2017年08月29日
<羽田孜氏死去>評伝 愛ある政治を求め
1993年夏の衆院選。ある駅頭で羽田孜氏がマイクを手に語り始めたのは、我が子を殺(あや)めて命からがら満州から帰国したという女性と列車で乗り合わせたときの話だった。「政治は二度とこんなことを引き起こさないようにしっかりしてください」。女性はそう言って羽田氏の手を握りしめたという。「政治改革とは、この思いをかなえること」。淡々と訴える羽田氏を、買い物の主婦も帰宅途中のサラリーマンも足を止めてじっと見上げていた。「政治改革」の4文字が有権者の胸に響き渡った「一瞬」として思い出す。
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自民党農政族のリーダーでもあった羽田氏だが、その政治人生は政治改革とともにあった。リクルート事件によって政治不信が広がるさなか、羽田氏は自民党選挙制度調査会長に就任し、衆院小選挙区制度の導入にまい進した。最大派閥・竹下派の金丸信会長(当時)から「熱病に浮かされている」とまで言われた。
政治改革を巡る動きは竹下派の分裂抗争を引き起こした。羽田氏はその渦中にあって一人、飄々(ひょうひょう)と振る舞った。日曜の昼下がり、金丸邸に手土産一つぶら下げて現れ、色めき立つ記者たちに「会長の無聊(ぶりょう)を慰めようと思ってさ」と言ってウインクしたものだ。
対立する小沢一郎氏と梶山静六氏のどちらにも与(くみ)せずと見えた羽田氏だっただけに、権力闘争に執念を燃やす小沢氏と組んだのはいささか意外だった。いま思えば、それも政治改革を成し遂げようとする熱い思いゆえの冷徹な判断だったのかもしれない。
その後、羽田氏を首相に担ぎ上げた理由を小沢氏は「友情の恩返し」と語ったが、羽田氏はどう受け止めていたのか。
選挙区の長野県を愛する無類のそば好きだった。「君たちも食え、うまいぞ」。JR上田駅前のそば屋でそば談議を聞いているうちに帰京の特急列車がホームに滑り込んできた。改札を抜けていては間に合わない。「君ら、走れ」。一緒にフェンスを乗り越え列車に飛び乗った秋が無性に懐かしい。政治の底流に愛情が必要なことを体現し続けた人だった。【元毎日新聞政治部記者、元TBS政治部長、流通経済大教授・龍崎孝】
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