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2018年02月14日
【物語の主題】分身と相似関係
物語ひいては芸術作品には主題というものがあります。これまで、なにをどう書くかのタグでは、どちらかというと後者――どう書くか(=様式)に注目してきましたが、今回からは、文学史に散見されるいくらかの物語の主題について、種類ごとに考察してみようと思います。
※「ウィリアム・ウィルソン」、『ブラック・スワン』、ドストエフスキー『分身』、ツルゲーネフ『初恋』、『蒲団』『金閣寺』など、いくらかの作品についてネタバレを含む場合がありますので、ご留意ください。
分身あるいはドッペルゲンガー、そして双子
エドガー・アラン・ポーの作品に「ウィリアム・ウィルソン」という短編小説があります。語り手であり主人公でもある登場人物ウィリアム・ウィルソンが、同姓同名で姿もそっくりの同級生につきまとわれ、それに対峙するという内容の小説です。
それはウィルスンであった。けれども彼はもうささやきでしゃべりはしなかった。そして私は、彼が次のように言っているあいだ、自分がしゃべっているのだと思うことができたくらいであった。――
「お前は勝ったのだ。己は降参する。だが、これからさきは、お前も死んだのだ、――この世にたいして、天国にたいして、また希望にたいして死んだんだぞ! 己のなかにお前は生きていたのだ。――そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」(「ウィリアム・ウィルスン」青空文庫 佐々木直次郎訳)
このウィリアム・ウィルソンという名前はまた、ポール・オースター『ガラスの街』の主人公が自身のペンネームとして引用している名前でもありますし、上に挙げた引用部は、映画『ブラック・スワン』の結末にも影響を与えています。(もっとも、『ブラック・スワン』における分身は、主人公とは名前も見た目も別人で、性格も正反対です)
いわゆるドッペルゲンガーと呼ばれる分身は、芸術作品の主題/題材としてこれまでにも多く扱われてきました。あるいはここに、『悪童日記』における双子のような存在もまた追加してよいかもしれません。姿形がまったく同一である二人の人物が物語に登場する場合、これら二者は、たとえば性格や境遇といった限定された点で正反対であることが多く、この共通点と非共通点とが、読者の想像力を喚起するのです。
たとえば、外見はまったく同一であるにもかかわらず、かたや陰鬱な内省的性格で交友関係に恵まれず、かたや溌剌とした社交的性格で交友関係に恵まれる――これはドストエフスキー『分身』などに見受けられる種類の分身の構図で、この構図は、性格が違うだけでありえたかもしれないもう一つの現在を意識させたり、それにもかかわらず変化できない陰鬱な主人公の劣等感を浮き彫りにさせたり、主人公が病的であることを簡単に示すことができたりと、多様な利点を持っています。
とくに、病的であるという点について言うと、晩年の芥川龍之介がドッペルゲンガーを見ていたというのが有名な話で、著作「歯車」にはその影響が現れています。
もっとも、分身を扱うことで現れるこれらの効果は、分身を登場させないでも再現することが可能です。
分身が登場することで得られる特別な効果といえば、その作品が幻想的な様相を帯びるということ、また、分身という現実的ではない存在によって寓意的なわかりやすさ、エンターテイメント的なキャッチ―さを得ることができるということで、上述した、あり得たかもしれない現在や主人公の劣等感などは、分身に特有のものではないと言うことができます。
ここから、さらに抽象的に一歩進んで考えると、登場人物の相似関係もまた、分身を登場させることによって得られる効果を帯びている場合があることがわかるのです。
登場人物の相似関係
相似というものについては、中学校の数学で習いますね。正三角形や正方形は、その面積が違っても、それぞれまったくおなじ形をしています。これを登場人物の相似関係に重ねたとき、面積の違い=それぞれの登場人物の非共通点である、ということになります。わかりやすいものは、たとえば登場人物の年齢です。
物語において、登場人物の年齢はかなり重要視されてきました。たとえば、年齢を符丁とした黙説法というものがあります。ツルゲーネフの『初恋』を例に挙げてみましょう。
『初恋』は、その題名が示す通り、主人公の初恋の話です。語り手がまだ十六歳だったころ、ジナイーダという女性にほとんど一方的に恋していたことと、その挫折とが回想されるという、ごく単純なあらすじです。
物語のあらすじだけを見ると、相似関係についてはなにもわかりませんが、登場人物の年齢にういて考えると見えてくるものがあります。
この物語を回想している主人公ウラジーミルは、現在およそ四〇歳です。回想のきっかけとなるのは、酒場でのおじさん同士の恋バナなのですが(笑)、話を振られたウラジーミルは、「自分の初恋の話は云々ですから、ノートに書いて持ってきます」などと言って、日を跨いで、この長大な『初恋』の大部分を提示します。これだけでも、ウラジーミルが内省的で執着的である人間であるのがわかるのですが、この点は、件の挫折によって、より明瞭に浮き上がります。それというのも、最終的にジナイーダの気を惹いたのが、ウラジーミルの父であるピョートルなのです。このピョートルは、ドン・ファン的なモテ男であり、簡単にジナイーダをモノにし、同時にまた簡単にジナイーダを振ってしまいます。そして、このときのピョートルの年齢が(たしか)四二歳で、物語内における時間経過や登場人物の年齢に注意してよくよく読んでゆくと、現在のウラジーミルと同年であることがわかるのです。
ここで、父と子との対比の構図がはっきりとします。かたや、バリバリに活動的で女にモテる四十路である父親と、かたや、長大な初恋話にふける冴えない四十路である自分――父と子の対比は、『初恋』において直接的に示されてはいませんが、年齢を符丁とする方法によって、それとなく示唆されているのです。
あるいはまた、対比ではなく、ある人物の過去と未来とを想像させる種類の相似関係があります。それはたとえば、田山花袋の『蒲団』です。あらすじは、もう書き出すのが面倒なので、Wikipediaからそのまま引用してしまいます(笑)。
三四歳くらいで、妻と三人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。
時雄は監視するために芳子を自らの家の二階に住まわせることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。
ここで相似関係にあるのは、引用部で太字にした、主人公竹中時雄と芳子の恋人である田中秀夫、それから芳子の父親である兵蔵との三人です。この三人にはその外見、境遇の点で、共通するところがあります。たとえば「エホバの思召」や「運命」をめぐる境遇、優柔不断な性格や「一歩の相違で運命のただ中に入ることが出来ない」ところ、あるいは時雄と田中とは結末部でともに「茶色の仲折帽」を被っていたりなどもします。終盤で語り合う三人はまるで一人の男の青年期、中年期、老年期といった感じです。ここでは、主人公に竹中時雄を置いているものの、その存在には、ある種の男の抽象的な側面が色濃く反映されているのです。
この相似関係=一人の人物をその人生の段階ごとに切り取るように描写する方法は、三島由紀夫『金閣寺』における女性像の提示にも見受けられます。記事が長くなってしまったので、具体的なところは割愛しますが、『金閣寺』に登場する複数の女性たちもまた相似関係にあり、この相似関係にある女性たちの集合は、作中で金閣寺が持つ(とされている)永遠の美についての観念と対比関係にあります。このことはいずれ、阿部和重の『ニッポニアニッポン』と合わせて取り上げたいと思います。
おわりに
このように、分身や登場人物の相似関係は、近現代の小説からコンテンポラルな小説まで、多くの文学作品に応用されてきました。最近だと、星野智幸の『俺俺』などがそうです。これらの構造に注意することによって見えてくるものもあるので、ぜひ実践してみてくださいね!
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