2017年10月07日
凱旋門賞観戦記
個人的に応援し、馬券でも本命にした4歳サトノダイヤモンドは、緒戦のフォワ賞の内容からも苦戦が予測されたが、大方の予想通り、そしてこれまでの日本馬の多くが経験したように、残念ながら15着と大敗した。
2着のクロスザスターズ、3着ユリシーズなど、例年なら凱旋門賞馬と呼んで恥ずかしくないレベルの、今年は非常にハイレベルのレースだったように思う。優勝した3歳牝馬エネイブルにはどう転んだって勝てなかったとは思うものの、サトノダイヤモンドが本来の力を出せていたなら、クロスザスターズあたりとは好勝負だったようにも思う。
では、サトノダイヤモンドはなぜ本来の力を出せなかったのか・・・
広く言われた「馬場」が敗因だったのだろうか?確かに馬場もその一因であったことを、私は否定しない。しかし馬場だけ(つまりディープインパクト産駒だからとかステイゴールド産駒でないからとかオルフェーヴルでないからとかいうワケのわからん理由)ではないとも感じている。
池江調教師は「万全に近い状態でレースに臨むことができた」とコメントしていた。これは事実なのだろう。しかしこのコメントにサトノダイヤモンドの敗因の多くが込められているようにも私には感じられる。
2年続けて果敢にチャレンジしたオルフェーヴルのときは、だれがどう見ても「究極の仕上がり」だった。2年目はキズナに騎乗した武豊騎手からみても「オルフェーヴルはまったく隙がなかった。負かすことが難しく感じられた。1頭だけ違う雰囲気だった」とコメントしていた。
サトノダイヤモンドは師のコメントどおり「万全に近いデキ」ではあったのだろう。しかしこれは、「万全には仕上がらなかった(仕上げられなかった)」ことも同時に意味する。ここに師の真意と敗因の大きなヒントが隠されている。
確かに馬場が合わないとかディープ産駒だからとか、そういう要素もゼロではない。それにしても、サトノダイヤモンドがあんなに負けるか?というのが率直な印象である。フォワ賞があの競馬だから本番だって大敗は見えていた、というのもわかる。問題は、なぜフォワ賞があんな競馬になってしまったのか、のほうにある。
実際馬場だけに着目すれば、重馬場とはいえ2分28秒そこそこなら、本来のサトノダイヤモンドが大敗する時計ではない。オルフェーヴルの最初の年、ソレミアの勝ち時計は2分38秒近くである・・・明らかにサトノダイヤモンドの体調に問題があったと考えるのが自然だと思う。
事実「喘鳴」の兆候もあったという。いわれてみればそんな負け方だな、とも感じた。とすると、帰国してからもかなり心配な状況であることを意味する。競走馬生命にかかわる問題である。それだけあの春の天皇賞が過酷なレースだったということにもなる。そして、残念ながらサトノダイヤモンドには深刻なダメージが及んでいることにもなる。
すべては私の憶測にすぎない。こういうことだけは的中しないことを祈りたい。
それともう1つ感じたこと。オルフェーヴルファンのことである。
私もオルフェーヴルの大ファンである。オルフェーヴルのことならたいていの人に語り負けないくらい、ひと晩中語りあかせるくらいのレベルのコアなファンであると自負している。
凱旋門賞のたびに、敗れはしたがオルフェーヴルの雄姿に想いを馳せる気持ちはよくわかる。実際私だって毎年そうである。今年だってそうだ。忘れたくたって忘れられるものではない。オルフェーヴルの凱旋門賞は、いつにもましてほんとうに輝いていた。
どうもここ数年気になっていた。オルフェーヴルが2着に敗れて以降、ハープスター、ジャスタウェイ、ゴールドシップ、マカヒキ、そしてサトノダイヤモンド、サトノノブレスの6頭すべてが、着順はともかく内容的には全然相手にしてもらえなかった。
しかしそうした敗戦を見て、相対的に「オルフェーヴルはすごかった」という意見は、私にはどうも納得いかないロジックである。オルフェーヴルが勝っていたならまだしも、オルフェーヴルだって上記6頭とまったく同じ「敗者」である。オルフェーヴルはどこか勝利に執着しないというか、自分からちゃぶ台をひっくり返してしまうところも確かにあったけれど、どんなに素晴らしい走りを見せたとしても、負けは負けなのだ。
だから想像を絶するリスクを知りながらも果敢にチャレンジし、敗者となったチャレンジャーを見て、オルフェーヴルのすごさを再確認するロジックは、少なくとも私の思考回路では成立しえないのである。
もっと言えば、たとえマカヒキが2着に大健闘しようがサトノダイヤモンドが優勝しようが、そんなこととは無関係に、「オルフェーヴルがすごい」ことなんて、当たり前すぎる事実である。オルフェーヴルが負けたレースでわざわざ引っ張り出して、「あなたはすごかった!」などといったところで、あのオルフェーヴルが喜ぶはずがないのだ。
いくらナショナリズム欠如の進行に歯止めがかからないこのご時世ではあっても、競馬にナショナリズムを反映させるほど私はバカではないつもりでいる。ただ、どんなに頑張っても、過去の名馬は過去の自分を超えることなど絶対にできないのである。
だからこそ、応援していた名馬の産駒に夢の続きを託すことや、その名馬が果たせなかった夢に再び挑むチャレンジャーを応援することに価値を見いだせるというものだと、少なくとも私は考えている。
ここ数年、「オルフェーヴルが勝てなかったんだから、勝てるはずがない」の理屈が、結果は別にして、正当にまかりとおっていることがどうにも気になるのだ。そして、チャレンジャーが負けるたびに「やっぱりオルフェーヴルはすごかった」というオルフェーヴルファンの声が聞こえてくることにも。
2着のクロスザスターズ、3着ユリシーズなど、例年なら凱旋門賞馬と呼んで恥ずかしくないレベルの、今年は非常にハイレベルのレースだったように思う。優勝した3歳牝馬エネイブルにはどう転んだって勝てなかったとは思うものの、サトノダイヤモンドが本来の力を出せていたなら、クロスザスターズあたりとは好勝負だったようにも思う。
では、サトノダイヤモンドはなぜ本来の力を出せなかったのか・・・
広く言われた「馬場」が敗因だったのだろうか?確かに馬場もその一因であったことを、私は否定しない。しかし馬場だけ(つまりディープインパクト産駒だからとかステイゴールド産駒でないからとかオルフェーヴルでないからとかいうワケのわからん理由)ではないとも感じている。
池江調教師は「万全に近い状態でレースに臨むことができた」とコメントしていた。これは事実なのだろう。しかしこのコメントにサトノダイヤモンドの敗因の多くが込められているようにも私には感じられる。
2年続けて果敢にチャレンジしたオルフェーヴルのときは、だれがどう見ても「究極の仕上がり」だった。2年目はキズナに騎乗した武豊騎手からみても「オルフェーヴルはまったく隙がなかった。負かすことが難しく感じられた。1頭だけ違う雰囲気だった」とコメントしていた。
サトノダイヤモンドは師のコメントどおり「万全に近いデキ」ではあったのだろう。しかしこれは、「万全には仕上がらなかった(仕上げられなかった)」ことも同時に意味する。ここに師の真意と敗因の大きなヒントが隠されている。
確かに馬場が合わないとかディープ産駒だからとか、そういう要素もゼロではない。それにしても、サトノダイヤモンドがあんなに負けるか?というのが率直な印象である。フォワ賞があの競馬だから本番だって大敗は見えていた、というのもわかる。問題は、なぜフォワ賞があんな競馬になってしまったのか、のほうにある。
実際馬場だけに着目すれば、重馬場とはいえ2分28秒そこそこなら、本来のサトノダイヤモンドが大敗する時計ではない。オルフェーヴルの最初の年、ソレミアの勝ち時計は2分38秒近くである・・・明らかにサトノダイヤモンドの体調に問題があったと考えるのが自然だと思う。
事実「喘鳴」の兆候もあったという。いわれてみればそんな負け方だな、とも感じた。とすると、帰国してからもかなり心配な状況であることを意味する。競走馬生命にかかわる問題である。それだけあの春の天皇賞が過酷なレースだったということにもなる。そして、残念ながらサトノダイヤモンドには深刻なダメージが及んでいることにもなる。
すべては私の憶測にすぎない。こういうことだけは的中しないことを祈りたい。
それともう1つ感じたこと。オルフェーヴルファンのことである。
私もオルフェーヴルの大ファンである。オルフェーヴルのことならたいていの人に語り負けないくらい、ひと晩中語りあかせるくらいのレベルのコアなファンであると自負している。
凱旋門賞のたびに、敗れはしたがオルフェーヴルの雄姿に想いを馳せる気持ちはよくわかる。実際私だって毎年そうである。今年だってそうだ。忘れたくたって忘れられるものではない。オルフェーヴルの凱旋門賞は、いつにもましてほんとうに輝いていた。
どうもここ数年気になっていた。オルフェーヴルが2着に敗れて以降、ハープスター、ジャスタウェイ、ゴールドシップ、マカヒキ、そしてサトノダイヤモンド、サトノノブレスの6頭すべてが、着順はともかく内容的には全然相手にしてもらえなかった。
しかしそうした敗戦を見て、相対的に「オルフェーヴルはすごかった」という意見は、私にはどうも納得いかないロジックである。オルフェーヴルが勝っていたならまだしも、オルフェーヴルだって上記6頭とまったく同じ「敗者」である。オルフェーヴルはどこか勝利に執着しないというか、自分からちゃぶ台をひっくり返してしまうところも確かにあったけれど、どんなに素晴らしい走りを見せたとしても、負けは負けなのだ。
だから想像を絶するリスクを知りながらも果敢にチャレンジし、敗者となったチャレンジャーを見て、オルフェーヴルのすごさを再確認するロジックは、少なくとも私の思考回路では成立しえないのである。
もっと言えば、たとえマカヒキが2着に大健闘しようがサトノダイヤモンドが優勝しようが、そんなこととは無関係に、「オルフェーヴルがすごい」ことなんて、当たり前すぎる事実である。オルフェーヴルが負けたレースでわざわざ引っ張り出して、「あなたはすごかった!」などといったところで、あのオルフェーヴルが喜ぶはずがないのだ。
いくらナショナリズム欠如の進行に歯止めがかからないこのご時世ではあっても、競馬にナショナリズムを反映させるほど私はバカではないつもりでいる。ただ、どんなに頑張っても、過去の名馬は過去の自分を超えることなど絶対にできないのである。
だからこそ、応援していた名馬の産駒に夢の続きを託すことや、その名馬が果たせなかった夢に再び挑むチャレンジャーを応援することに価値を見いだせるというものだと、少なくとも私は考えている。
ここ数年、「オルフェーヴルが勝てなかったんだから、勝てるはずがない」の理屈が、結果は別にして、正当にまかりとおっていることがどうにも気になるのだ。そして、チャレンジャーが負けるたびに「やっぱりオルフェーヴルはすごかった」というオルフェーヴルファンの声が聞こえてくることにも。
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投稿者:ASHIGE2|12:32
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