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2017年08月17日

<終戦の日>父の自決、70年過ぎ知る 101歳母と追悼式

ヤフーニュースより引用

<終戦の日>父の自決、70年過ぎ知る 101歳母と追悼式 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00000038-mai-soci


 戦死した夫をしのぶ人。残された母の苦労を思う人−−。終戦から72年となる15日、今年も妻からひ孫まで全国の戦没者の遺族が東京都千代田区の日本武道館に集い、全国戦没者追悼式に参列した。二度と悲惨な戦争を繰り返さないよう、すべての人が平和への誓いを新たにした。

 ◇薄れる記憶「語り継ぐ」

 参列した遺族の最年長、芹ケ野春海(せりがの・はるみ)さん(101)=東京都練馬区=は小雨の中、長男の憲一さん(74)に車椅子を押してもらいながら武道館に入った。「戦争なんて嫌だもんね」と、春海さん。憲一さんは道すがら「お父さんのお参りに行くんだよ」と話しかけていたという。

 沖縄で夫の博さんが31歳で没して72年。春海さんの当時の記憶はおぼろげになり、幼かった憲一さんにも父の思い出はない。それでも「母は『元気なうちは行きたい』と話していた」(憲一さん)と、3年続けて式典に参加した。

 博さんは、沖縄の組織的戦闘が終結したとされる翌日の1945年6月24日、沖縄県本部(もとぶ)町で亡くなった。その死が自決だったと憲一さんが知ったのは昨年のことだ。

 親戚宅で古い荷物の整理をしていたら、表書きに「肉筆書」とある封書が出てきた。<沖縄より復員して参りましてようやく……>。父が所属していた部隊長が春海さんに宛てた手紙だった。父のことを「博様」と呼んでいた。

 手紙によると、父は部隊の見回りの際に銃撃を受け、胸や腹に被弾。手投げ弾で反撃した後、手元に残る一発を抱いて自死したという。<(博様は)私の一番親しく一番頼みとし、一番良く働いてもらった。亡きがらを眺めて歯ぎしりし、6人で抱き合って泣きました>。初めて知る父の最期に、憲一さんは涙で読み進めることができなかったという。

 体も記憶力も弱まった春海さんが語る夫の思い出は断片的だ。看護師をしていたころに博さんと知り合い、鹿児島などで暮らした。子どもができて間もなく出征。結婚生活は短かったが「面倒見のいい優しい人だった」と振り返る。

 戦後は郷里の茨城県筑波町(現つくば市)に戻り、毎日大きな紙の米袋を背負って、汽車で東京の上野や日暮里へ行商に出た。憲一さんは「お父さんがいないんだから、しっかりしなさいよ」と母に時折言われたのを覚えている。

 戦争が終わってしばらく、春海さんは帰還兵が乗る列車を見るたびに「生きて帰って来てくれればなあ」と思っていたという。今も毎朝洗顔を済ませると、仏壇に向かいお経を読むのが習慣だ。

 春海さんは3年ほど前、子宮のがんが見つかった。「戦没者の妻はもう少ない。私たち世代が戦争を語り継がなければ」。母の小さい背中を見ながら、憲一さんは72年の歳月を思う。【山田泰蔵】











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