッチ上の選手たちの個性が最大限に引き出され、第2ステージでリーグ2位に食い込むと、天皇杯を制してクラブ初タイトルを勝ち取る。残念ながらヴェンゲル体制は1年半で終焉を迎えるが、その監督としての力量は、新天地のアーセナルでも十分に証明された。
12位:次々に発覚したパワハラ行為
1980年代にスポーツ紙で巨人を担当していた時期がある。当時の巨人はプロ野球界の中でも群を抜いて人々の関心が高かったので、連日大勢の報道陣が見守る前で練習が行われ、指導者が選手を殴れば「鉄拳制裁」とすぐに一面を飾った。衆人環視下でも蛮行が「厳しい指導」として正当化されていたわけで、同時代での似たような体験を経て、はるかに「見られている意識」が薄いサッカー界でパワハラが相次ぎ発覚するのは必然だった。
2019年に明らかとなった湘南ベルマーレの゙貴裁監督(当時)によるパワハラ行為を皮切りに、東京ヴェルディ、サガン鳥栖、ガンバ大阪などでも同様の問題が露呈していくのだが、実際Jリーグに限らずサッカー界全体におけるハラスメントの意識は呆れるほど希薄だ。せっかく指導者養成制度を他競技に先駆けて確立したのだから、今後は範となるべく、良質な指導を受けた選手たちが伸びていく流れを築いていく責務がある。
11位:挑戦し続ける先駆者カズ
Jリーグの開幕を控えた当時25歳の三浦知良は語っていた。
「今がピークだなんて思わない。一応、2002年までは頭にありますよ。常にワールドカップは目標だけど、ワールドカップに行ったらまた次の目標ができるだろうし、ずっと目標は上にあって、到達することもなくサッカーも終わるんじゃないかな。人生と同じですよ」
35歳で迎える自国開催の日韓W杯を視野に入れているというのは、半ばジョークだったはずだ。日本代表をW杯に導くためにブラジルから帰国し、“ドーハの悲劇”で94年アメリカW杯出場を逃した後には、セリエAのジェノアに挑戦。ブームの牽引車にはファンと同じくらいのアンチも存在していたが、「それが本当のスター」だと本人は自覚していた。
しかし、いつしかベテランの域を超えていく頃からは、アンチが消え、すべてのファンの尊敬の対象となる。若い頃は「ボクのようなタイプはキレがなくなったら終わり」と話していたカズだが、J2では50歳14日で得点し(Jリーグ最年長得点記録)、54歳12日でJ1のピッチに立った(J1最年長出場記録)。そして56歳となった現在は、ポルトガル2部リーグのUDオリヴェイレンセでプレー。Jリーグ初代MVPの現状を誰よりも驚いているのは、昔日のカズ自身かもしれない。
10位:G大阪が昇格→即3冠の快挙
ジュビロ磐田と鹿島アントラーズの二強時代を経た21世紀初頭のJリーグは、優勝争いから残留争いまでが紙一重で大混戦の様相を呈していた。それを象徴するように、2011年にはJ2から復帰したばかりの柏レイソルがJ1を制覇。同年にはJ2優勝を果たしたFC東京が、天皇杯を制している。
こうした流れの中で、14年シーズンにガンバ大阪が快挙を成し遂げる。前年に長谷川健太監督を迎えてJ2を制すと、昇格1年目にいきなり3冠という世界でも未曾有の大偉業を達成したのだ。
9位:若手の育成環境が依然として暗中模索
開幕当初、トップチームでの出場機会が限られる選手たちによるサテライトリーグを開催してきたJリーグだが、やがて形骸化して消滅。次に2016年からは、J1の3つのクラブ(FC東京、ガンバ大阪、セレッソ大阪)がU-23チームをJ3に参加させたが、この試みも長続きはしなかった(20年度で終了)。
欧州では各クラブがU-23やU-20などのチームを持ち、もっとも実戦を経て伸びていく年代の選手たちを強化する仕組みが確立されているが、Jリーグの場合は下位リーグへのレンタル移籍や特別強化指定制度を利用して若手の強化を図るしかなく、ユースや高校を経てプロ入りした選手たちの有意義な公式戦の場が確保されていない。結果、大卒選手がリーグの約半数を占めていく要因にもなっている。
アカデミーの逸材をトップレベルにまで育て上げる仕組みがなければ、今後世界との差を縮めていくのは難しくなる。またこの状況が続けば、リスク覚悟で早いタイミングで欧州挑戦を選択する選手が増えてくるかもしれない。
8位:草創期の雄ヴェルディの栄光と凋落
野球との差別化を際立たせて颯爽とプロの時代を牽引したのは、風貌もプレーも個性派だらけのヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)だった。技術と勝負強さを併せ持つ三浦知良、ラモス瑠偉らは、世界的な高額年俸も含めてオン・オフを問わず話題を提供し続けた。
だが、主力が高齢化し、観客動員が減少して経営が逼迫すると、読売新聞や日本テレビが相次ぎ撤退。読売グループはヴェルディを野球の巨人のようなナショナルブランドにしようと目論見、2001年にはホームタウンを当初の川崎から東京に移転したが、リーグが掲げる地域密着活動を疎かにしたツケは大きかった。その後、ヴェルディが去った等々力で人気を確立していく川崎フロンターレとは、くっきりと明暗を分けることになる。
7位:冤罪で潰された我那覇和樹という才能
Jリーグの最大の財産は選手であり、それは機構が何を差し置いても守るべきものだ。才能ある選手たちが、努力に即して活躍できる環境を担保できなければ、子どもたちも憧れを抱くことができない。
ところがJリーグは、明白な非を認める潔さを持たず、我那覇和樹という才能を潰した。2007年4月、川崎フロンターレに所属していた日本代表FWの我那覇は、感冒の症状が出たため点滴治療を受けた。それをスポーツ紙が「にんにく注射」だと誤報を流し、Jリーグはドーピング違反として、反論の機会さえ与えず拙速に当事者とクラブに処分を下してしまう。
我那覇は身の潔白を証明すべく、「誰もが自分と同じ思いをしてはならない」という強い責任感から、3440万円を払ってCAS(スポーツ仲裁裁判所)に訴え出て、全面的に申し立てを認められた。ところが、それでもJリーグは鬼武健二チェアマン(当時)が自らをけん責処分としただけで、我那覇への謝罪も経済的な補償もしていないという。
我那覇は42歳の今も現役でプレーを続けている(九州サッカーリーグのジェイリースFC所属)。しかし損なわれた時間は戻ってこない。もちろん、すでに当時とは機構側の責任者の顔ぶれも変わっている。だが、我那覇自身の名誉の回復を図るのに遅すぎることはない。
6位:数々の語録も生んだオシムの革命
洞察力と語彙に富む一見無骨でシニカルな指揮官は、瞬く間に人心を掴んでいった。
「サッカーが人生そのもの」だと言い切るイビチャ・オシムは、リスクを冒して勇敢に攻めに出ていくサッカーを、中位以下の順位が染みついていたジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に浸透させ、ファンを魅了していく。
2003年のオシム監督就任以降、クラブは一転リーグの優勝争いに加わり、05年、06年とリーグカップを連覇。オシムは日本代表に引き抜かれる運命を辿る。指導者、選手を問わずサッカーファミリーの指針として、彼は今も多くの人の心の中で生き続けている。
5位:磐田全盛を象徴する中山の4戦連続ハットトリック
1人のストライカーが4試合も連続してハットトリックを達成する──。それは、とりわけプロの世界ではありえないし、あってはいけない出来事だと思ったので、対戦相手に事情を聞いてみた。
すると、結局中山雅史を止め切れないのは、ジュビロ磐田の中盤の構成力が突出していたからだった。ドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、福西崇史、奥大介……。卓越したポゼッションが対戦相手の集中力と体力を削ぎ、動き直しを厭わない中山へ必殺のパスが面白いように通る。だから中山は「エリア内でどう動き、どこにボールを置くかで、ほぼ決まる」と、反復練習を繰り返した。
この偉業もあって、中山は1998年シーズンに36ゴールを量産して得点王に輝くのだが、チームの黄金期は完全優勝を果たす2002年まで途切れることなく続いた。
4位:DAZNマネー到来の功罪
2017年、Jリーグは『DAZN』と10年間で約2100億円と破格の放映権契約を結び、さらに23年からは11年間で約2395億円にのぼる新契約を締結することで合意に至った。
『DAZN』との契約で、Jクラブの財政事情は劇的に好転し、ファンもJ3まですべての試合を楽しめるようになった。だが反面、今後Jリーグは従来の均等配分から、成績やファンの増減といった結果配分中心へシフトしていくという。ところが結果配分を先行した欧州側の視線は、Jリーグの放映権配分の転換に懐疑的だ。
なぜなら、以来欧州各国リーグでは優勝を狙えるチームが絞られ、コンペティションとしての魅力が激減しているからだ。ドイツではバイエルンが10連覇、イタリアではユベントスが9連覇を達成するなど一強支配が目立ち、欧州リーグ協会の前事務局長などは「Jリーグは絶対に真似をしてはいけない」と忠告しているそうである。
Jリーグは創設以来、毎年のように世界でも稀な混戦が続き、むしろ欧州側はそれを羨んでいる。しかしJリーグは、アジアをリードしていくようなビッグクラブの誕生を望んでいる。結果配分がどんな変化を導くのか。その成り行きを注視していく必要がある。
3位:風間で上手くなり、鬼木で強くなった川崎
2005年からJ1に定着してきた川崎フロンターレは、関塚隆体制で3度もリーグ準優勝を果たすが、どうしてもタイトルに届かず、12年に満を持して風間八宏監督を迎えた。
その指導に即効性があったわけではないが、やがて「止めて、蹴る」という繊細な技術で優位性を示し始め、圧倒的なボール支配でファンを魅了。残念ながら風間時代も肉薄しながら頂点には立てなかったが、川崎で上手くなる流れは中村憲剛や大久保嘉人らベテランも例外ではなく、17年に鬼木達監督が就任すると一気に実力が開花する。
以降の6年間で4度のリーグ優勝を含む8つのタイトル(リーグカップ1回、天皇杯1回、スーパーカップ2回)を獲得。22年のカタールW杯でも、新旧の在籍者が日本代表の中核を成した。
2位:横浜フリューゲルスの消滅
1998年、オリジナル10のメンバーだった横浜フリューゲルスが消滅した。佐藤工業と全日空の共同出資でスタートしたクラブは、親会社が経営難に直面し、横浜マリノスに吸収合併される形で終焉を迎える。
衝撃の事実は選手たちにとっても寝耳に水で、クラブ側から報告を受けるのは朝刊に目を通した後だった。フリューゲルスに残された最後のタイトルは天皇杯。チーム内では、若い選手のアピールの場に使おうという意見も出た。しかし最後はゲルト・エンゲルス監督の「ベストで戦いたい」との声に若手選手たちも同意。結束したチームは、近隣の駅周辺で存続を訴えるビラ配りなども行いながら、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズ、清水エスパルスという強豪を倒して日本一に到達する。
指揮官以下選手たちは、存続への可能性を信じて勝ち続けた。しかし「誰か助けてくれないか!」というエンゲルス監督の呼びかけに応えるスポンサーは現れなかった。親会社に依存せず地域密着での活動を旗印に掲げたリーグとしては、痛恨の出来事だった。
1位:“無名”の鹿島が20冠、そしてR・マドリーに肉薄
Jリーグの開幕を控え、川淵三郎チェアマン(当時)に「99.9パーセント(参加は)不可能」と断じられた鹿島アントラーズが、専用スタジアムとプロを熟知するジーコという最適の伝道師を得て、奇跡的な発展を遂げた。
2000年に史上初の3冠を達成、09年にはJリーグ史上初の3連覇を飾るなど黄金時代を築くと、18年にはACLで初優勝。悲願のアジア制覇で国内最速の20冠という快挙を成し遂げる。こうしてリーグ屈指の強豪に成長した鹿島は、16年のクラブワールドカップでは世界を驚愕させた。
アジア勢として初めて決勝に勝ち上がった鹿島の相手は、“白い巨人”レアル・マドリー。開始9分に先制を許した鹿島だが、その後は怯むことなく柴崎岳の2ゴールで逆転。その後に追いつかれるが、終了間際に金崎夢生が受けたファウルで、仮にセルヒオ・ラモスにこの日2枚目のイエローカードが提示されていれば、鹿島が大きく勝利に近づいた可能性があった。しかし、主審はカードに手をかけながらも躊躇し、試合を続行。結局、鹿島は延長戦で2点を奪われて力尽きた。
思えば鹿島には、Jリーグ開幕前の欧州合宿でクロアチア代表に大敗し、ジーコを激怒させた過去がある。筋金入りの負けず嫌いな伝道師の魂は、脈々と引き継がれクラブの伝統となっていた。
15位:2ステージ制を復活も短命に終わる
2015年、一般的な関心が薄れ、運営も厳しくなったJ1リーグは、多くのサポーターの反対を押し切る形で、11年ぶりとなる2ステージ制の復活を決断する。
だが、特に16年シーズンは年間勝ち点でトップの浦和レッズに「15ポイント」も及ばない鹿島アントラーズが、短期決戦の仕組みを活かして年間優勝を果たすという皮肉な結末となった。結局、復活させた2ステージ制は、わずか2年という短命に終わっている。
14位:神戸がイニエスタらの大型補強を敢行
20世紀末にEU内の移籍の自由を保証するボスマン判決が下ってから、欧州とJリーグの予算規模は格差が広がる一方で、トップレベルの外国籍選手にはしばらく手が出ない状況が続いていた。
だが、2004年から楽天がヴィッセル神戸の運営に乗り出し、17年に元ドイツ代表のルーカス・ポドルスキを獲得したのに続き、18年にはバルセロナとスペイン代表の黄金期に中核を成したアンドレス・イニエスタも手に入れる。その後もJリーグ内では傑出した投資を続け、ダビド・ビジャ(スペイン)、トーマス・フェルマーレン(ベルギー)、さらには大迫勇也など、国内外のトッププレイヤーを次々と獲得した。
34歳で来日したイニエスタは、ピッチ上でも群を抜くファンタジー溢れるプレーで観客を魅了。19年にはクラブ史上初タイトルとなる天皇杯制覇に貢献すると、翌20年のACLでは故障を押してプレーし、チームをベスト4に導いた。
13位:ヴェンゲル効果で名古屋が大変貌
Jリーグ開幕当初から不振が続いた名古屋グランパスは、1994年の第2ステージも最下位に終わり、目玉助っ人のピクシーことドラガン・ストイコビッチも出番が限定的で腐っていたという。
しかし、翌95年にフランス屈指の名将と謳われるアーセン・ヴェンゲルが監督に就任すると、チームもピクシーも一変した。コンパクトで組織的な戦術の中で、なによりピッチ上の選手たちの個性が最大限に引き出され、第2ステージでリーグ2位に食い込むと、天皇杯を制してクラブ初タイトルを勝ち取る。残念ながらヴェンゲル体制は1年半で終焉を迎えるが、その監督としての力量は、新天地のアーセナルでも十分に証明された。
12位:次々に発覚したパワハラ行為
1980年代にスポーツ紙で巨人を担当していた時期がある。当時の巨人はプロ野球界の中でも群を抜いて人々の関心が高かったので、連日大勢の報道陣が見守る前で練習が行われ、指導者が選手を殴れば「鉄拳制裁」とすぐに一面を飾った。衆人環視下でも蛮行が「厳しい指導」として正当化されていたわけで、同時代での似たような体験を経て、はるかに「見られている意識」が薄いサッカー界でパワハラが相次ぎ発覚するのは必然だった。
2019年に明らかとなった湘南ベルマーレの゙貴裁監督(当時)によるパワハラ行為を皮切りに、東京ヴェルディ、サガン鳥栖、ガンバ大阪などでも同様の問題が露呈していくのだが、実際Jリーグに限らずサッカー界全体におけるハラスメントの意識は呆れるほど希薄だ。せっかく指導者養成制度を他競技に先駆けて確立したのだから、今後は範となるべく、良質な指導を受けた選手たちが伸びていく流れを築いていく責務がある。
11位:挑戦し続ける先駆者カズ
Jリーグの開幕を控えた当時25歳の三浦知良は語っていた。
「今がピークだなんて思わない。一応、2002年までは頭にありますよ。常にワールドカップは目標だけど、ワールドカップに行ったらまた次の目標ができるだろうし、ずっと目標は上にあって、到達することもなくサッカーも終わるんじゃないかな。人生と同じですよ」
35歳で迎える自国開催の日韓W杯を視野に入れているというのは、半ばジョークだったはずだ。日本代表をW杯に導くためにブラジルから帰国し、“ドーハの悲劇”で94年アメリカW杯出場を逃した後には、セリエAのジェノアに挑戦。ブームの牽引車にはファンと同じくらいのアンチも存在していたが、「それが本当のスター」だと本人は自覚していた。
しかし、いつしかベテランの域を超えていく頃からは、アンチが消え、すべてのファンの尊敬の対象となる。若い頃は「ボクのようなタイプはキレがなくなったら終わり」と話していたカズだが、J2では50歳14日で得点し(Jリーグ最年長得点記録)、54歳12日でJ1のピッチに立った(J1最年長出場記録)。そして56歳となった現在は、ポルトガル2部リーグのUDオリヴェイレンセでプレー。Jリーグ初代MVPの現状を誰よりも驚いているのは、昔日のカズ自身かもしれない。
10位:G大阪が昇格→即3冠の快挙
ジュビロ磐田と鹿島アントラーズの二強時代を経た21世紀初頭のJリーグは、優勝争いから残留争いまでが紙一重で大混戦の様相を呈していた。それを象徴するように、2011年にはJ2から復帰したばかりの柏レイソルがJ1を制覇。同年にはJ2優勝を果たしたFC東京が、天皇杯を制している。
こうした流れの中で、14年シーズンにガンバ大阪が快挙を成し遂げる。前年に長谷川健太監督を迎えてJ2を制すと、昇格1年目にいきなり3冠という世界でも未曾有の大偉業を達成したのだ。
9位:若手の育成環境が依然として暗中模索
開幕当初、トップチームでの出場機会が限られる選手たちによるサテライトリーグを開催してきたJリーグだが、やがて形骸化して消滅。次に2016年からは、J1の3つのクラブ(FC東京、ガンバ大阪、セレッソ大阪)がU-23チームをJ3に参加させたが、この試みも長続きはしなかった(20年度で終了)。
欧州では各クラブがU-23やU-20などのチームを持ち、もっとも実戦を経て伸びていく年代の選手たちを強化する仕組みが確立されているが、Jリーグの場合は下位リーグへのレンタル移籍や特別強化指定制度を利用して若手の強化を図るしかなく、ユースや高校を経てプロ入りした選手たちの有意義な公式戦の場が確保されていない。結果、大卒選手がリーグの約半数を占めていく要因にもなっている。
アカデミーの逸材をトップレベルにまで育て上げる仕組みがなければ、今後世界との差を縮めていくのは難しくなる。またこの状況が続けば、リスク覚悟で早いタイミングで欧州挑戦を選択する選手が増えてくるかもしれない。
8位:草創期の雄ヴェルディの栄光と凋落
野球との差別化を際立たせて颯爽とプロの時代を牽引したのは、風貌もプレーも個性派だらけのヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)だった。技術と勝負強さを併せ持つ三浦知良、ラモス瑠偉らは、世界的な高額年俸も含めてオン・オフを問わず話題を提供し続けた。
だが、主力が高齢化し、観客動員が減少して経営が逼迫すると、読売新聞や日本テレビが相次ぎ撤退。読売グループはヴェルディを野球の巨人のようなナショナルブランドにしようと目論見、2001年にはホームタウンを当初の川崎から東京に移転したが、リーグが掲げる地域密着活動を疎かにしたツケは大きかった。その後、ヴェルディが去った等々力で人気を確立していく川崎フロンターレとは、くっきりと明暗を分けることになる。
7位:冤罪で潰された我那覇和樹という才能
Jリーグの最大の財産は選手であり、それは機構が何を差し置いても守るべきものだ。才能ある選手たちが、努力に即して活躍できる環境を担保できなければ、子どもたちも憧れを抱くことができない。
ところがJリーグは、明白な非を認める潔さを持たず、我那覇和樹という才能を潰した。2007年4月、川崎フロンターレに所属していた日本代表FWの我那覇は、感冒の症状が出たため点滴治療を受けた。それをスポーツ紙が「にんにく注射」だと誤報を流し、Jリーグはドーピング違反として、反論の機会さえ与えず拙速に当事者とクラブに処分を下してしまう。
我那覇は身の潔白を証明すべく、「誰もが自分と同じ思いをしてはならない」という強い責任感から、3440万円を払ってCAS(スポーツ仲裁裁判所)に訴え出て、全面的に申し立てを認められた。ところが、それでもJリーグは鬼武健二チェアマン(当時)が自らをけん責処分としただけで、我那覇への謝罪も経済的な補償もしていないという。
我那覇は42歳の今も現役でプレーを続けている(九州サッカーリーグのジェイリースFC所属)。しかし損なわれた時間は戻ってこない。もちろん、すでに当時とは機構側の責任者の顔ぶれも変わっている。だが、我那覇自身の名誉の回復を図るのに遅すぎることはない。
6位:数々の語録も生んだオシムの革命
洞察力と語彙に富む一見無骨でシニカルな指揮官は、瞬く間に人心を掴んでいった。
「サッカーが人生そのもの」だと言い切るイビチャ・オシムは、リスクを冒して勇敢に攻めに出ていくサッカーを、中位以下の順位が染みついていたジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に浸透させ、ファンを魅了していく。
2003年のオシム監督就任以降、クラブは一転リーグの優勝争いに加わり、05年、06年とリーグカップを連覇。オシムは日本代表に引き抜かれる運命を辿る。指導者、選手を問わずサッカーファミリーの指針として、彼は今も多くの人の心の中で生き続けている。
5位:磐田全盛を象徴する中山の4戦連続ハットトリック
1人のストライカーが4試合も連続してハットトリックを達成する──。それは、とりわけプロの世界ではありえないし、あってはいけない出来事だと思ったので、対戦相手に事情を聞いてみた。
すると、結局中山雅史を止め切れないのは、ジュビロ磐田の中盤の構成力が突出していたからだった。ドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、福西崇史、奥大介……。卓越したポゼッションが対戦相手の集中力と体力を削ぎ、動き直しを厭わない中山へ必殺のパスが面白いように通る。だから中山は「エリア内でどう動き、どこにボールを置くかで、ほぼ決まる」と、反復練習を繰り返した。
この偉業もあって、中山は1998年シーズンに36ゴールを量産して得点王に輝くのだが、チームの黄金期は完全優勝を果たす2002年まで途切れることなく続いた。
4位:DAZNマネー到来の功罪
2017年、Jリーグは『DAZN』と10年間で約2100億円と破格の放映権契約を結び、さらに23年からは11年間で約2395億円にのぼる新契約を締結することで合意に至った。
『DAZN』との契約で、Jクラブの財政事情は劇的に好転し、ファンもJ3まですべての試合を楽しめるようになった。だが反面、今後Jリーグは従来の均等配分から、成績やファンの増減といった結果配分中心へシフトしていくという。ところが結果配分を先行した欧州側の視線は、Jリーグの放映権配分の転換に懐疑的だ。
なぜなら、以来欧州各国リーグでは優勝を狙えるチームが絞られ、コンペティションとしての魅力が激減しているからだ。ドイツではバイエルンが10連覇、イタリアではユベントスが9連覇を達成するなど一強支配が目立ち、欧州リーグ協会の前事務局長などは「Jリーグは絶対に真似をしてはいけない」と忠告しているそうである。
Jリーグは創設以来、毎年のように世界でも稀な混戦が続き、むしろ欧州側はそれを羨んでいる。しかしJリーグは、アジアをリードしていくようなビッグクラブの誕生を望んでいる。結果配分がどんな変化を導くのか。その成り行きを注視していく必要がある。
3位:風間で上手くなり、鬼木で強くなった川崎
2005年からJ1に定着してきた川崎フロンターレは、関塚隆体制で3度もリーグ準優勝を果たすが、どうしてもタイトルに届かず、12年に満を持して風間八宏監督を迎えた。
その指導に即効性があったわけではないが、やがて「止めて、蹴る」という繊細な技術で優位性を示し始め、圧倒的なボール支配でファンを魅了。残念ながら風間時代も肉薄しながら頂点には立てなかったが、川崎で上手くなる流れは中村憲剛や大久保嘉人らベテランも例外ではなく、17年に鬼木達監督が就任すると一気に実力が開花する。
以降の6年間で4度のリーグ優勝を含む8つのタイトル(リーグカップ1回、天皇杯1回、スーパーカップ2回)を獲得。22年のカタールW杯でも、新旧の在籍者が日本代表の中核を成した。
2位:横浜フリューゲルスの消滅
1998年、オリジナル10のメンバーだった横浜フリューゲルスが消滅した。佐藤工業と全日空の共同出資でスタートしたクラブは、親会社が経営難に直面し、横浜マリノスに吸収合併される形で終焉を迎える。
衝撃の事実は選手たちにとっても寝耳に水で、クラブ側から報告を受けるのは朝刊に目を通した後だった。フリューゲルスに残された最後のタイトルは天皇杯。チーム内では、若い選手のアピールの場に使おうという意見も出た。しかし最後はゲルト・エンゲルス監督の「ベストで戦いたい」との声に若手選手たちも同意。結束したチームは、近隣の駅周辺で存続を訴えるビラ配りなども行いながら、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズ、清水エスパルスという強豪を倒して日本一に到達する。
指揮官以下選手たちは、存続への可能性を信じて勝ち続けた。しかし「誰か助けてくれないか!」というエンゲルス監督の呼びかけに応えるスポンサーは現れなかった。親会社に依存せず地域密着での活動を旗印に掲げたリーグとしては、痛恨の出来事だった。
1位:“無名”の鹿島が20冠、そしてR・マドリーに肉薄
Jリーグの開幕を控え、川淵三郎チェアマン(当時)に「99.9パーセント(参加は)不可能」と断じられた鹿島アントラーズが、専用スタジアムとプロを熟知するジーコという最適の伝道師を得て、奇跡的な発展を遂げた。
2000年に史上初の3冠を達成、09年にはJリーグ史上初の3連覇を飾るなど黄金時代を築くと、18年にはACLで初優勝。悲願のアジア制覇で国内最速の20冠という快挙を成し遂げる。こうしてリーグ屈指の強豪に成長した鹿島は、16年のクラブワールドカップでは世界を驚愕させた。
アジア勢として初めて決勝に勝ち上がった鹿島の相手は、“白い巨人”レアル・マドリー。開始9分に先制を許した鹿島だが、その後は怯むことなく柴崎岳の2ゴールで逆転。その後に追いつかれるが、終了間際に金崎夢生が受けたファウルで、仮にセルヒオ・ラモスにこの日2枚目のイエローカードが提示されていれば、鹿島が大きく勝利に近づいた可能性があった。しかし、主審はカードに手をかけながらも躊躇し、試合を続行。結局、鹿島は延長戦で2点を奪われて力尽きた。
思えば鹿島には、Jリーグ開幕前の欧州合宿でクロアチア代表に大敗し、ジーコを激怒させた過去がある。筋金入りの負けず嫌いな伝道師の魂は、脈々と引き継がれクラブの伝統となっていた。
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