アフィリエイト広告を利用しています

2025年02月21日

上を向いて歩こう!


nemuina.jpg ← 眠い顔の坊ちゃん。


ご訪問頂き有難うございます。感謝致します。


皆様、いかがお過ごしでしょうか?九州は日中、風も強くて肌寒くはあれどお天気が続く数日間です。寒いけれど雨や雪と違いお天気なので行動もし易くて助かっています。

今日のタイトルですが「上を向いて歩こう」という歌をご存じでしょうか?坂本九さんの名曲です。リリースは1961年。64年も前にリリースされてそれから長年愛され続け、海外でも「SUKIYAKI」という曲名でビルボードチャートにも上がり、様々なアーティストにカバーされて今も愛されている曲です。

私の世代ではないので坂本九さんを詳しく存じ上げませんが、この年齢になって曲も歌詞もやっと噛みしめて理解できるようになりました。言葉がスッと入ってくるとでも言いましょうか。

♪ 上を向いて 歩こう 涙がこぼれないように 思い出す 春の日 一人っぽっちの夜 ♪

19日の午前4時48分に伯母が永眠しました。96歳で今年の夏に97歳になる予定でした。
19日は疲れていてもなぜか眠れず、夜中3時40分に布団に入ると、3時55分に病院から電話で「脈が30くらいになっています」と言われ、急いで着替えて病院へ。母と急ぎつつ「間に合って欲しい!」と思っていましたが、私が電話を受けて10分後には心肺停止していたそうです。

急いで病院へ行くと担当看護師が夜勤中で「電話をする少し前まではいつもと変わりませんでした。本当に急変してしまって。ただ電話の後すぐに心肺停止になりまして」と話して貰いながら病室へ。するとモニターはずっとピーッとなったままで赤い「0」の表示が。
思わず「伯母はもう亡くなっているんですよね?」と尋ねるも医師ではないので看護師さんは断言は出来ず「そうですね。医師からの宣告がありますので、お待ち下さい。呼んで来ます」と言われた後は、私も母も伯母の戦い抜いた変わり果てた顔を撫でながら、泣きました。

20分待たされている間、モニターは切られず鳴りっぱなしで「先生が遅すぎる」と思っていたら、インターンなのかとても若い女医さんが一緒に来られて亡くなっている宣告を時間と共にされました。
「ありがとうとお疲れ様と大好きだから」と母と一緒に何度も耳元で伝えました。開いていた右目がゆっくり閉じられていくのを見て、到着前に心肺停止していたけど私達を確認して目を閉じてくれたんだと思っています。

長い付き合いの伯母、親戚の中で一番好きだった伯母、苦労ばかりで一生懸命働き続けたけれど夫のせいで楽には暮らせなかった伯母。1度目の夫とは性病をうつされて子供を2人死産してから子供を産めなくなりました。それでも夫は浮気をやめない。別れようと逃げるも、祖母が反対し一度は戻るも変わらない夫に見切りをつけ離婚。2度目の夫は浮気はしないけど酒好きの博打好き。酒乱でギャンブル狂でしたから長年借金地獄です。弟である伯父さんが伯母の夫に「姉ちゃんを苦しませないでくれ」と直談判しても変わらずだったそうです。

支払ったのに騙されたのも含めて数千万円の借金を伯母が返し続けましたから、お金も無いしアクセサリーや宝石などもありません。
当然、伯母の遺産もありません。

伯母の荷物を整理しながら ほとんどが私と母で購入した衣類ばかりでした。アクセサリーも大昔のメッキの錆びついたオモチャのようなブローチが数個。96年生きてきて、財産になるような物が1つも無い事が伯母の苦労を思わせて一層涙が出ました。「ああ、本当に苦労ばかりしたよね。楽しかった事ってあったかなぁ」って。

そして思い起こせば、それでも伯母は丁寧な暮らしをしていたんです。破れた物は縫って大事に使うし、手袋が無ければ着なくなった毛糸のベストをほどいて編んで。質素ではありますが、色々な物を手作りし野菜をしっかり食べていて。それも自分で育てた野菜を美味しく食べて漬物を作って。
私がチューリップの球根や花の種を買って渡せば上手に育てて。育った花は台所とトイレにも必ず飾って。
季節によってチューリップやムスカリ、水仙にシャクナゲ。花のある生活でした。私にも「持って帰って飾ったら良い」と庭の花を切って渡してくれていました。懐かしい思い出です。

80歳を過ぎてから認知症が始まり、81歳の時までは庭の散歩もしていました。それからは認知症は酷くなっていきましたけれど。伯母が一番元気だった頃は70代の頃。私も20代でしたし(笑)だから私が何枚もプレゼントした割烹着を着てよく動いて、早口で話していた元気だった伯母を覚えていようと思います。
私の名前を上がり調子で呼ぶ言い方、大好きでした。もう昨年からは私の事も忘れていきましたが、大丈夫。私は伯母を忘れないからいつでも思い出せます。

亡くなってから朝の5時から葬儀場に電話をし朝の6時に病院へ来て貰う算段をつけ、一旦帰って猫部屋に行き坊ちゃんにご飯をあげたら帰って顔と髪を洗って化粧をしまた病院へ。それから葬儀場に行きお寺にも話を通しに行きと目まぐるしかったです。母ではなく、私が喪主となりました。

20日に火葬を済ませてお骨を拾う際にスタッフの男性の方がお骨の説明の際に「76歳ならしっかり骨が残っている方です」と言われたので「え?96歳ですけど…」と言うと「え?」と言われ、「失礼しました。だとしたら96歳でしっかり骨が残っている方です」と言い直されました(笑)これは「〇〇歳でならしっかり骨が残っている方です」と言うのは絶対にマニュアル化された言い方だと気が付きました(笑)年齢を当てはめて言っているんでしょうが、まず年齢を間違えちゃいけません(笑)

お寺に納骨をして家に戻ると夕方5時を過ぎていて、朝食しか食べておらずコーヒーを急いで飲んでお菓子をつまんでまた坊ちゃんの元へ行きました。坊ちゃんがキャットタワーに胃液を吐いていて、ご飯をあげた後にササッとトイレ掃除をしカーペットクリーナーでキャットタワーを洗いました。する事が多すぎる上に、坊ちゃんは甘えモードで抱っこ抱っこと飛び付いてきました。坊ちゃんのタプタプしたお腹と体の柔らかさにちょっと癒されました(笑)

あとは22日に伯母が放置したままの伯母の夫である伯父さんの「仏壇閉じ」でお経をあげに住職さんに来て貰います。浄土真宗は「仏壇の魂抜き」とかは言わないそうで「仏壇閉じ」と言うそうです。
それから仏壇屋さんに後日来て頂き持って行って貰う事になっています。
凄い金額になるみたいです(汗)ちなみに伯母はお金がありませんから葬儀代もお寺さんに支払う金額も仏壇屋さんに支払う金額も数十万円は母と父と私で出しています。伯母には年金も無く子もいませんから。働いたお金は全て借金払いでした。伯父の借金で蔵が建つくらいだと言っていましたから…。

母が「これが大好きな姉ちゃんにしてやれる最後の事」と言うので、お金がかかっても私も納得しています。母の「姉ちゃんがお母ちゃんよりもずっと好きだった。親より姉ちゃんが好きやった」と言っています。母と伯母は19歳と親子ほど年が離れていますし。車の中で私が「我慢しないで泣きなよ。泣かないと気持ちの整理も心の浄化も出来ないよ。思いっきり泣いて良いんだから」と言うと「我慢してた。寂しくて仕方ない」と大声で「姉ちゃ~ん!寂しいよ~!」と子供の様に泣いていました。「泣いていいよ、私も寂しい。寂しさの共有をしよう!」と話しました。

もっと出来る事があったのでは?と考えもします。後悔もあります。でも以前からブログに書いていたように「きっと後悔はするんだから、出来る事は一杯しよう!」のスタンスで頑張ってきました。介護自体は16年ちょっと超えるくらいですが、付き合い自体は伯母が九州に越して来た後からなので37年くらいでしょうか。ずっと伯母と向き合ってきました。それこそ母よりも誰よりも。

私自身、至らぬ姪っ子ではありましたが、伯母は手放しで私を褒めてくれて(あんまり褒めるとこもないのに)いつだって受け入れてくれて、そして病気がちな私を心配し「ウチが死ぬ時には代わりに病気を貰ってあの世に持って行くきね!」と言ってくれた伯母の言葉を忘れません。そして私がヘルニアで倒れた事も伯母は知らないままだったでしょうが(笑)
伯母のような野菜好きにはなれませんが、伯母の素朴で丁寧な暮らし方をいつもお手本にして無理のない範囲でこれからもボチボチ楽しく明るく生きていきたいと思いました。

まだ伯母の家の裏の猫部屋に坊ちゃんはいますし、私も坊ちゃんと暮らす準備を始めたばかりでリフォームもしないといけません。伯母の家の電気と水道代はまだ私が支払っていますが、そのどちらも切る事になります。数か月後になるかもしれませんが、その時に改めて伯母のいない生活感の無い家、伯母が本当にもういないんだと実感が湧くのだと思っています。スマホに撮った昨年の2月の伯母の動画は消さずに取っておいて、伯母に会いたくなったら動画を見ようと母と話しています。

ほとんど伯母の介護日記と言いますか、介護記録の意味も兼ねてブログを書いている面もありました。
伯母がいないのをまだ実感しておらず、明日からもわざとに動いて考える時間を減らして体を動かして時間が解決してくれるように過ごすつもりです。兄からも「頼んだぞ。ちゃんと見送ってやってね」と言われていたのと、母も私に頼っているので率先して頑張って伯母を見送りました。だからまだ精神的にも興奮状態と言いますか、考えると涙が出ますし上を向いて涙がこぼれないようにしています。

まだしなくちゃいけない事もあります。仏壇も処分し、伯母の家の中もある程度片付けたりして、並行して私の家と部屋のリフォームも。する事はまだ一杯ありますが、母の病気と伯母の介護の為に仕事も辞めましたから…そろそろ社会復帰もしたいですね。勿論、リフォームに時間がかかります。業者に頼まず私がほとんどDIYしますから。なので体調を整えつつ、坊ちゃんを迎え入れて、坊ちゃんのストレスが緩和されたら私も少し外で働こうかと考えています。まぁ、痺れたままの左足ですから無理は出来ないかもしれません。
伯母とのお別れを機にまた前を向いて行かなくちゃ。

一昨年は父方の伯母が亡くなり、昨年は親友の死を知らされて、ヘルニアで倒れて。ずっと心がパンクしていました。年末から伯母の危篤が続きました。危篤から何度も持ち堪えてくれました。でも伯母は凄い!お正月は避けてくれたし、1月の私の誕生日も避けてくれて、雨や雪も避けてくれて天気の良い日に旅立ってくれました。流石の晴れ女です!気が強くて情に厚くて苦労の連続の伯母だけど、いつだって前向き。感謝を込めてありがとうを伝えました。

母が「姉ちゃん、いつかまた会おうね!会えるかな?会いたいな!」と泣く姿は、とても辛かったです。母を支えないといけないけど、いつか私は高齢な両親を見送らないといけないんだとも痛感しました。
だけどまだまだ元気でいて貰わなくちゃ。それには私も元気でいなくちゃ。

皆様、大切な方にはいつだってお礼や感謝の言葉をかけて下さいね。私はいつだって言葉足らずで連絡不精でした。もう、後悔のしっぱなしです。情けない。だから、私の後悔 それも踏まえてマメな連絡をお願い致します。
皆様が健康で健やかに、そして皆様の大切な方も健やかにお過ごし頂けましたら幸いです。

長い長いブログとなりました。ここまで読んで頂き有難うございました。

本日もお読み頂き有難うございます。感謝致します。


ファン
検索
<< 2025年02月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
COCO-SHANTIさんの画像
COCO-SHANTI
心を込めて作る作品がどなたかのお気に入りになってくれたら嬉しいです。minne(ミンネ)さんにて手作り商品の販売をしております。 ブログはFANBLOGでのみ書いております。画像の無断転載はお断り致します。
プロフィール