新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2022年03月13日
えっ、Sam Cooke聴いてるの?
時は昭和最後の年、たくさんの夢を抱えて東京に出て来たもののサラリーマン生活に耐えられなくなり挫折。
なんのあてもないので「an」だったか「FROM A」だったかを見ながらあるひとつの募集に目が止まった。
「ガラスの窓拭き」だ。
あなたも街でビルの上からロッククライミングのようにガラスを拭きながら降りてくる人を一度は見たことがあるのではないだろうか?
そう、あれだ。
なぜガラスの窓拭きをしようと思ったのかは全く分からないが、とにかく作業時間が短いのにお給料が良かった。
研修で社員の方が「窓ガラスの無いビルは無い」と言う言葉は今でも覚えている。
渋谷の高層ビル、原宿のブティック、品川のマンションや、横浜のレストランでは窓ガラスが少しでも汚れていると綺麗な景色が半減するので店長さんが窓拭きをしている現場に立ち会い「ここが残ってる、あ、ここが残ってる」と厳しいチェックを受ける現場もあった。
夏は日差しの照り返しがキツく、冬は極寒だったが、春と秋はとても快適だった。
僕は中学生、高校生とバンドを組み、当時はBOØWY、HOUND DOG、EARTH SHAKERなどを演奏していた影響でほとんど日本の音楽を聴いていた。
しかしある日、何故か分からないけど急に「SOUL/R&B」が聴いてみたいと言う気持ちになり近所の貸レコード屋へ。
「SOUL/R&B」コーナーでLPレコードを何枚か見てもあまり曲も名前も知らない人ばかりなのでジャケットにビビッときて手にしたのが
Sam Cooke – Live at the Harlem Square Club 1963
家に帰ってこのレコードに針を落としたら、あまりの衝撃で僕は動けなくなった。
なんだこれは…
それからSOUL/R&Bの世界にどっぷりハマって行く事になる。
当時僕がいたガラスの窓拭きのバイトはお昼ご飯を食べるとビルの踊り場などでみんな昼寝をしていた。
いつものようにお昼ご飯を食べてWALKMANで音楽を聴きながら「さて、昼寝をしよう」と思ったら同じグループになったばかりの鈴木さんがニコニコしながら
「何聴いてるの?」と声を掛けてきたので
僕が「Sam CookeのLiveです」と言ったら鈴木さんの表情が一変し真顔で
「えっ、Sam Cooke聴いてるの?ちょっと聴かせてもらっていいかなあ?」
と言うので「ああ、どうぞ」とWALKMANを渡すと鈴木さんは座ったまま真剣な表情で時に体でリズムと取りながらずっと聴いていたので、休憩中に僕のWALKMANは返って来なかった。
休憩が終わり鈴木さんが僕にWALKMANを持ってきた時「ごめん、ずっと聴いて。このアルバムは初めて聴いたわ、すごいな」とやや放心状態であった。
そして鈴木さんが僕に「今度良かったらウチに来て音楽の話しながら飲まない?」と言った。
この日から僕と鈴木さんの新しい音楽の旅が始まる。
2022年03月12日
父の運転免許証を返納せよ3
父「買い物行こうか」
母「買い物行くってどうやって行くん?」
父「どうやって行くんて車で行くんよ」
父は昨日の事を覚えていなかったのだ。
母「昨日運転免許証返したやん」
父「はあ?返しとらんよ」
昨日発行された運転免許の取消通知書を見せても「警察はこんなもの作らん、アンタが作ったんやろ?」と言った感じだ。
昨日の喜びと感動に包まれた本当に幸せな一日とはいったい何だったのか。
62年間無事故無違反のまま終わったのに、これで無免許のまま運転されて事故を起こしたらたまったものではない。
こうなったら妹が仕事に行く時に車の鍵を持って行ってもらい、物理的に車に乗れない状況にするしかない。
車の鍵が無い事にイライラして歩いて車まで行き、そこで転倒してまた頭を打っても、大腿骨頚部骨折しても仕方がない。車の運転だけは絶対に阻止しなければならないのだ。
妹が仕事の日は物理的に運転出来なくなったのだが、次は僕が実家に帰っている時の対応である。
父は買い物や病院に行こうかと言うと自ら車の鍵を取り車に向かうので、その度に「今日は僕が運転するよ」と言ったり、それまであまり運転してなかった妹が「運転の練習をするから助手席に乗って」と言うと助手席に乗るようになった。
「今日は」僕が運転する。
「今日は」助手席に乗って。
「今日は」母と後部座席に乗って。
と言うと「また?運転せんと感覚を忘れるわ」と言いつつもしぶしぶ運転席以外に乗ってくれるようになった。
僕らは決して怒らず、声を荒げる事もなく父を運転席以外に穏やかに誘導する生活を3週間ぐらい続けたら
父は運転すると言わなくなった。
父の運転免許証を返納せよ2
2020年10月27日、父を連れて自動車学校へ
アルツハイマー型認知症と診断された以上、もう運転免許証の更新が出来ない事は確定している。
しかし、父にそのことを少しでも理解してもらう為に敢えて試験を受けてもらった。
しばらく待つと係の人から呼ばれ、試験結果の結果が告げられた。
「運転免許証の更新が出来ません」
そう言われた父はしばし呆然とし、何が起こったのか分からない様子だった。
前回までは自動車学校で新しい運転免許証用の写真を撮り、更新されたピカピカの運転免許証をニコニコしながら持って帰っていたのに、初めて不合格通知を持って帰ることになった。
家に帰り、やや重たい雰囲気で昼食を済ませ「父に言うのは今日しかない」と僕は覚悟を決めて
「免許の更新が出来なかったから今日免許を返さないといけない」
と父に言った。
そう言われた父は「えー!何で?」と今にも泣き出しそうな表情であった。
それは今まで大切に大切にしていた大事な宝物を取り上げるようだった。
辛さをグッと堪えて「今までいろんな所に連れて行ってくれてありがとうございました、62年間無事故無違反は本当に凄いことです、無事故無違反のまま終わろう」と言ったら少し間を置いて父はようやく首を縦に振った。
それから警察署へ行き運転免許証返納の手続きをした。
そして実家で少し早い夕飯をみんなで食べた。
この時、父はとっても明るかった。
それとも無理に明るく振る舞ってたのかな?
僕らに課せられたラストミッションは「父が大好きな車の運転を62年間無事故無違反のまま終わらせる」であった。
これでミッション完了である。
夕食を済ませ、父と母が2人きりになった時父が
「62年間無事故無違反で終われたのはさっちゃんのおかげだ、ありがとう」と言って母は涙したと言う。
母も「あんな事言ってくれると思わんやった」と嬉しそうだった。
喜びと感動に包まれた本当に幸せな一日だった。
しかし次の日、父が母に言った衝撃の一言に僕らは凍りついた。
つづく
2022年03月11日
父の運転免許証を返納せよ
2020年10月、我が家はある問題を抱えていた。
父の運転免許証の更新である。
父は仕事でもプライベートでもよく運転していて車と車の運転が大好きだ。
そんな父がこの年の6月、路上で後ろ向きに転倒した際に後頭部を打ち、救急車で病院に搬送された。
担当した医師は「脳から少し出血がありますが、転倒して頭を打ったから出血したのか、出血したから転倒したのか、どっちが先か分からない」と言っていた。
父は普段の会話は成立し、昔の事は事細かに覚えているのだが、朝ご飯を食べてしばらくすると「ご飯はまだか?」と言ったり、さっき買い物に行ったのに「買い物行こうか」と言うようになり、とにかく新しい出来事を忘れるようになっていた。
高齢者の運転免許証の更新はまず、指定の医療機関で講習予備検査(認知機能検査)を受けなければならない。
僕が父に「運転免許証の更新に病院の許可が必要になった」と伝えると、運転免許証の更新に必要なら仕方がないと思ったのか「じゃあ行こうか」と市内にある病院へ。
椅子とテーブルが置かれたカウンセリングルームに通され検査が始まった。
看護師さんから「今日は何月何日何曜日ですか?」と聞かれると「今日?何日やったかなあ?」と僕に聞いて来たり「ここはどこですか?」と聞かれると「どこでも良かろうが」と徐々にイライラして来て、「少し前にお見せした3つの絵を教えて下さい」と聞かれると「そんなん知るか!帰る|」と声を荒げた。
父をなんとか宥め、医師の診察を終えて帰宅。
それから数日が経ち、検査を受けた病院から封筒が届いた。
その封筒を開けてみると
アルツハイマー型認知症と書かれてあった。
この事実を父に伝えないといけないのだが父は認知症だとはこれっぽっちも思っていない。
僕らが言っても「何を言ってるんだ、違う」と言うので父が信頼している循環器内科の主治医だったら事実を受け止めてくれるのではないかと思い、病院に相談してみると
「主治医からお父様にあなたは認知症なので車の運転は控えた方がいいと言ってお父様がその時分かりましたと言っても次の日には忘れていると思います」
と言う事だった。
僕らは空を見上げた。
つづく
2022年03月10日
彼女の謎とは?
ウチから最寄り駅まで徒歩10分少々。
朝、久しぶりに駅まで歩いていた。
普段10分少々歩く事がほとんどない僕だけど、東京で生活していたので歩くのが早いと言われていた事もあった。
途中喉が渇いたので、自販機で缶コーヒーを買っているとスーツを着た若い女性が僕の横を走って行った。
「乗りたい時間の電車がギリギリなのだろうか?」
「間に合うといいな」
と思いながら缶コーヒーをバッグにしまい再び駅まで歩く。
すると、さっき僕の横を走っていった若い女性と信号待ちで一緒になった。
信号が青になり、若い女性は再び走り出し、僕はまた歩き出す。
ここで異変に気付く。
確かに彼女は走っているのに歩いている僕の方が次の信号まで先に着いてしまったのだ。
「何かがおかしい」
信号が青になり再び僕は歩き出し、彼女は走り出した。
「この謎を解かなければ」
と思い、僕は一旦止まって靴紐を結ぶフリをして彼女を見た時、ついにその謎が解けた。
彼女は前ではなく上に飛びながら走っていたのだ。
常に上に飛んでいるので歩幅が極端に狭い、だから歩いている僕の方が早いんだ。
ようやくその謎が解けた僕は再び歩き出すとまた彼女を抜いた。
僕が先に駅に着いて切符を買いながらふと駅の入口を見たら
彼女が走って改札に向かっていた。
2022年03月09日
DLB レビー小体型認知症 私論2
母に幻視が見えるようになって、月に一回行く腎臓内科へ
この日は僕が付き添いで行っていて一緒に診察室に入り、診察を終える時母が先生に
「先生、最近家の中で人や動物や虫などが見えるんやけど、この人(僕)は見えんて言うんですよ」
と言うと先生は
「あー、例えばテレビに俳優さんが出ていて場面が切り替わったら一般の方はその俳優さんは消えるんだけど、あなたはそれがしばらく残ってしまうんです」
「そう言われる方は結構いらっしゃいますよ」
「あなただけじゃないです」
と言われた母は
「私だけじゃないんだ」
と少し納得した様子だった。
僕らには見えないけど母にはたしかに見えてるのだ。
それからまた部屋で人や動物や虫がいると言っても「そんなのいないでしょ!」と頭から否定するのではなく、例えば「カーテンに蛇がいる」と言ったら「蛇がいる?来て来て、どこに蛇がいる?」と母と一緒にカーテンを見ると「あら、おらんわ」と納得し、落ち着くようになった。
カーテンは下の部分の波の形に見えるところが蛇に見えたり、壁のシミなどが虫に見えたりするようだ。
四六時中あれが見えるこれが見えると言うわけではないので、言われたら一旦受け止めては返すの繰り返しをしている。
それから数日が経ち、母が窓の外を見て驚いた顔で
「見てん!象が歩きよる」
と言ったので僕は反射的にスマホを取り出し電話をして
「もしもし、ウチの外に象がいるんですよ!えー!そうなんですか、はい、分かりました、よろしくお願いします」と言って電話を切って
母に「アフリカンサファリから象が逃げて職員全員で探してたんだけど見つからなかったんだって。これから引き取りに行きます、ご連絡ありがとうございますって」と言ったら母は
「良かったぁ」
と言って嬉しそうにお茶を飲んでいた。
2022年03月08日
緊急メッセージ
2022年03月07日
DLB レビー小体型認知症 私論
レビー小体型認知症をご存知だろうか?
現在、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症が三大認知症と言われおり、レビー小体型認知症はアルツハイマー型認知症に次いで2番目に多い。
僕の母はレビー小体型認知症である。
一昨年の夏、僕が実家に帰った時母が廊下に殺虫剤のを撒いていて「どうした?」と聞いたら「虫がいっぱいおるじゃー、アンタ見えんの?」と言った。
しかし、この時虫は一匹もいなかった。
それからたまにであるが「部屋の中に小さな女の子や猫や蛇や魚がおる」窓の外を見ると「象やキリンが歩いとる」と言うようになった。
これが「幻視」だ。
レビー小体型認知症の症状はいくつかあるが、僕の母はこの「幻視」と「突進歩行」がある。
ある日、母に電話をしたら暗めのトーンで「私は裏切られた」と言うので、僕が「どうした?」と聞くと
「お父さんが彼女を連れてきて一緒に寝とる」と言った。
それから母の幻視に対して様々な工夫をするようになる。
つづく
2022年03月05日
アーシングの話
季節は冬から春へ
この時期、転勤などで住む場所が変わる人もいれば、新しい環境に身を置く事になる人も多いだろう。
春は「スタート!」と言う言葉が似合う。
新しい生活が始まると言う期待が膨らむと同時に、もう一つあなたの身体にその期待と同じぐらい溜まっているものがある。
それは「電気」だ。
あなたが今自宅にいるのなら周りを見渡して欲しい。
テレビ、エアコン、電子レンジ、オーブントースター、パソコン、スマホ、ホットカーペット、ドライヤー、Wi-Fi…
Wi-Fi?
Wi-Fiと言えば僕が初めてiPhone3GSを買いに行った時、店員さんに「このウイーフイーってあるじゃないですか?」と聞くと「あ、ワイファイですね」と言われ赤面した事を思い出した。
話を戻そう。
あなたの身体には電気が溜まりまくっているのだ。
身体に電気が溜まると主に
身体が疲れやすくなる
夜眠れなくなってしまう
原因不明の体調不良
などがある。
そんなあなたにおすすめなのがアーシングである。
あなたは海や山や川、それらが遠ければ近くにある公園に行こう。
そして靴と靴下を脱いで裸足になり、10分程度大地に足の裏をつけるのだ。
するとあなたの身体に溜まっていた有害な静電気が地中に排出されて、さらに地中からの自由電子があなたの身体に取り込まれることで免疫機能まで促進される。
良いことしかない、しかも費用は一切かからない。
このご時世、ずっと引きこもりの生活だっただろう。
しかし、季節はもう春だ。
あなたも春の陽射しを浴びながら空を見上げてみないか?
2022年03月04日
真ちゃんの話
僕は小学生の頃からプロレスが大好きで、ウチの田舎にプロレスが来ようものなら胸をときめかせながら会場に足を運んだ。
しかし、18歳で上京してからあまりプロレスを見なくなっていたのですが、1990年2月10日、当時のバイト先がスポンサーだったので招待券で行った新日本プロレスvs全日本プロレスの「スーパーファイトin闘強導夢」が最後だった。
そんな時、研修会でたまたま隣の席に座った同業者の真ちゃんと出会う。
「どちらからいらっしゃったのですか?」
「川崎です」
「えー!僕も川崎です」
「今度メシ行きましょうよ」
と連絡先を交換した。
何回か会う中でプロレスの話になり
「今度スタンハンセンの引退セレモニーがあるんですが一緒に行きませんか?」
と言われ、一緒に行くことになった。
それが2001年1月28日、東京ドーム。
実に11年振りのプロレス生観戦、この大会にはテリーファンク、アブドーラザブッチャー、ミルマスカラス、そしてスタンハンセン…入場テーマが流れるたびに胸が熱くなり、ハンセンが引退セレモニーで「ブルーザーブロディーに対して、良き友人、そしてベストパートナーであった事を誇りに思い感謝します」と言った時には涙が止まらなかった。
僕の心に眠っていたプロレスLOVEが完全に蘇った。
それから真ちゃんと2001年4月15日、NOAHの初代GHCヘビー級王座決定トーナメント決勝が行われた有明コロシアム、2003年7月18日、闘龍門の川崎市体育館、FMW川崎球場などに行き、全日本プロレスの日本武道館に行った時に前半戦の何試合目かに僕が真ちゃんに
「今の試合面白くなかったね」
と言ったら真ちゃんが
「いや、僕は10分過ぎのあの切り返しが良かった」
「あのタッチワークのタイミングが良かった」
「やられた時に向かっていくあの表情が良かった」
と言われハッと気がついた。
真ちゃんはプロレスを「加点方式」で見ていて
僕はプロレスを「減点方式」で見ていたのだ。
「なんて勿体無い事をしていたんだ」
と思い、その次の試合から加点方式で見るように意識をした。
すると今まで気が付かなかった部分まで見えるようになった。
もっとプロレスが楽しくなった。
真ちゃん、ありがとう。
あなたも減点方式で見なければならない時が多いかと思いますが、少しでも加点方式で見る機会があったらいいなと思います。
あなたの周りの人とか。